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キリストに結ばれて生きる恵み (ローマ6:1~14)

メッセージ
20021/8/8
富里キリスト教会礼拝説教
「キリストに結ばれて生きる恵み」
(ローマ6:1〜14)

①恵みに生きることに対する勘違い
私たちは今年度に入って、このローマ書を順々に追ってきましたが、ここまで一体私たち人類の救いというものはどのようになされるのか、また一体私たちは何から救われなければならないのか。そういったパウロの語る神の福音を見てまいりました。
人はけっして行いによっては救われない。それは全ての人間は等しく罪人であり、神の御前に立った時、正しい人など一人もいないからである。その罪に囚われ、苦しむ私たちは、神の憐れみ、恵みである十字架の贖いという一方的で完全な愛を受け入れ、信じることによってのみ救われるのだ。救いに関して、行いは無意味だ。信仰のみだ!!このパウロが語る信仰義認という聖書の真理を約500年ほど前に、マルティン・ルターという人物が見出し、カトリックに対し95か条の提題という、ある意味挑戦状のようなものをヴィッテンベルグの教会の門にたたきつけました。非常に目立ち、センセーショナルなできごとだったようですが、ルターはあえてそのようにしたのでしょう。そして、その出来事と彼の主張はヨーロッパ中に広がっていき宗教改革は起こされました。
当時のカトリック教会は貧しいものへの施しや、教会への献金などの善行にたいするご褒美、つまり行いによって救われ、天国に行けるという考え方でした。その考え方がエスカレートし、当時のカトリックが非常に腐敗していたこともあり、いわゆる免罪符と言われる贖宥状まで売りに出されるようになっていました。救いに関わる事柄をお金で解決できるようなことまで言ってしまったのです。
このカトリックに対してルターは、その贖宥状の聖書的根拠はどこにあるのか、救いは行いではなく信仰によってのみ救われるということを主張していき、その真理はあらゆる人たちに受け入れられ始めていきました。しかし、他方で逆にこの信仰義認の真理に対し、反論や、誤解などもでてきました。この信仰義認に対する反論、誤解というものはこの宗教改革の時や、パウロがローマ書を書いた時代、そして現代に生きる私たちの教会においても、常にでてくるものです。
それは、行いが関係ないなら、罪を犯してもいいじゃないか。何もしなくてもいいじゃないか。むしろ恵みを感じるために罪の中にいた方が良いのではといったものでした。今日の冒頭の箇所にもそのようなことが書かれていますが、このローマ書の中ではこの論法と同じような反論がなんども出てきます。3:8にある、善が生じるために悪をしようという主張や、6:15の恵みのもとにいるのだから罪を犯して良いという主張がそのようなものと言えるでしょう。信仰のみによって救われると言った時、このように信じるだけで何もしなくていいと勘違いする者が現れてきます。ルターはそのような者に対して非常に苦労したようです。ここでのパウロも同じです。
そのように主張する者に対して、パウロも「決してそうではない。」と強く語ります。あくまで信仰のみだといいます。信仰のみだというと、真面目な人はそれだけでいいの?なんか、ありがたみがないなぁと戸惑うことがあると聞きます。なにかそれだけでは不安になって何かを付け足したくなってしまうそうです。
しかし、信仰のみということはただ単純に知識として信じるということだけを意味しません。救いは決してインスタントなものではないのです。イエス・キリストを信じるということは、自分の中にある罪を完全に認め、ただ救いはこの十字架にしかないと信じ、このお方の愛を受け止め、握りしめていた自我を手放し、人生の操縦桿を完全に神様に明け渡すこと。もはや私の人生ではなく、キリストのために人生を喜んでささげる。こう言ったことを意味します。

ガラテヤ2:20
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

キリストとの一体化。これこそが信仰であると言えます。信仰とはただの口先や理性だけのものではないのです。この信仰を神は義と認め、私たちは罪赦され、そしてキリストとの一体化の中で罪から解放されていくのです。

②バプテスマの意味
そして、そのキリストとの一体化である信仰とは、バプテスマを通してなされていくとパウロは言います。

ローマ6:4
「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

私たちは、聖霊のバプテスマによって主イエスを信じ、告白をした者です。それは罪に死に、キリストの新しい命によって新生、新しく生まれ変わった者を意味します。新生。私たちに馴染みのある言葉ですね。新生賛美歌の新生です。私たちの大切にしている浸めの式であるバプテスマ。これは、私たちの心に起こっている救い、霊的な回心と新生をまさしく象徴的に表している行為なのです。
バプテスマは聖霊が罪人の心に働かれることによって罪の悔い改めと十字架のみわざへの信仰が与えられ、滅びの子としての状態から救われて神の子とされるという信仰の出発点なのです。古い自己の罪がキリストの十字架の死とともに滅ぼされて死んだこと。そしてキリストが死の中からよみがえられたように新しい命を与えられた自分がキリストとともに蘇ったことを象徴するものなのです。
このように私たちは新たに生まれ変わった、新生した者なのです。しかし、当然ながら死ななければ生まれ変わることはできません。救いとは死と生、その両面の性質を持つものです。ここから少しバプテスマの死と生について見ていきましょう。まずは、死からです。バプテスマはこの私がキリストと共に死ぬことを意味します。ですから、ある意味バプテスマとはイエス様と私の合同葬儀という一面があるといえます。
それは、罪と自我に満ちた私自身の死であります。もはや罪に囚われた自分は十字架と共に死んだ。自分の握っていたものは全て手放し、神様に明け渡そう。もう私のための人生はこれで終わりだ。こういった心境です。まさに罪に、自分に対して死んでいます。
次に生についてみていきましょう。「武士道というは、死ぬことと見つけたり」という言葉がありますが、しかし、キリスト教の真髄は生きることにあります。死んだのは生きるためのものです。死ななければ新たに生まれることができないからです。信仰者は、罪に死んだ後、キリストの復活の命、新しい命が与えられ、生まれ変わり、新しい者として生きるようになるのです。

Ⅱコリント5:17
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

キリストの復活にあずかり、その新しい命に生きる。まさにキリストの結合、一体化がそこにあります。その姿は、二人が一体となる結婚を彷彿とさせます。バプテスマはキリストとの葬儀でありながら、キリストとの結婚式でもあるのです。罪に死にイエス・キリストと一体となって新しい命に生きる。これがキリストを信じるということなのです。そして死に打ち勝ち、復活なされた主イエスの命は決して消えることはありません。このキリストの命と一体となっている私たちも、もはや死と罪の世界から解放され、神の永遠の命の中で生きていくのです。自分の罪に対して死に、神に対して生きているのです。


ローマ6:11
「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」

このように考えなさい。そうパウロは言います。私たちは、罪に死にキリストによって生きている。確かにそれは紛れも無い事実。しかし残念ながら、そう考えにくい事実もある・・・。弱き私なんかは、そう言わざるを得ないところがあります。罪に死んでいるはずなのに、体を欲望に従わせたい。自我がムクムクと沸き上がり、自分の人生を好きなように生きたい。そういった神に対して不従順な自分がまだいるのです。
しかし、それでもパウロはそう考えなさいと言うのです。ふがいない自分を見るのではなく、確かな神の約束を見なさいということなのです。この、考えなさいという言葉は、認めなさいとも訳すことができます。新改訳ではそのような訳です。確かに罪に死にきれていない自分がいる。しかし、それでも私はキリストに結ばれて神に対して生きているのだ。神がみことばを通してそのように約束されたのだから。このように認め、踏みとどまり、宣言していく、そういったことの大切さがここでは言われているのではないでしょうか。
主イエス・キリストを信じた者は、神との和解による関係回復が起こされる。そして、それは神の子どもとされることをも意味すると以前、語りました。神様は罪に囚われ、みなしごであった私たちを憐れみ、拾い上げ、我が子として養子縁組をしてくださったのです。信仰義認という恵みによる救いとは、罪の赦しと神の子とされるという二つの意味合いがあります。
神が私を養子として迎えてくださった。しかし、この事実は、最初は内実の伴わない名目だけの子供だといってよいでしょう。私たちが生きるこの社会の中でも、もし養子縁組をしたならば、確かに法律上はすぐに子供であると認められます。しかし、その手続きだけですぐに本当の親子になれるわけではありません。
最近、ある私の友人夫妻が、養子を迎え、育てることになったのですが中々に大変そうです。ただでさえ、子育ては大変ですが養子となると、またさらに特有の課題などがあるのかもしれません。しかし、その中にあっても踏みとどまり、じっくりゆっくり時間をかけていくことによって本当の親子へとなっていくのでしょう。
子供の方も最初は、子供と迎えられながらも形だけのものであり、子としての実感がないかもしれません。しかし、親の愛を受けて、その場に留まり続ける中で、その子は親子であることを実感し、だんだんとその親に似ていき、本当の意味での内実の伴った親子関係へとなっていくのではないでしょうか。
私たちと神様の関係も同じなのです。私たちはキリストへの信仰ゆえに義と認められ、神の子とされました。しかしそれは正直言いますと、まずは形の上で正しいと認めてくださっているだけなのです。信仰義認とは救いの完成ではなく実は、救いの始まりなのです。父なる神の懐で抱かれ、愛をいただく中でキリストの義が少しずつ私のものとなっていくのです。
未だなお、罪ある者であるが、しかしそれでも主は私を救い出してくださったのだ。そのように救いの事実を認め、主に留まり続けることによって私たちは罪から離れ、きよめられ、だんだんとキリストに似た神の子とされていくのです。これを神学用語で聖化と言います。聖書のいう救いとは罪の赦しである義認、そして罪からの解放である聖化、この両面にあります。
ただもちろん、聖化は黙って自動的にされていくわけではありません。そのようになれるように神様に心から祈り求めていく必要があります。そして、自分の罪から目をそらさず向き合うのです。それは至らない自分を見つめる辛い作業であるかもしれません。しかし、主はそのような砕かれた魂を決してさげすまれません。罪に嘆くその涙をぬぐい、なにがあってもお前はすでに私の子だよといって抱きしめてくださるのです。その安心感と温かな愛の中で、私たちは神の子としてふさわしく、内実の伴ったきよい者へと変えられていくのです。
私たちはもはや罪に対して死に、キリストに結ばれて、神に対して生きる者です。至らなさを覚えながらも、それでも神の救いの事実を認め、信じ、少しずつ罪から離れ、本当の意味での神の子としてきよめられながら、新生したものとして生きてまいりましょう。

Ⅱコリント5:15
「その一人の方は全ての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

武井誠司

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