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カレブの信仰 (ヨシュア記14:6~15)

メッセージ
2016年12月4日富里キリスト教会

「カレブの信仰」
(ヨシュア記14:6~15)

1.40歳のカレブの信仰

民数記13章を読みますと、かつてモーセに引き入れられたイスラエルの民が、荒野の旅を終えていよいよ、約束の地カナンに攻め入ろうとした時です。先に12名の偵察隊を、カナンの地に遣わしました。その時に12名の偵察隊に入ったのが、エフライム出身のヨシュアとユダ族出身のカレブでした。12人はあちこち偵察しましたが、ちょうどアナク人と言う巨人の子孫が住んでいたヘブロンに来た時、そこのエシュコルの谷でぶどうの実一房を切り取って宿営地に持って帰りました。

そこでカレブは、モーセに復命して言いました。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」と。ところがヨシュア以外の他の偵察に言った人々は、「あそこの住民は皆背が高くて巨人のようで強そうだ、とても勝ち目がない。」と言いました。すると民全体が、もう一度エジプトに引き返そうとモーセに文句を言って食ってかかりました。この間モーセとアロンは民の前にひれ伏して、彼らの抗議の声を黙って聞いていました。

偵察隊のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブだけは、民全体にこう訴えました。「あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守る者は離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」と訴えました。しかし民全体はこの二人の信仰ある者の声を抹殺して二人を殺そうとさえしたのです。このような民の不信仰に直面して、主は彼らを滅ぼそうとしました。しかしモーセは、主に向かって必死にとりなしの願いをしました。その結果、神は罰として偵察に行った日数の40日に応じて、40年間、再び荒野での旅をしなければならないと命じたのです。(民数記13~14章)

この時カレブは40歳でした。そしてさらに40年間の荒野での旅を経て、イスラエルの民全体が砂漠での厳しい訓練と試練の中で鍛えられ、ようやく。再び約束の地を目の前にしたのです。あのエシュコルのぶどうの房事件から実に40年間、そしてさらにカナンに入ってから5年間、カレブは既に85歳の年を重ねていました。このヨシュア記14章の6節以下は、その時のことを振り返りながら、85歳になったカレブが、新しい民のリーダーヨシュアに対して、かつて主が自分に約束してくれたあの巨人の子孫であるアナク人が住むヘブロンの地を、自分に攻略させてほしいと進言したのです。

14:6以下のかっこの中を読んでみます。「主がカデシュ・バルネアでわたしとあなたのことについて神の人モーセに告げられた言葉を、あなたはご存じのはずです。主の僕モーセがわたしをカデシュ・バルネアから遣わし、この地方一帯を偵察させたのは、わたしが40歳の時でした。わたしは思ったとおり報告しました。一緒に行った者たちは民の心をくじきましたが、わたしはわたしの神、主に従い通しました。その日、モーセは誓って、『あなたがわたしの神、主に従い通したから、あなたが足を踏み入れた土地は永久にあなたと、あなたの子孫の嗣業の土地になる』と約束しました。ご覧ください。主がモーセにこの約束をなさって以来45年、イスラエルがなお荒れ野を旅した間、主は約束通りわたしを生き永らえさせてくださいました。今日わたしは85歳ですが、今なお健やかです。」(ヨシュア記14:6~11)

老勇士カレブは、かつて45年前に主が彼に約束された言葉(申命記1:36)を、しっかりと覚えておりました。そしてヨルダン川の西岸の地域を9部族とマナセの半部族が相続の地として割り当てられようとした時、総大将のヨシュアのもとに来て言ったのがこの言葉です。「40年前に主が約束した通り、わたしはあの巨人の住むヘブロンを奪い取ります。どうぞわたしにかの地を分配して下さい」と願い出たのでした。

あの時自分は40歳だったと言っています。そして今は85歳となった。それでも彼は、主の約束の言葉を忘れてはいませんでした。45年前は、10対に2で不信仰の言葉を吐いた他の斥候に負けてしまいました。いくら信仰的に正しいことを言っても、10対2では負けてしまいます。この時の多数決の差は、数による民主的な差ではなく、むしろ不信仰と信仰の差であったのです。そして、あの時は残念ながら不信仰が勝ちました。

その結果、イスラエルの民は、もう一度荒野へと退かさせられて、40日分にあたる40年間、荒野の旅をしなければなりませんでした。いわば信仰の鍛え直しをされたのです。そして不信仰の部分は全部、途中で荒野に死に絶えて、その子孫と当時攻め入ろうと進言したヨシュアとカレブだけは、生き永らえて約束の地に入ることを許されたのでした。民の指導者であった、モーセも途中でたった一回だけ主に文句を言ったかどで、生きて約束の地には足を踏み入れることを許されませんでした。

2.85歳の時のカレブの信仰

カレブはこう言っています。「今日わたしは85歳ですが、今なお健やかです。モーセの使いをしたあの頃も今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります。どうか主があの時約束して下さったこの山地をわたしに下さい。あの時、あなたも聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々がありますが、主がわたしと共にいて下さるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。」(14:10~12)

85歳のカレブは、ヨルダン東岸の今のイスラエルのあたりの町ですが、ユダ族の所領として、特に自分にはあの時偵察に行った巨人の住む町ヘブロンを割り当て地として下さいと願い出たのです。なぜなら、あの時主はわたしに、モーセを通してはっきりと、「カレブが足を踏み入れた土地を彼に与え、その子孫の者とする。彼は主に従い通したからである。」(申命記1:36)と言ったからですと言いました。カレブは、85歳になっても昔、45年前に主が自分に約束して下さった言葉を覚えていました。

確かに年輪を重ねると言うことは、誰でも経験することです。でも、年を取った、何歳になった、物忘れが多くなった、目が見えなくなった、しわが増えたと思うのはこれは誰にでもあることです。聖書にも、人間、皆年をとれば、あちこちにガタがくると書かれてあります。だから、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。喜びがないという年齢にならないまえに。」(コヘレト12:1)と勧めています。ただコヘレトの最後の言葉は、「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべて。」(コヘレト12:13)と言う言葉で終わっています。

カレブは、自分は85歳になっても健康です。戦争に行くことも、ふだんの事務能力もありますと言っています。でも彼もやがては年老いるでしょう。85歳までは何とか体は持っても、百歳になったらどうなるのでしょうか。それでも元気です。戦争にも行けますと言えるでしょうか。体が動かないのに、沖縄に行ってマスターライフの講習会をやって来るとか、CWTを教えて来ると言ったら、それは年寄りのやせ我慢になってしまうのではないでしょうか。体は正直衰えて来ます。

でもカレブもヨシュアも、「45年前と同じようにわたしたち働けます。」と言うのは、どこにその力と気力と知恵があるのでしょうか。それはヨシュア14:12にありますとおり、「主がわたしと共にいて下さるなら、約束どおり彼らを追い払えます。」と言っています。つまり、40歳の時も85歳の今も、大事なことは主が共にいて下さるならできますと言う信仰です。自分の体力や能力ではないのです。主の体力、能力、力なのです。

年をとって人格に厚みが増して、どっしりと落ち着いて来ると言うことはいいことですが、年を取ったからと言って弱気になってはいけないと思います。また年を取ったから、もう奉仕する場所はないし、あまりでしゃばってはいけないと引っ込み思案になる必要もありません。若い人の邪魔にならないようにと言うこともありません。あるいは人生もう何もかも手遅れだと諦める必要もありません。

わたしたちは、この外側の外なる人はどんどんと老いて弱って行きますが、それに反比例してクリスチャンは内なる人がいよいよ輝きを増し来るのです。光輝いて来ます。女性は若く美しくなってきます。男性は天使のように真っ白に輝いて来ます。なぜか、それは外なる人は滅びますが、内なる人の光によって輝いて来るからです。モーセは「死んだとき120歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。」(申命記34:7)とあります。

3.主が共におられる

カレブは常に、このお方を目の前にして歩んできました。ですから、今85歳になっても、このお方が共におられるから、わたしは恐れません。たとえあのヘブロンに巨人の子孫がいても、主が共におられる故に、わたしは恐れません。「主がわたしと共にいて下さるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。」とカレブは断言しました。このとき85歳、まだ約束の地は手にしていません。これから戦い取るのです。ここにカレブの力の源があったのです。そして彼は約束通りに、ヘブロンの地を主からの譲り受けた嗣業の地として戦い取ることができました。

「ヨシュアはエフネの子カレブを祝福し、ヘブロンを嗣業の地として彼に与えた。ヘブロンはケナズ人エフネの子カレブの嗣業の土地となって、今日に至っている。彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。」(14:13~14)こうして彼は、齢85歳にして、戦士として巨人の町を戦い取ったのです。わたしたちも85歳のカレブの姿を見習いたいものです。もう年だから、もう昔のようにはできないからと言わないで、神様が共にいて下さるなら何でもできますと言う信仰を持って、残りの生涯を駆け抜けて行きたいと願っています。

今はクリスマスの季節です。主が共にいて下さる。まさにインマヌエルの主です。クリスマスの出来事です。この主が共にいて下さるから、わたしたちは主にあって何でもできるのではないでしょうか。是非、声をあげて人々を、そして子供たちをこの喜びの救いの御子のもとに誘いましょう。「イエス様が生まれたよう。イエス様が私たちに与えられたよう!」と言って主の救いを宣べ伝えましょう。それがクリスマスの喜びです。今は、与えることによって、宣べ伝えることによって、さらに喜びと恵みが満ち溢れる季節です。

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