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エフタの誓い (士師記11:29~40)

メッセージ
2018年9月9日富里キリスト教会
「エフタの誓い」
(士師記11:29~40)

1. エフタの誓い

先週も勇士エフタのお話が出ましたが、今週もエフタの物語です。エフタの名前の語源は「開かれる」と意味だそうです。新約聖書にも、イエス様が耳の聞こえない人をいやされるとき、その人の両耳に指を差し入れ、唾をその人の舌につけてから「エッファタ!」と宣言されました。そうしたら、その人の耳が開かれたという話が出ております。(マルコ7:34)この時の「エッファタ」がエフタと同じ「開かれる」という言葉です。ですから何か困難で道が塞がれたり、見えなくなったり、迷ったりしたときに、その道が開かれるようにという意味でエフタという名前が付けられたのではないでしょうか。でも実際に道を開いてくださるのは、本人ではなく神様であるということが、今日のお話のテーマです。

エフタは、遊女の産んだ子供でしたから、長じてから正妻の子供たちからいじめられまして、家を追い出されます。そしてトブの地に逃げて行って、そこで腕っぷしの強い者たちを集めて野党のような働きを生業とするようになりました。
そのうちアンモン人がイスラエルを攻めてきましたものですから、長老たちは力と指導力のあるエフタを呼び寄せて、自分たちの指揮官になってアンモン人をやっつけてほしいと願い出ました。

エフタは昔の恨みを帳消しにして、指揮官となってアンモン人と対決してくれることを約束しました。それが11:1~11節までです。そしてアンモンの王に伝令を送って平和のうちに問題可決をしようと試みますが、相手はそれに承服せず、ついに戦いとなるわけです。その時に主の霊がエフタに注がれて、彼は力を受けて出陣しようとしました。そしてその時に、魔が差したのでしょうか、神に対して誓いを立ててしまうのです。

「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを出迎えに出てくるものを主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす捧げものといたします。」(11:30~31)

なぜこんな誓いをしてしまったのでしょうか。この誓いが自分の首を絞める羽目になるとは想像できませんでした。おそらく彼は、凱旋した暁には、家のものが出迎えに来るに違いない、その時にはおそらく召使の女か奴隷が出てくるに違いないと予想したのではないでしょうか。まさか自分の一人娘の愛娘が出てくるとはつゆだに想像しませんでした。なんでこんな誓いを口に出してしまったのでしょう。

それだけこの戦いは厳しかったのではないでしょうか。もしかしたら負けてしまうかもしれない、そうしたらイスラエルも自分たちも生きてはいけないと思ったのかもしれません。そうであるがゆえに絶対に負けられない戦だったのです。主の霊が彼に注がれて、知恵も力も戦術も十分に与えられていたにもかかわらず、彼はまだ一抹の不安が残っていました。本当に勝てるだろうか。それで、ダメ押しで家から出てくるものを神様に捧げますという切羽詰まった誓いを神にしてしまいました。

彼は主の霊が注がれて、勝利を約束されているにもかかわらず、それでも心配でもう一つ保証を付けました。心配でした。不安でした。どうしてかと言いますと、そこの30~31節までのエフタの誓いの言葉の中に、「わたし」という言葉がなんと5つ出てきています。彼はやはり、聖霊に満たされてもまだ、「わたし・・・わたし」という自我の思いが抜けきらなかったようです。神が戦うにもかかわらず、彼は自分が戦うのです。そういう不信仰から、神様と取引をするような誓いを立ててしまったのではないでしょうか。わたしたちもよくあります。「神様、今度の特伝で○○さんが救われたら、わたしは二倍の献金をします。」とか、「神様、病気を治してください。そうしたら毎日礼拝に出席します。」とか、信仰者に見る自分の肉の誓いです。イエス様はこの人間の誓いについてこう述べています。

「また、あなたがたも聞いている通り、昔の人は『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ。』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り、』『否、否』と言いなさい。それ以上は、悪い者から出るのである。」(マタイ5:33~37)旧約の時代は、偽って誓ってはいけないとか、誓ったことは必ず果たしなさいと言う掟でしたが、新約のイエス様の教えは、何事も誓いを立ててはならないというものでした。わたしたちは「はい」と「いいえ」しか言ってはいけないというのです。

Jephthah who is the one of judges of Israel and brave warrior made a vow to the Lord. “If God give the enemies into my hand, I will sacrifice the one who comes out of the door of my house to meet me when I return in triumph.” And then God gave the victory to Jephthah what he made a vow. When he came to his family with victorious joy, the one who came out from the door was his own one beloved daughter with dancing. When he saw her, he tore his clothes and cried out with suffering. He said “Oh, my daughter, you have made me miserable!”
The joyful return to home turned suffering and misery suddenly.
Jesus said also “Do not swear at all either by heaven and by earth. You should simply say ‘yes’ or ‘no’”(Matthew 5:34, 37), some athlete used to say that we will get a gold medal at the 2020 Olympics or I will never merry in my life. Even if you made a good decision, you may made many swear. Our human swear take a bad result and bounce back to us. We should not swear at any case. The result is belong to God. The future is in God’s hand.

イエス様は、どんな聖なる崇高な誓いでありましても、あなたがたは誓ってはならいとおっしゃいました。そのような誓いで自分を縛りまた他の人をも縛っていることはないでしょうか。そういう誓いを持ってはいませんか。エフタは自分の誓いで自分を苦しめました。たとえ信仰的な聖なる誓いでも、わたしたちにとってはそれが害悪となって跳ね返ってくる時があります。誓ってはいけません。将来のことはわたしたちには解からないのです。将来のこと、勝つか負けるかは神の手にあるのですから。エフタもそうではないでしょうか。出てくるのがまさか自分の娘だとは思わなかったでしょう。自分の娘だったら最初から誓いを立てていないはずです。でも彼はうかつにも誓いの言葉を発してしまったのです。

2.娘の信仰

「エフタがミズパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。彼はそれを見ると、衣を引き裂いて言った。『ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。』彼女は言った。『父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。』」(士師記11:34~36)

エフタがアンモン人に勝利して、意気揚々と帰ってきました。このとき彼は自分が誓ったことを忘れているかのように勝利に喜んで帰ってきました。一番先に迎えに出てくるのは、召使か家の誰かと思っていたのでしょう。ところが彼の予想を裏切って、彼の一人娘が鼓、タンバリンを打ち鳴らして喜んで迎えに出て来たのです。父親の顔は一瞬にして曇りました。まさかいつもと違って、愛する一人娘が出迎えに出てくるとは!

どうして一人娘が出て来たのでしょうか。これは推測でしかありませんが、彼女は自分の最愛の父親のために、必死に勝利を祈っていたに違いありません。そして戦いの勝利の知らせを聞いて、誰よりも一番喜んだのは娘でした。そして無我夢中で、その喜びを全身で表してタンバリンを打ち鳴らしながら家から飛び出してきたのです。そしてお父さんの前で舞いました。父親はどんな気持ちで、娘の愛を受け止めたでしょうか。

苦情に打ちのめされた父親の声が出ています。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめるものになるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」この言葉の中に、父親エフタの苦悩が手に取るように分かります。先ほどのマタイにありましたように「偽って誓ってはならない。誓ったことは必ず果たせ。」という戒めがありますが、当時はそうしなければなりませんでした。神様まさか娘とは思いませんでしたから、誓いを取りやめますと言えるでしょうか。

父は、苦悩の訳を娘に打ち明けました。そうしましたら彼女は、「父上、あなたは主の前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。」といいました。何という信仰でしょうか。親はやはり、後悔し悔やみました。しかし、娘は、やはり信仰をもってお父さんの誓った通りにしてくださいと、自ら命を投げ出す決心をしたのです。何とすばらしい娘の信仰でしょうか。父の罪、過ちを受け止めて、その罪をとりなす娘の姿です。

わたしはこのエフタ物語の主人公は、父親のエフタではなく、この娘の方ではないかとさえ思いました。彼女こそイスラエルの勝利のために、そして父親の無事帰還のために必死に祈っていたのです。ですから、なにを置いてもイの一番にお父さんのもとに、喜びをもって迎えに出たのではないでしょうか。そして、今回の勝利は自分の命と引き換えになっていることを知りました。しかし彼女は、そんな安易な誓いを神に立てた父親を恨むことなく、彼女は父の意思に従ったのです。いや彼女は神様の御意志に従ったのです。自分を犠牲にしてイスラエルを救うという道を選んだのです。

「エッファッタ(=開けよ)」と主イエスが言った言葉は、恐らくわたしたちが苦難と苦しみの中にある時に、その進むべき道を開いてくださるのは、神様以外にないということです。神様と取引するのではなく、神様を信じて、その勝利を信じて、主に委ね、心を明け渡して進むところに道が開かれてくるのではないでしょうか。それは自分の力ではなく、また自分の能力でも武力でもなく、幼い一人子の従順な信仰とその犠牲によって開かれる道ではないでしょうか。

娘は来るべきキリストの十字架の贖いの救いを預言しているような気がしてなりません。わたしが戦うのではありません。神が戦ってくださるのです。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジプト記14:14)と言いました。戦われるの主ご自身なのです。そして主ご自身がわたしたちのために勝利の道を備えてくださっているのです。わたしたちは信じて、へりくだって、そしてすべてを主に明け渡して従ってゆくことです。勝敗もすべて結果は未来にあります。明日は主の御手の中にあります。地震が来ても台風が来ても津波が起こっても、明日は主の内にあるのです。それは主の支配されるところです。その未来から勝利の主がやって来られるのですから、わたしたちは心配しません。

Unlike her father who fluttered in a panic, his daughter said calmly
“My father, you have given your word to the Lord, do to me just as you promised.” (11:36) what a tremendous faith she had ! but her father was upset and regretted. The hero of this story is not a father but a daughter. She gave herself to the Lord as a sacrifice that her father swear. His name Jephthah means to open. So when we encounter the troubles only the God can open the way we should go.
Only the God can fight to the enemies and lead us to the victory. The Lord himself fight for us. Moses said to the Israel “The Lord will fight for you, you need only to be still”(Exodus14:14). It is important for us to pray in faith and to submit ourselves to the Lord. We should follow Jesus in faith with being humble and surrendering all to Jesus. The God has every result of winning or losing. God has a tomorrow. We should pray with humble heart and submit ourselves to the word of God like a daughter of Jephthah.

わたしたちも自分という自我を捨てて、真実をもって、自分の一番大切な物を主に捧げてまいりましょう。それは主を信じて従うという供え物です。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)「見よ、聞き従うことはいけにえにまさる。耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル記上15:22)

素直な砕かれた心をもって、主の御言葉の前に座りましょう。わたしたちがどれだけ主の前に、心砕いてひざまずくことができるかです。エフタのように、「わたし・・・わたし・・・わたし」を連発する人ですか?それとも主の前にへりくだって、「主よ、お語り下さい。み言葉に従います。」と言ってひざまずく人ですか?あの娘のように、主の御言葉に素直に、心から従う人生を歩みたいと願っておられますか?そのことをこのエフタの物語は教えているような気がします。       

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