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イエス・キリストを土台とせよ (Ⅰコリント3:10~17)

メッセージ
2018年4月15日富里キリスト教会
「イエス・キリストを土台とせよ」
(Ⅰコリント3:10~17)
1.あなたがたは只の人か

教会が大きくなって教会組織をし、制度や組織ができ、教会堂ができてきますと、どうしても伝道よりも内部の一致と運営などで課題が出てまいります。そして、信徒同士の対立や意見の違いが出てきます。コリント教会も同じような問題を抱えて、苦しんでおりました。そのような教会の現状を憂いてクロエという人が、パウロあてに手紙を書きました。そして教会にいろんな派閥ができて、今にも分裂しそうになっていると訴えたのです。ある人はパウロにつく、ある人はアポロにつくと言って争っていたわけです。それを聞いたパウロが、このような教会の現状と問題点を踏まえながら、では一体、教会と何なのかということを解き明かして書いたのがこのコリントの信徒への手紙です。

この教会の現状打破と問題解決のために訴えたのが、先週も学びましたがまず、「十字架の言葉に立つ」ということでした。十字架を忘れたクリスチャンほど、自分を誇り自慢し相手を非難するという信徒になってしまいます。自我の強いクリスチャンです。まず、わが罪のため十字架に架かられたイエスの前に、へりくだることです。また絶えず自分の悔い改めることの大切さです。相手に仕える信仰者です。それは十字架の言葉、すなわちイエス・キリストの十字架から来ます。(Ⅰコリント1:18~31)

それからもう一つは、「聖霊による神の啓示です。」(聖書教育ではここを飛ばしていますが…。)今年度の教会標語でもある「聖霊に従って生きる」ということです。そして実に聖霊を否定し、認めないクリスチャンが多いのです。そういう人はもちろん、復活も天使も信じません。サドカイ派のような政治的、肉的なクリスチャンです。霊的なことが解からないのです。霊的なクリスチャンは、「霊によって教えられた言葉を語り、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」(2;13)霊の人からは肉の人の心の中が見えるのです。(2:15)今年は皆さん方に、もっと霊的になってほしいと願っています。聖霊に教えられ、聖霊に従って生きる年であってほしいと願っています。

じゃあどうしたらいいかと言いますと、簡単です。まず聖霊の存在を認め、聖霊を求めることです。聖霊様に対して祈りの中で、お願いすることです。私の目を開いて神様のことがもっとよくわかるようにしてくださいと祈ればいいのです。今まで、そういう祈りをしてきませんでした。わたしもそうです。認めてはいましたが、口に出して祈ったり、呼びかけたりはしませんでした。聖霊は人格を持っておられます。ですから、聖霊様を認めて愛して求めてゆくならば、必ず主は答えてくださいます。最高の賜物を与えて下さいます。

A separated church like a Corinthian one should stand on the word of Cross. Jesus died for my sins, I am a sinner, I must repent under the cross. We should say that I never boast myself and accuse the other Christian. Second we admit the presence of holy Spirit and love the holy Spirit and call for the holy Spirit. The holy Spirit will definitely answer your prayers.

If we will have a private meeting without telling the pastor. And what we were talking about gossip about other people or bad things?
Will the holy Spirit be glad? The holy Spirit must be sad. Such a person will be a flesh men and ordinally mere men not be a spiritual men. Such a person will be a destroyer to the temple of God.

コリント教会のように、もし私たちが教会の定められた集会以外に、仲間内で勝手に集まったりしているようでは、それは自分たちがまだ只の人だということを証明しているのです。そういう肉的な集まりを聖霊様は一番嫌われます。また、気の合った仲間内で集まっているならば、心の中の聖霊様が悲しまないでしょうか。それは愚かなことであり、間違ったことであり、キリストを悲しませ、キリストの教会を破壊していることになります。

「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固いものを口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間に妬みや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」(3:1~3)

英語でも只の人を、unchanged men , who do not belong to the Lord at all ,ordinally men となっています。パウロは今でもそうだと言って嘆いています。先ほどの子供メッセージでも話しましたように、パウロは種をまいて植えた人、アポロはそれが育つように水を注いだ人に過ぎないのです。どちらも神と共に働く同労者であって、どちらが偉いとかどちらが権威があるというものではないのです。そしてあなたがたは、その神と共に働く人の共同制作の作品であって、牧師や宣教師を誇ってはならないのです。人を誇るということの本音は、自分を誇りたいだけのことに過ぎないのです。

3:6に「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植えるものでも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植えるものと水を注ぐ者は一つですが、それぞれの働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」
(3:6~9)

パウロもアポロも共に神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑であり、神の建物なのですと言っています。この神の畑のたとえは、わたしたち信徒の霊的な成長を表しています。神様の霊の賜物であるいろんな種類の野菜が実をつけるように、時がくれば収穫をもたらします。畑にはいろんな種類の野菜が実をつけます。あるいはいろんな種類の花が咲き誇るでしょう。見事な限りです。それぞれ、神様から与えられた実をつけてゆくのです。これが神の畑であり神の庭です。個人個人の霊的な成長です。

2.あなた方は神の神殿です

さらにパウロは、一人一人が成長してくるということは、一人一人が勝手に大きくなってゆくというのではなく、それが一つになって建物を造る方向に向かうと言っています。教会形成です。一つの建物に立て上げられてゆくのです。教会はそういう霊的な建築物です。神様の霊が宿る神殿でもあると言っています。つまり一人一人の霊的な成長だけではなく、それが互いに組み合わさって一つの建物を形成するというのです。ご存知の通り、建物にはその家の土台と柱となる骨組みがあります。パウロは家の土台は既に自分が据えたというのです。それはイエス・キリストという土台だと言っています。

A. 家の土台

「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築士のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にはそれは明らかにされるのです。」
(3:10~13a)

よくテレビで、欠陥住宅、欠陥マンションという話題が出ることがあります。床にビー玉を置きますと、片方に転がってゆきます。床が平行でないのです。そういう所に住んでいますと生理的に体にも変調をきたします。マンションでしたらいつ倒壊もするかもしれないという恐怖心があります。建物の成否を決めるのは、この土台であり、建物よりも大事だと言って過言ではありません。そしてパウロは、教会はイエス・キリストを土台に据えて造られたと言っています。
この土台は確かです。どんな地震が来てもびくともしません。

しかもこの土台は、隅の頭石として人々にいったん捨てられましたが、その死によって逆にこの世界を支えておられるのです。いったん捨てられた土台石というのは、イエスキリストのことです。このお方が十字架にかけられて捨てられたのです。でもやがてそれがかえって世界を支える土台石となったのです。十字架のイエス・キリストです。特に十字架の言葉が大事であるとパウロは言っています。この十字架の言葉は、教会の頭でもあります。常に教会の屋根の上に高くそびえています。ですから教会はこのお方が満ち溢れている場所です。

B.家の材料

「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てた場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その日はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。誰かがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(3:12~15)

土台作りと同様に大事なのは、建材選びです。耐火性のものを使うか普通の燃えやすい木材を使うかです。この建材によって家の耐久性や耐火性が決まります。
「かの日が火と共に現れて」というのは、神様の最後の審判を意味します。金銀宝石で造られた家なのか、木や草やわらで造られた家なのかはその時に分かるというのです。高価な材料で造られた家は、どんな日が襲ってきても燃え落ちません。持ちこたえます。この富里教会の会堂は、木でできていますので、恐らくその時には燃え去るでしょう。でもパウロはキリストの土台の上に建てられた家で、その土台の上に金、銀、宝石を建材として建てられた家は残るのです。どんな火にも耐えることができます。なぜなら、金、銀、宝石でできているからです。

金も銀も、純粋な建材として用いるためには、何度も焼きを入れ、るつぼで溶かして、不純物を取り除いて純金度を高めます。こういう材料は、少しくらいの熱が襲ってきてもびくともしません。すでに高温で練り清められているからです。また宝石の建材は、その輝きを増すためには、何度も何度も磨きをかけられます。研磨されるのです。ごつごつした角を削り取って滑らかにして、最高の輝きを出すのです。角の取れた材料です。磨かれた材料です。こういう健在でできた高価な材料は、神の審判の日が襲ってきても決して燃え尽きることはないのです。

この教会堂は木ですから燃えるでしょう。でもこのような木や草やわらではない材料、それがわたしたちです。神様に見つけ出され、何度も火で練られ、不純物を取り除いて、磨かれて、自我という角を削り取ってもらった材料、生きた建材、高価な建材これがわたしたちではないでしょうか。

また建物を支える柱も必要です。これがわたしたちです。一本の柱では建物は立ちません。柱はお互いを必要としています。柱の繋目を見たことがあるでしょうか。溝とほぞが彫られています。お互いの柱が離れないようにしっかりとつなぎ合わせています。もし一つの柱が折れたらどうなるでしょうか。建物全体がゆがんでしまいます。そういうことのないように柱はたがいにしっかりと組み合わさって、お互いがお互いを支えます。そこに建物の強度が増し加わるのです。教会もそうです。信徒一人一人が神様の霊によって愛という継手でしっかりと組み立てられるのです。これが神の建物であり、神の神殿です。

3.神の神殿

パウロはこの建物の中に、神の霊が宿ると言っています。そういう意味で私たちが神の聖なる霊の宿る神殿なのです。今日もこのようにして集められて、一体となって神を礼拝し讃美を捧げています。神のみ言葉が語られています。ここに神の霊が宿るのです。教会は神の霊と神様の愛が満ち満ちているところです。建物ではなく人と人とのつながりです。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なる者だからです。あなたがたはその神殿なのです。」(3:16~17)

As we are growing gradually we need the other person. Because each pillars need the other pillars to sustain and to build up the house.
Have you seen the joint portion between the pillars. There is a groove and a tenon. As two of these become one, the strength of the house will be stronger. Like this we will be stronger and bigger house of God . And the holy Spirit will dwell in the temple of God. So we should never boast ourselves , we need other person as a other pillar to build up the temple of God. Paul is preaching “Don’t you know that you yourselves are God’s temple and that God’s spirit lives in you?” I
Don’t know that we are the temple of God’s Spirit living in us.

 

皆さん、わたしたちは既に神の神殿なのです。神の霊がわたし達の間に宿っています。聖なるものです。神によって聖別された神の神殿です。神の霊は、わたしたち一人一人の心の中にも宿っておられます。このようにしまして教会は、神の霊の宿る群れであり、わたしたち自身が神殿であり、教会なのです。この木造の建物ではありません。わたしたち一人一人は生ける神の神殿なのです。

それでも「いやそれでも私は、○○先生につく」と言い張る人は、この霊の建物である神の神殿を破壊していることになります。これは気を付けなければなりません。パウロは「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。」(3:17)と警告しています。自分を誇ってはいけません。キリストを、しかも十字架につけられたキリストだけを誇りましょう。むしろ自分の弱さや愚かさを誇るべきです。これが愚か宣教という最も強力な伝道方法です。

4.すべては、あなたがたのもの

At last Paul said “No more boasting about men all thing are yours.
Whether Paul or Apollos or Cephas or the world or life or death or the present or the future all are yours. And you are of Christ and Christ is of God.”(3:22-23) So we need not boast ourselves and our teachers.
They are our property that God sent to us to built the God’s temple living the holy Spirit in. All things are yours. Don’t you think what a

tremendous thing it is ?

最後にパウロはこう言っています。「ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(3:21~23)
と。人間を偶像化して、その先生を誇ってはならない。なぜなら、すべては「あなたがたのものだ」と言っています。パウロ先生もアポロ先生も、あなたがたコリントの信徒のものであるから、それを権威づけて誇る必要なないのです。

キリストを誇るべきです。中条先生も大上先生も、そして私も、皆さん方のためにあるのであり、皆さん方に神様が遣わしてくださった皆さん方のための共通の財産なのです。冨里教会員の方々の共有財産だというのです。ですから、それを十分に使うべきであり利用すべきなのです。皆さんの霊的な成長のために、そして教会造りのために財産の牧師を利用し活用してください。

いやそれだけではありません。教会には、世界も生も死も、そして現在も未来もすべてを教会に財産として与えて下さっているのです。だから、パウロは「すべてはあなたがたのものです。」と言っています。素晴らしいではないですか。そしてすべてはキリストのものであり、キリストは神のものであるのです。ですから今からは、だれも人間を誇ってはいけません。牧師も宣教師も自分自身も誇る必要はありません。みなあなたがたの持ち物だからです。これからは、神を誇りましょう。しかも十字架にかけられた私たちの神であるイエス・キリストを誇ろうではありませんか。この方以外に誇るものがあってはいけません。

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