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イエス・キリストの啓示による召命 (ガラテヤ1:11~23)

メッセージ
2019年4月28日富里キリスト教会
「イエス・キリストの啓示による召命」
(ガラテヤ1:11~23)

1.イエス・キリストの啓示によって召される
さてパウロはガラテヤ書1:11でこう言っています。
「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」(1:11~12)

皆さんも知っていますように、パウロは、かつてはパリサイ人として律法に忠実に生きてきました。エルサレム教会の7人の執事の一人であるステパノを死刑にする時にも、その場に居合わせて石打刑のリーダー役をしていたようです。このようにパウロは、キリストの弟子であるクリスチャンを異端者として片っ端から迫害することを自分の使命とさえ考えていました。そしてダマスコの町に逃げて行ったクリスチャンを逮捕するために、その逮捕状をもってダマスコまで追っていきました。(1:13~14)

ところが途中で、突然天から光が射してきて、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞きます。それは紛れもなく、サウロが迫害しているイエスの声でした。クリスチャンを迫害するということは、イエスを迫害することであり、神を敵に回すということでもあるわけです。この光に打たれて地面に倒れたサウロは、三日間目が見えず食べることも飲むこともできませんでした。そしてダマスコまで手を引かれていき、そこでアナニヤというクリスチャンの導きと祈りによって、ようやく目が開かれます。アナニヤが祈ると、たちどころにサウロの目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになりました。それから彼は立ち上がって、バプテスマを受けて食事をとり、元気を取り戻して福音の伝道者となって行きます。いわゆるパウロの回心です。サウロはここでバプテスマを受けます。新しく生まれ変わって、キリストの伝道者となります。

彼はこのダマスコ途上の回心の出来事を、使徒言行録の中で何度も述べて証をしています。このイエス・キリストとの出会いは、彼にとっては人生の決定的な出来事でした。ですから、彼は自信をもって、自分が今、宣べ伝えている福音は、人から受けたものでも、人に助けられたものでもなく、ただ神ご自身の啓示によるのですと言っています。神が自分を選ばれたということです。あんなにクリスチャンを迫害していた自分のようなものでさえ、神は造りかえて神の働き人として用いたということです。彼の人生が180度変わったということです。単なる方向転換ではなく、逆転するほどに変わったのです。

このように回心というのは、今までの人生が180度ひっくり返るほどの出来事です。30度の変化とかではありません。180度ですから全く生き方が逆転してしまったということです。迫害者が伝道者になり、馬車馬のような勢いのある人生が、ロバのようなへりくだった人間に変えられることです。今までマイナスだった部分が、そのままプラスに変化することです。死んで生まれ変わったのです。それは人間業ではありません、神の業なのです。ですから彼は、この福音は人から出たものではない、人間に教えられたものなく、人間から受けたのでもないと言っています。それは唯、神の啓示によるものです。このことなしに伝道はできません。神によって召されたものなのです。神に選ばれ、神に捕らえられたものなのです。推薦者はイエス・キリストご自身です。

わたしが入った神学校は、入試の前に礼拝がありました。そこで説教された先生が言った言葉を覚えています。「伝道者としての召命感のない人は、今ここでカバンを持って帰ってください。召命感のある人だけ、試験を受けてください。」という言葉でした。入試をする前にそう言ったのです。中には試験を受けないで、そのまま帰って行ってしまった人もあったと聞いています。神学校の合否はこの召命感なのです。点数ではありません。男だろうが女だろうが区別はありません。性別ではなく召命感のあるなしです。イエス・キリストの啓示を受けたので、生涯を福音のために主に捧げますと言う決意です。

またこの啓示は、自分では手にすることのできないものです。いつ神の啓示を受け、いつ神に召されるか分かりません。それは待つしかないものです。わたしたちの意思とは関係なく、神様の側から、一方的に召されます。わたしは30歳になってからでしたが、武井兄は36歳の時だったでしょうか。お互いに、少し人生遠回りをしてしまったかもしれませんが、夫々に啓示の時があるのです。若すぎることもないし、また遅すぎることもありません。

As Saul neared Damascus on his journey, suddenly a light from heaven flashed around him. He fell to the ground and heard a voice say to him, “Saul, Saul, why do you persecute me? I am Jesus, whom you are persecuting.” Then Saul opened his eyes, but he could see nothing. He was led to Damascus seeing nothing. Ananias who was sent by the Lord put his hand on Saul and made his eyes see again. This is a conversion of Saul. He told about his conversion two times in Acts. This is the story his life changed totally. This is the revelation of Jesus Christ. If our lives do not change 180 degrees, we cannot proclaim the Gospels of Jesus. If we do not experience the conversion like Saul, we can not preach the Gospels.

2.アラビヤに退く時

パウロは、アナニヤに目を開いてもらった後どうしたかと言いますと、いったんアラビヤに退きました。「しかし、わたしを母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちの元へ行くこともせず、アラビヤに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。」(1:15~17)

パウロはイエスと出会ってから、目が見えなくなり、アナニヤに目を開いてもらった後、どうしたかと言いますと、「アラビヤに退いた」とあります。アラビヤで思い出すのは、アラビヤ半島、アラビヤ砂漠です。南の方のアラビヤではないという説もありますが、彼は回心の後、しばらくは誰にも会いませんでした。エルサレムにも戻りませんでした。仲間のところへも、家族のところへも行かず、突然蒸発したようなものです。しかし、彼の行き先は、誰もいない砂漠であり、厳しい環境の中に身を置いたのです。

これはおそらく、イエス様もバプテスマを受けられてから、導かれて行った荒野という場所ではないでしょうか。何もない砂漠の中で、一人でひたすら神の御心を求めつつ祈ったり、聖書を読んだりする時を持ったに違いありません。その厳しい環境の中で、神の御言葉に対する全き信頼と服従の訓練を受けたのではないでしょうか。召命感の確認です。伝道者は誰でもこのアラビヤの経験をします。荒野の中を通されます。神の御言葉に信頼を置くか、この世の富に信頼を置くか、神の御言葉に従うか、この世の王であるサタンの誘惑に従うかです。伝道者は神学校を卒業して教会に赴く時に、みなこの本番の試験を受けます。

パウロも、神の召命を受けたとき、もう一度イエス・キリストの前に静まって、自分の召命感を砂漠の中で、何もない中でじっくりと確かめたのではないでしょうか。これからの人生、ただこの神の御言葉にのみ聞いて行く人生です。クリスチャンなら当然のことですが、伝道者は特にそのことが求められます。そして荒野を通されて、初めて解かってくるものがあります。み言葉への服従です。ひたすら神の御言葉に聞いて行くということです。このアラビヤに退くということは、何よりも御言葉への集中とみ言葉への服従を確かめられる時ではないかと思います。パウロにとっての神学校だったかもしれません。

After the conversion Saul went into Arabia immediately. Why did he went into Arabia where nobody is and nothing is. He wants to face to God and face to himself through the word of God. He wants to conform his calling. When we should choose a great decision, we may retreat into the place like a desert. We should concentrate the word of God seriously and try to listen to the voice of Jesus.

そしてパウロは、14年後に再び神の啓示を受けて、エルサレムに上って行きました。そこから彼は異邦人伝道へと遣わされてゆきます。神からの使命を受けているということを確かめたうえで、あのパウロの異邦人伝道が開始されたのです。異邦人へと伝道旅行へ出たのは、パウロの回心の後、実に17年後の決断でした。

3.ケファと知り合いになる

最後に、パウロは人によってではなく、ただキリスト・イエスの啓示によって福音宣教者となりました。誰からも推薦も紹介もしてもらう必要はありませんでした。イエス・キリストの啓示による召命感は、まずしっかりと持っていなければなりません。そこが献身の中心です。神学校に入ってから、神学校の先生に紹介してもらおうとするのではなく、まず自分自身のしっかりとした召命感です。それさえあれば、神様が必ずその使命を与えて下さいます。

しかしそれでも彼は、やはり先輩の使徒たちを無視して伝道しようとはしませんでした。まず自分の方から先輩の方々にあいさつに出向きました。
「それから3年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、15日間彼のもとに滞在しました。ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブだけ会いました。」(1:18~19)そして2:1~2にはこう記しています。「その後14年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。」
(2:1~2)

神からの召命感はしっかりしていることは大事です。かといってやはり自分の福音宣教は、あのペテロたちのキリストの直系の弟子達とは違うといいことを言われたくありませんでした。あえて福音のために、ペテロと友達になったり、エルサレム教会に赴いて自分の伝道についての意見を求めたりしました。それは自分の福音が、あのイエス・キリストの福音と同じものだということを証明したかったからではないでしょうか。

そうでなくても、パウロは生前のイエスを知らないとか、本来のイエスの弟子ではないとか、いろんな悪評がまとわりつき、異端視する動きさえ見えました。実際にこのガラテヤ教会には、エルサレムから来た正統的なクリスチャンという人々が、律法を守らなければ、割礼を受けなければクリスチャンではないという人々がいて、パウロの福音を退けようとしました。そして、再び律法によるユダヤ教的クリスチャンにしようとしていたのです。福音が福音でなくなる危険性があったのです。

そういう意味で、正しい福音を証明するためにも、パウロは先輩使徒やエルサレム教会に自分から赴いて行って交わりを求め、ときには議論をして正しい福音のために戦ったのでした。それがこのガラテヤの信徒への手紙です。恵みの福音に生き、異なる別の福音と戦ったパウロの信仰を、これから学んでゆきたいと願っています。(岡田 久)

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