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イエスキリストの名によって (使徒言行録3:1~10)

メッセージ
2020年5月17日富里キリスト教会
「イエス・キリストの名によって」
(使徒言行録3:1~10)

1.美しの門のそばの不幸な男

「ペテロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、産まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門の側においてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。」(使徒言行録3:1~3)

ユダヤ人にとりまして、一日に三回お祈りをすることが信仰者の義務のようになっていました。敬虔なユダヤ教徒であればあるほど、自分の家だけではなくエルサレムにいる人は神殿に行って祈りをすることが勧められていました。それは、朝の9時と12時、そして午後の3時の三回の祈りの時間が決められていました。皆さんはいかがでしょうか、今お祈りしているでしょうか。外に出る時間が制限され、自宅待機のようになっていますが、祈る時間は取れているでしょうか。なかなか忙しくて祈る時間が取れないという人もいると思います。かといって今のように、自宅待機の時間があるから、仕事が休みだからと言って祈る時間が取れるかというとそうでもないようです。

さてペテロとヨハネの二人が、午後3時の祈りの時に神殿に行って祈ろうとしました。そうしましたら、そこに足の不自由な人が運ばれて来まして、「美しの門」の側においてもらっていました。道路の傍よりは、神殿に祈りに来る人の憐れみを求めて、あえて門の傍におかせてもらい参拝者から施し受けることを生業としていたようです。しかもこの人は生まれつき足が悪く、一人で歩くことができませんでした。毎日毎日、そこにおいてもらって、わずかばかりの恵んでいただいたお金で命をつないでいました。

もちろん、この足の悪い男も、イアスラエル人でありユダヤ人です。神を賛美し礼拝するべき国民の一人であったのです。イスラエルの信仰者の一人です。でも今は人の手を借りなければ歩くこともできません。人からわずかばかりのお金をいただかなければ食って行くこともできません。自分の運命と生まれと障害を呪いつつ、日々そこに置かれては、自分の目の前に落ちてくるわずかばかりのお金を期待し、下ばかりを見て生活していました。

何で自分だけがこんな人生を歩まなければならないのか、神様は不公平だ、そういう思いがあったかもしれません。目の前に神へと通じる道、天国への祝福の道が開かれているにもかかわらず、彼はその門に目もくれずに、人々の憐れみとわずかばかりの小銭にばかりに目をやっていました。神はイスラエルの民に、憐れみと祝福を持って臨んでおられます。彼もその神の愛の対象者なのです。自分の目の目に、すぐ隣に天国への門、祝福の入り口があったのです。主は決して不公平なお方ではありません。だれに対しても分け隔てなく、神の祝福を賜って下さっておられるのです。天国への門は、その人のすぐそばに存在するのです。ただ彼がそれを見上げ求めないだけなのです。

彼の目は人々を見つめ、地面を見つめ、お金の受け皿を見つめ、どうしたら、誰が自分にお金を恵んでくれるかという目をして、道行く人々を見ていました。立派な神殿の側にいながら、しかも天国へと通じるような壮麗な門の側にいながら、天国や神様という思いではなく、お金、お金、生活、生活の方にだけ目が行っていました。自分で見ようとはせずに、目に映るものを漠然と見ていたのです。そして彼はペテロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、とっさに施しを請いました。「そこの二人のお方、わたしをかわいそうだとお思い出したら、この皿に少しでもお気持ちを入れてください。お願いします。」と。

彼の不幸は、足が悪いということよりも、神に助けを求める心、神を見上げる目がなかったことでした。いかがですか、わたしたちも目の前に神への入り口が開けているにもかかわらず、この世のこと、お金や生活や援助を求めていることはないでしょうか。毎日、コロナ、コロナのニュースばかり見ています。時には目を閉じて、コロナも政治も医療もすべてをご支配しておられる神様に心を向けてみませんか。あるいは目を上に向けて、天におられるお方を思い出してみませんか。

2.目を上に上げる

「ペテロとヨハネは一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った。その男が何かもらえると思って二人を見つめていると、ペテロは言った。『わたしたちを見なさい。』と言った。その男が何かもらえるかと思って二人を見つめていると、ペテロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」(3:4~8)

一人の物乞いに声をかけられて、歩みを止めたペテロとヨハネは、彼をじっと見つめました。わたしでしたら、今は急いで祈りの場に行かなければならない、ちょっと時間を取られてしまうと思い、わずかばかりの小銭をその皿に投げ入れて、そそくさと神殿に入って行ってしまったかもしれません。でも二人はじっとこの男を見つめました。二人はお金を施すのではなく、その男をじっと見つめました。そして「わたしたちを見なさい」と言いました。この場合のペテロたちの「見る」は、どちらも英語でLook atが使われています。足なえの男が二人を「見る」時の「見る」は、Seeという言葉です。

明らかに違います。Seeは「自然に目に入って来るものを見る時」に使いますが、Lookは「注視するとか集中してみる」場合に使います。ペテロとヨハネは、この男を注意してじっと見つめました。おそらく救われる信仰を持っているかどうかを見たのではないでしょうか。真剣に生きることに取り組んでいるか、真面目に人生を考えているか、神を求めているかどうか、そういう心を持っている目かどうかを見たのではないでしょうか。

二人は、信仰の心をもって霊の目をもってこの男を見つめました。そして「わたしたちを見なさい」と言いました。すると男は二人を見つめました。この場合の男の「見る」は、今度はGive Attentionとなっています。ただぼんやりと二人を見るのではなく、真剣に二人に注目しました。男は地面に座ったまま、顔をあげて二人を見上げました。しかも注意して見上げたのです。全身全霊を注いで、二人を見上げました。

私は今まで、この男は真剣に何かを注視して見上げるというようなことはなかったのではないかと思います。目の前にあの有名な麗しの門という美しい門があっても、そこから神へと通じる道が開かれているにもかかわらず、自分には関係ないと思っていました。いつも人手を借りて、自分の障害や弱さを言い訳にして人の手ばかり煩わせていました。自分で立ち上がろうとしたり、自分の力で何とかしようとしたりするのではなく、全部人頼み、その弱点を武器にして人の憐れみを利用して生きて来たのではないのでしょうか。何かを求めて見上げる真剣な生き方をして来なかったのです。諦めの人生です。

彼も立派なイスラエル人です。信仰者です。いわばクリスチャンです。しかし、彼は自分のことについて真剣に神に求めたり、祈ったりすることはなかったのではないでしょうか。ペテロとヨハネは、そういう彼の目線を下から上へと変えてやったのではないかと思います。はっきりと見つめるべきものを見なさい。自分が見つめるのはお金ではない、神様そのものではないだろうか。この世のお金よりももっと素晴らしい宝物が存在する、そのことをこの男に知らせたかったのではないかと思います。わたしたちは今何を見つめているでしょうか。

一週間に一度は、目を社会から離して天を見る、神の方に目をやるという時間を取ることもできません。目から入ってくる情報だけで、自分からなすべきことを見つめるという視点がぼやかされてはいないでしょうか。ペテロは「わたしたちを見なさい」と言って、彼の目を上に上げさせました。それは目を上げて上を見ることです。視線を変えることです。下ばかり見て、お金を捜すのではなく、もっと価値のあるお方、この世のすべてのものをご支配しておられるお方に目を注ぐことです。

上を見上げることです。下を見てはいけません、自分を見てはいけません、神を見ることです。目を上に上げることです。その時私たちの人生は、180度転換します。目を上げる、下げるという小さな動作ですが、結果は天国と地獄ほどの違いがあります。ただ眼を上に向けることでいいのです。心も上に向きます。パウロ先生もこう言っています。「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右の座についておられます。上にあるものに心を止め、地上のものに心をひかれないようにしなさい。」(コロサイ3:1~2)

上にはお金よりももっと価値のあるお方がおられます。すばらしい宝物があります。上を見上げましょう。そして感謝を忘れないようにしましょう。今年度の教会聖句を覚えていますか、「いつも主にあって喜びなさい。主を喜ぶところにあなたがたの力の源があります。」です。上を見上げて感謝して行くことしかできません。上を見上げ、感謝して喜んで祈って待つ、これしかできません。

3.イエスの御名によって

ペテロとヨハネは、まず最初に、彼に目を上げることを教え、彼が目をあげて二人をじっと注意して見つめたのを確かめてから、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエスの名によって立ちあがり、歩きなさい。」(3:6)と大声で宣言しました。つまり彼に求める心を与え、彼が上を見上げた時に、「イエスの名によって立ちなさい。」と宣言したのです。下ばかり見ていては、人ばかり見ていては救われません。救いは上から来ます。上を見る心、上におられるお方を求める心があれば、その人は救われます。そのしるしとして体の障害も病もいやされます。

それは体の癒しも伴うこともありますが、一番大事なことは魂の癒しです。罪の赦しを宣言して下さる大いなる力と権威を持った方がおられるのです。「イエスの名」と言いますのは、イエス・キリストの権威と力を表しています。皆さんが入信する時には、「父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授ける」と宣言してバプテスマを受けました。それはこれからの生涯、イエス・キリスト共に一体となって歩んでいきますということの決意表明です。イエスの名をこの身の帯びるということです。イエス・キリストの名前を刺青のように、体に彫ってもらっているようなものです。パウロは、背中にイエスの焼き印を押されていると言っています。絶対、取れません。生涯、消せません。

ペテロはこの後で、この出来事についてこう言っています。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」(3:16)彼は立ち上がりました。そして歩き回り、踊り出すほどに喜んだのです。そしてペテロたちと一緒に神殿に入って行きました。初めて自分が神の子であり、神の所有物であるということが分かったのです。そして彼は自分の足で歩き回り、神を賛美したのです。どんなにか嬉しかったことでしょう。彼は喜んで自分の家に帰ったのではなく、彼らと一緒に神殿に入って行って礼拝をしたのです。

イエスの御名には、人をいやす力、罪を赦す権威があります。彼は、癒してもらって、喜んでそこから離れて行ったのではなく、まずペテロと一緒に神殿に入りました。まず神に感謝を捧げに神殿に入ったのです。自分の足で歩き始めました。それはイエスを信じる信仰によって、人を頼るのではなく、イエスに頼る人生へと変えられていったのです。神を信じる者となりました。聖書には「歩き回ったり、踊ったりして神を賛美した」(3:8)とあります。いやされ、生まれ変わった男の姿が目に浮かぶようです。本当に彼が喜んで、神を賛美する真の信仰者に変えられたことを記しています。

わたしたちもイエスの名によって救われました。それはわたしたちは信仰によって、イエス様と一体にされた者です。イエスの名をこの身に常に帯びています。わたしたちは信仰によって神の子とされ、この名によって守られています。また、この名によって祈り求めることができます。そして求めるものは何でもかなえられています。この名によって悪霊も追い出しました。ですから、どんな時にでもイエスの名によって行動し行うのです。イエスの名によらないことは何もできないのです。いやすべきではありません。一人一人がこの名によって救われ守られ、神の所有物とされているからです。そして主は決してわたしたちを見離すことはありません。

目を上に向けましょう。イエスの御名に感謝しましょう。このお方以外にわたしたちを救うお方はありません。そして、イエスの御名によっていつどんな時にでも祈ってまいりましょう。そしてこの貴い御名を心から感謝しましょう。そこには必ず、神へ通じる門が開かれています。そしてイエスの御名によって、神の側に近づきなんでも求めましょう。主はいつも祈りに応え、わたしたちを守り、助け、導いて下さっています。共に主の御名を崇め賛美しましょう。(岡田 久)

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