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イエスを起こしなさい (マルコ4:35~41)

メッセージ
2018年1月28日富里キリスト教会

「イエスを起こしなさい」
(マルコ4:35~41)
1. 向こう岸に渡ろう

「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを船に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの船も一緒であった。」(マルコ4:35~36)

よく見ますと、出発しようとしたのは夕方です。いかがでしょうか、皆さんこれから真っ暗になる湖に、小さな漁船で漕ぎ出して湖の向こう岸に渡ろうというのです。皆さんは夜の海を見たことがあるでしょうか。あるいは夜、船に乗って海か湖を渡ったことがあるでしょうか。私はしょっちゅう四国から中国方面へ、または九州へとフェリーで行き来したことがあ
ります。ですから夜の海と言うものがどんなものか知っています。実は、夜の海はどこから海でどこから空なのかわかりません。水平線が見えないのです。真っ暗闇の中を上も下もなく航行しているようなものです。まるで空中に浮いているような不安とを感じます。しかもこの後、ガリラヤ湖特有の嵐が船を襲います。

でもイエス様は、群衆を岸辺に残したまま弟子たちと一緒にこれから暗くなろうとする海に向かって漕ぎ出しました。それが「向こう岸に渡ろう」といった主の言葉です。多くの聖書注解書は、この個所を次のように解釈しています。つまり、「向こう岸」と言いますのは、天国です。こちらの岸をこの世と考えます。仏教でもよく彼岸と此岸という言葉を使いますが、この世を離れて天国へ向けての出発だと考える人がいます。そうしますと、「船」は教会です。「海」はこれから教会が渡って行こうとするこの世、つまり荒波の荒れ狂う現代社会を意味しています。

問題は、このイエス様のみ言葉に従うかどうかです。実はこの湖を夜、渡るということがもう一度出てまいります。6章45節からですが、この時にはイエス様は一緒に乗り込みませんでした。弟子たちだけを船に乗せて自分は一人祈るために山に登られたのです。その時、弟子たちは夜の海に船で行こうとすることを躊躇しました。前回の嵐の苦い経験が頭をよぎったのでしょう。また嵐に会うと大変だと考えました。しかし「イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、向こう岸のベツサイダへ先に行かせた」(6:45)とあります。

強いて、つまり強制的に船に乗せたのです。イエス様は、このようにしてしぶる弟子たちを、何度も船に乗せて夜の海へと出発させました。何度も向こう岸、天国へ渡るための訓練をされたのです。最初は一緒に乗ってゆきました。二回目は弟子たちだけを先にやりました。そしてどちらも案の定、嵐に見舞われたのです。弟子たちも夜のガリラヤ湖は危ないということを十分していました。それでもイエス様が、「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったので出かけてゆきました。

信仰生活というのは、やはりこの暗い海を渡るようなところがあります。何にも見えない真っ暗闇の中を、み言葉の光だけを頼りに進むようなところがあります。一寸先は闇のような世界に足を踏み出すようなものです。でもその闇の向こうに光があるのです。十字架の苦しみという道を通して、初めて復活の希望の光というものが見えてきます。教会も順風満帆ばかりではありません。時には、いや必ず、逆風が吹いてきます。突風が起こってきます。突然に襲ってくる教会の嵐があります。嵐の中の教会です。今にも沈みそうになる時があります。嵐に出会わない教会はありません。でもイエス様は、あえて、そして強いて弟子たちをそういう道へと押し出すのです。

Jesus said to the disciples 「Let us go over to the other side.」Jesus said that at the time night is coming. I know that how the night sea is dark and terrible, we cannot understand where we are and understand the boundary between the sea and sky as if drifting in the darkest space. Jesus said to them go to the other side through the night through the darkness and through the trouble attacking the church. Jesus urged them to the night sea strongly. Now we cannot see the other side where is shining over the cloud. But as Jesus said to us we will able to go to the other side following the word of Jesus. He trained us to go to the heavens taking the boat called the church.

皆さん覚えていますか?ヨブ記に出てくる有名なエリフの言葉です。「今、光は見えないが、それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと、北から黄金の光が差し、恐るべき輝きが神を包むだろう。」(ヨブ記37:21~22)という言葉です。ですから、暗い夜、苦しい時、うめくような時があるかもしれません。でも神様は、その夜の時を通して、暗闇を通して、天の国へと導いていってくださろうとしているのです。ですから、何も恐れることはありません。教会には必ずイエス様が一緒に乗っていてくださいますから。あるいは、イエス様は遠くの山の上から教会を必ずご覧になっておられます。そして何かがあると、すぐに来てくださるのです。

2.激しい突風の原因

そして案の定、突然の嵐に見舞われました。37節から読んでみます。「激しい突風が起こり、船は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」
(4:37~39)

教会にも、実は嵐は突然起こるのです。何の前触れもなく襲ってきます。ある教会で、牧師先生が、一週間の休暇をもらって帰ってきたら、教会が一変していたという話も聞きます。教会の雰囲気がガラッと変わっていたとか、信徒の方がグループで出て行ってしまったとか。ですから決して他山の石ではないのです。近くの教会で大きな問題が起こって、教会が嵐のようになって沈みかけているといううわさを聞きました。うちは大丈夫だろうと、安心していましたらその教会も、突然降ってわいたような事件が起こって、同じような嵐に会ってしまいました。教会はまるで、突然の嵐によって木の葉のように揺れて、今にも沈みそうになってしまう時があります。

じゃあ、一緒に乗り込んでいてくださったイエス様は何をしていたのかと言いますと、なんと、船の艫の方で枕をして眠っておられたのです。「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。」とあります。わたしはこの文章を読んで、ふと気が付いたのですが、イエス様は「枕」をして寝ていたということです。「え、イエス様はこんな小さな漁船の中で枕をして寝ていたのか」と思いました。この「枕」という言葉に目が留まりました。一体こんな船の中に枕があったのだろうか。誰が用意したのか、あるいはイエス様が自分で持ち込んだのでしょうか。ほかの聖書も調べてみましたら、英語でちゃんと「on the Cushion」または 「on the Pillow」ほかにもていねいに 「on the leather cushion」という訳もありました。皮の枕です。

わたしはここで枕の種類を問題にしているのではありません。一体だれがイエス様に枕を渡したのかということです。恐らく、弟子たちは元漁師が多いですから、こう考えたのではないでしょうか。「この航海は自分たちに任せてほしい。イエス様は素人だから、どうぞ船の隅の方で私たちに邪魔にならないように静かに休んでいてください。わたしたちだけで、わたしたちの力と経験と腕だけで、ちゃんと向こう岸までお連れしますから。」と言って、丁寧にイエス様に枕を差し上げたのではないでしょうか。漁師たちがいつも休憩用に使っていた枕かもしれません。誰があげたというわけではないかと思いますが、どちらにしてもイエス様には休んでいてもらいたいと、お客様扱いをしたのではないかと思います。

そうしたら案の定、突然の嵐が起こってきました。急にです。彼らはイエス様の知識、働き、腕を信用していなかったのです。イエス様に頼っていなかったのです。自分の力に頼っていました。そしてもうにっちもさっちもいかなくなってしまいました。誰がイエス様に枕を渡しましたか。イエス様に枕を渡してはいけません。イエス様をお客様扱いにしてはいけません。イエス様はこの船の船長であり、機関長であり、漁労長なのです。イエス様がいなければ進むことも魚を取ることもできないのです。もちろん目的地に着くことはできません。

ですからイエス様を眠らせてはいけないのです。枕を渡してはいけません。「先生どうぞ休んでいてください、ここは私たちに任せてください。」と言ってはいけません。イエス様に目を覚ましていただいて、先頭に立っていただかなければならないのです。イエス様に進路を決めてもらわなければなりません。イエス様に、どこが魚のいるポイントかを教えてもらわなければならないのです。弟子たちは自分たちの手に負えなくなるまで、そのことに気が付きませんでした。そしていよいよ船が危なくなって沈みそうになって、初めてあわててイエス様を起こしにかかったのです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」と。

自分たちの力の限界、自分たちの経験ではできないこと、そのことを初めて知って、必死にイエス様に助けを求めたのでした。ここに私たちの祈りの基本姿勢があるような気がします。祈りの姿勢です。つまり、自分たちの能力、自分たちの力の限界を知る時にこそ、初めて主に寄り縋るという祈りの基本的な姿勢が出てくるのです。それまでは、自分で何とかできると思った祈りです。ですからイエス様を休ませたのです。わざわざイエス様に枕を差し上げたのです。一見、先生を敬っているような敬虔な態度ですが、その腹は自分が主人になっているのです。イエス様は客人です。わたしたちも教会で、イエス様を休ませてはいないでしょうか。イエス様枕を渡してはいませんか。

On the way that they are going to the other side they were attacked by furious squall suddenly. Squall always attack suddenly, so we have to take care of our journey of faith. Disciples made Jesus sleep on the stern. And Jesus is sleeping on the cushion. Who gave the cushion to Jesus . Who gave the rest to Jesus. Without Jesus and his keeping attention on us we cannot go to the other side. Our role is to make Him awake and make Him fight to keep us from the enemies.
So that please don’t give the cushion to Jesus and let him rest. Jesus is our captain of the boat and He is an institution head and He is an fishery director .
Without Him we can do nothing. Our role is to wake Him up unceasingly. Last year we had plenty of God’s blessings through prayer as you understand. We had four baptism and one by letter. I hope you to continue to pray this year too.

わたしたちはイエス様に枕を差し上げてはいけません。必死にイエス様に起きていてもらうように、いやイエス様を起こすようにしなければならないのです。「エルサレムよ、あなたの城壁の上に私は見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。主に思い起こしていただく役目のものよ。決して沈黙してはならない。また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取り掛かり、エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは。」(イザヤ62:6~7、P.1163)私たちの役目は、主にこの教会のことを思い起こしていただくための働きなのです。ですから、昼も夜も黙っていてはならない、つまり絶えず祈りの声すなわち助けの声を上げる役目を仰せつかっているのです。イエス様を沈黙させてはいけません。イエス様を眠らせてはいけません。イエス様に枕を渡してはいけません。イエス様に起きていて、いつも私たちのために嵐を鎮めてくださるように、静かな海を航海できるように頼み続けなければならないのです。

3.まだ信じないのか

「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』とたがいに言った。」(4:39~41)イエス様は弟子たちの悲痛な必死の呼びかけに答えて、起き上がってくださいました。そして、風に向かって「黙れ、静まれ。」と命じました。すると風はやんで凪になりました。さっきまでの嵐は何だったのだろうかと思うほど静かになったのです。その時主は、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われました。そうなんです。弟子たちはまだ信じていなかったのです。

いやむしろ、信じているつもりでいたのです。ですから、夜の海に向かってついてきたではないですか。一緒に伝道旅行についてきました。信じてはいましたが、その信仰がまだ本物になっていなかったのです。と言うのは、何か事が起こるとすぐに慌てふためいてしまいます。イエス様を信じていながら、自分の力や自分の経験や自分の勘で仕事をしてしまうのです。何時もイエス様に頼ろうとしません。自分はできるから、イエス様見ていてくださいの信仰なのです。自分の力なのです。これがまた信じないのかとイエスさが嘆いた信仰です。

英語の聖書に、You have no faith, no firmly relying trust. またはDon’t you ever yet have confidence in Me となっています。まだ私に信頼を置かないのかと言って嘆いています。つまり、真の信仰とは、自分はできない、でもイエス様がしてくださるという信仰です。そしてでも、イエス様ならしてくださいますということです。役員の働きもそうです。一番忠実な役員は、できる役員ではなく、できない役員です。何もできない人、未経験な人、小さい弱い人をむしろイエス様は必要としているのです。

Jesus said to the disciples “Why are you so afraid ?, Do you still have no faith?”
That’s right what Jesus said. We may have a small faith and weakened faith.
If so we have to pray to Jesus putting our confidence on Jesus. “Jesus we are weak we cannot do that , But you can do it for us. So Jesus please help us, keep us not to sink into the sinful water being terrible ”Is this a real faith isn’t it? 
When we are asked to have a ministry by Jesus , we should say that Jesus we can’t but you can ,so we will do it . Jesus use the smallest one and incapable one only having a humble mind.

むしろわたしはできません、でもイエス様ならしてくださいますという人です。そしていつも「イエス様、できません、できません、でも、あなたならしてくださいます。」と全幅の信頼を寄せることです。なぜならその理由は簡単です。できない人はイエス様に頼るからです。できない牧師もイエス様に必死に頼るから牧会も説教もできるのです。キーワードはイエス・キリストです。このお方がしてくださるのです。大事なのはイエス・キリストです。このお方なしにはなにもできません。本当に信仰のないもの、信仰の薄いものですが、むしろ信仰のないがゆえに、弱いがゆえにイエス様にのみ全幅の信頼を置いてやってゆこうではありませんか。きっと主は、み言葉をもって嵐を静め、恐れを鎮めてわたしたちが行くべき目的地へと導いて行ってくださいます。     

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