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イエスの眼差しと祈り (ルカ22:31~34、54~62)

メッセージ
2019年4月7日富里キリスト教会
「イエスの眼差しと祈り」
(ルカ22:31~34、54~62)
1. 誘惑と試練の時

今日はペテロの信仰が試された場面を見てまいります。誰でも、長い信仰生活の中で試練や苦難を受けることがあります。イエス様も伝道の生涯の初めに、荒野でサタンに試みられました。荒野で空腹を覚えた時に、石をパンに変えるようサタンに誘惑されました。しかし主は、「人はパンだけで生きるものではない、神の御言葉をもって生きるのだ。」と答えられました。またこの世の権威と栄華と引き換えに、悪魔に心を売り渡すよう誘惑されました。しかし主は、「ただ神にのみ仕えよ。」と言ってサタンを退けられました。また、「神が助けてくれるかどうか、飛び降りてみよ。」と誘惑されましたが、「神を試してはならない。」と言ってサタンを退けられました。(ルカ4:1~12)

また旧約聖書のヨブが、悪魔に試されたことはご存知だと思います。(ヨブ記1:6~12)クリスチャンは信仰生活の中で、例外なくこのような試みに会います。それは、神様がわたしたちを訓練し鍛えるためなのです。神様がわたしたちを神の子として愛しているがゆえに、懲らしめ訓練を授けてくださるのです。わたしたちの信仰を鍛えるための試練ですから、その時は苦しくてもやがては、その経験を通して豊かに実を結んでゆくようになるのです。(ヘブライ12:5~11)イエス様も試みに会われましたから、ましてや私たちがそこを通させられないはずはありません。ですから、パウロは苦難を喜びなさいとさえ言っています。苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望へと導くからです。(ローマ5:3~5)今日はペテロの信仰が試される場面です。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31~32)とイエス様が言いました。

ここに実際の「ふるい」があります。サタンはこのふるいに一人一人をかけることを許されたのです。そして、神様はサタンがわたしたちをふるいにかけることを許可しました。どうしてでしょうか。それは、神様がわたしたちを信頼しているからです。本当に信仰を持つものとなることを期待しておられるからです。今、自分はちょうどふるいにかけられているという人はいますか。あるいは、ふるいに引っかかって、網目を通ることができずにもがいている人はいますか?

私はそれでも大丈夫な気がします。と言いますのは、もしふるいを通らなかったならば、その通させなくしているもの、不純物を取り除けばいいわけですから。あるいは、粉がまだダマになり過ぎて網目を通らなければ、そのダマをつぶせばいいです。粉々に砕けば網目を通ります。つまり、自分の内側に不純物を持っていたら、それを取り除いて捨て去ればいいのです。また網目をくぐらなければ、もっと自分を打ち砕いて粉々にしてもらえばいいのです。そのための試練です。

神は愛する者を鞭打たれ訓練されるのです。そして何の艱難も試練もない人こそ、神から見捨てられている人とさえ思いなさいと言っています。(ローマ5:3、ヘブライ12:8)この試練によって、神様はわたしたちが砕かれること、神の前にへりくだることを望んでいるのです。前にペテロはこう言いました。「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでも良いと覚悟しております。」(22:33)と。彼は自信がありました。弟子のリーダーとして、死に至るまで従ってゆきますと断言したのです。ここにペテロの不純物がありました。自分の力、自分の自信、自分の傲慢と言った不純物があったのです。これがふるいにかけられました。

Jesus said to Simon “Simon, Simon, Satan has asked to sift you as wheat. But I have prayed for you, Simon, that your faith may not fail. And when you have turned back, strength your brothers.” (Luke22:31-32)
Satan was permitted to sift us by God. This is a sieve. We put flour in this sieve and sift it. Dust and small stones will be removed after sifting.
What is left is our impurities. Through this sifting God want to make our faith strength and clean and pure. Satan was permitted to test us and our faith. Peter said to Jesus “Lord, I am ready to go with you to prison and to death.” But this was precisely Peter’s impurities that is self-boast and selfishness. Jesus taught him that man is a sinner and weak. Peter was tested by Satan as to recognize his own sins and weakness.

2. イエスの祈りと眼差し

このペテロの自信と傲慢さは、その日のうちにもろくも打ち砕かれました。主は、この後、ゲッセマネの園で、裏切った弟子の一人ユダの手引きによって捕らえられてしまいます。そして大祭司の家で取り調べを受けました。弟子たちはその時には、みなイエスのもとから逃げていってしました。しかし、ペテロだけは弟子のリーダーとして、連行されてゆくイエスの後からこっそりとついて行きました。大祭司の家では、尋問が続いています。ペテロは知り合いの手引きによって中庭に入り、何食わぬ顔で焚火にあたって座っていました。

するとそこにいた女中の一人が「この人も一緒にいました。」といいました。ペテロはそれを聞いて、「わたしはあの人を知らない」と言いました。また他の人が「お前もあの連中の仲間だ」と言いますと、「いやそうではない。」と答えました。そして1時間ほどたってからまた誰かが、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤ人だから。」と言いました。するとペテロは「あなたの言うことは分からない。」と言いました。

するとその時、鶏が泣きました。その時、ペテロは数時間前に語られたイエスの言葉を思い出しました。そして最高法院の裁判を受けるために、大祭司の家から出てきたイエス様と目と目が会ったのです。聖書にはこう書いてあります。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が泣く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(22:61~62)とあります。

英語ではこう書いています。The Lord turned and looked straight at Peter.
イエス様はわざわざ振り返られたのです。恐らく手を縛られて兵士に囲まれて連行されていたかもしれません。そして、ペテロが人々の群れの中にいると知っていました。夜の暗闇の中です。手を引かれ、しかも暗い中、広場にペテロがいるとは知らないはずなのに、主はしっかりと振り返ってペテロを見つめられました。Looked straight at Peterです。まっすぐにペテロの顔を凝視されたのです。

じっとペテロをご覧になった主イエスの目は、どんな眼差しだったでしょうか。
怒りに満ちた眼差しだったでしょうか。自分を裏切った愛弟子を恨むような眼差しだったでしょうか。「ペテロ、お前に失望したよ。口ほどにもない奴だ。さっきは死んでもついて行くと言ったはずではないか。」と言おうとしていたのでしょうか。わたしはそうではないと思います。自分を裏切り三回も知らないと言った弟子です。完全に裏切ったと言ってもいいでしょう。

でも主イエスの眼差しは、悲しい中にも憐れみをもって見つめられていた眼差しではなかったでしょうか。わたしはお前を愛している。たとえ口で三回も否定しようとも、わたしはお前を放しはしない、お前はわたしの愛する弟子だ。わたしはこれから、あなたのためにその罪の弱さのために十字架につこうとしている。それはお前の罪を赦すためです。その弱さも欠点もすべてを赦し、清めてあなたに新しい力と使命を与えるためです。

主はペテロの罪も弱さも、不十分さも未熟さもすべてをご存知のうえで、愛する弟子として召してくださったのです。その目はペテロのために、愛をもって赦し執り成してくださっているイエス様の祈りの眼差しです。「わたしはあなたの信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」というあの祈りがあったのです。この主の執り成しの祈りによって、ペテロは持ちこたえたのではないでしょうか。そしてこの主イエスの執り成しの祈りによって、わたしたちも守られ支えられていると言って過言ではありません。

そして主の眼差しは、真っ暗闇の中でも、しっかりとペテロの姿をとらえて離さなかったのです。主の祈りはそういう目を持っています。祈りの目はどこへでも行きます。すべてのことが見られているのです。ペテロはこの主イエスの愛と慈しみに満ちた凝視の目から逃れることができませんでした。

But Peter’s self confidence was crushed in that day. He followed Jesus arrested. While Jesus was interrogated, Peter was waiting with other people in the priest’s garden. Three men and women asked him that he has been with Jesus. But he denied three times, then the rooster cried. He remembered Jesus’s word spoken to him. “Before the rooster will cry three times you will disown me three times.” And he went outside and wept bitterly. Why did he weep?
Peter saw the eyes of Jesus when he turned back gazing at Peter. Then he remembered Lord’s word and recognized his betray to Jesus.
Peter understood his own sin and selfishness and his weakness. He could not to stay there and ran into the darkness and wept bitterly feeling his discouragement and failure and his shame. But Jesus’s eyes of mercy and love never abandon this sinful person. Jesus knew Peter’s weakness and his tears. Jesus has been prayed in intersession for this weak disciple. We also have been prayed by Jesus’s intersession.

3.ペテロの涙

イエス様はペテロに「鶏が二度泣く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう。」(マルコ14:72)といいました。二度鶏が時の声を告げる前に、三回主を否定するということです。これは、鶏が三度鳴くときは、世の終わりの時です。完全に夜が明け放った時、新天新地の実現する時、キリスト再臨の時です。その時までに、わたしたち人間はキリストを三回完全に否定するということです。つまりすべてのクリスチャンは裏切り者であり、罪深い者、主を否定する弱い存在だということです。でもまだ鶏の声は二回目です。まだ悔い改めるチャンスが残っています。現代はまさに、真っ暗闇の夜の一番寒くて暗い時間の只中です。罪が支配し、サタンが暗躍する時代です。でもそういう時だからこそ、わたしたちは自分の罪、弱さ、欠点、不信仰、裏切り、傲慢、自己過信と言った罪を示され、主の前に身を投げ出して悔い改める時ではないでしょうか。

ぺテロは、自分の余りのふがいなさに、その場にいてもたってもいられず、庭を飛び出して外に出て行きました。そして人目を忍んで、体を震わせながら激しく泣き崩れたのでした。大の男が、自分の弱さ、醜さ、不信仰、失敗、挫折、恥といったあらゆる欠点を見せつけられました。しかし、それにもかかわらず、愛をもって見つめ執り成していてくださる主イエスの愛の眼差しからは、逃られなかったのです。イエス様の眼差しが、彼を瞬時にして捕らえました。そして彼を離しませんでした。ペテロは、その眼差しを生涯忘れることができませんでした。

同じように、主の愛を受けながらも、一人暗闇の中へと消えて行った弟子がいます。(ヨハネ13:30)それはイスカリオテのユダでした。彼は主イエスの愛を受けながら、それを身に感じながらも、主の晩餐式が終わるや否や、一人闇の中に消えて行きました。主の愛を振り払い、そのまなざしを拒んで、暗闇の中に飛び込み、自分の行くべき道を見失ってしまいました。同じ主の愛を受けながら、涙をもって悔い改めた弟子と、どこまでも自分の意思を貫き通した弟子の明暗を分けた悲しい場面です。

弟子たちは皆裏切り者です。いざとなれば、すぐに逃げ出してしまう弱いわたしたちです。でもそういう私たちでも、主の眼差しはとらえて離さないのです。ペテロは、それから逃げることはできませんでした。そして、自分の罪と弱さをの故に、ただ泣くしかなかったのです。でもこれがペテロの信仰でした。そんな弱い欠点だらけの自分をも主は赦して見つめておられた。この涙があったからこそ、逆に立ち直ることができたのではないでしょうか。涙こそわたしたちと主を繋ぐ信仰の絆ではないでしょうか。恥じることはありません。自分に失望する者、自分に絶望する者、自分の弱さと不信仰に悲しむ者こそ、真に義の実を結ぶ新生したクリスチャンの道です。真に生まれ変わった信仰者の姿です。

All the disciples are betrayers. We may run away when we met persecution leaving Jesus our Lord. Even if we betrayed, the eyes of Jesus never change the direction to us. He is looking straight at us till now. Peter could not run away from Jesus’s eyes in his lifetime. He could only weep for his weakness and discouragement. This is Peter’s faith only to weep.
Jesus has been looking at Peter full of defects. And he has been
forgiving and encouraging him. This tear is the bond between Jesus and Peter and us. Those who are disappointing themselves and despairing themselves and weeping their own weakness and unfaithfulness will be new born believers. This is a true new born believer. Please surrender yourself to Jesus, especially give your weakness and disadvantage and disorder to Jesus. Never hide your failure and weak point. God’s power works through your weakness. Bold your weakness and failure and disorder. Jesus is now praying for us in intersession.

どうして自分の罪や弱さや欠点を隠すのですか?どうしてどこまでもついて行きますと豪語できるのですか?まだ涙を流したことのない方、自分に絶望していない方、自分の罪と弱さを知っていない方は、主の眼差しと出会っていないかもしれません。いまだに自分の視点、自分は自分はという思いで頑張っておられる方ではないでしょうか。その自分の弱さを、欠点を、障害を素直に主にお前に告白して、そこに主の御手を触れていただければいいのです。隠す必要はありません。わたしはできますと頑張る必要もありません。どうせできないのですから。自分に絶望しましょう。そしてそこから主を見上げましょう。そこには主の愛の眼差しが待っています。

イエス様がわたしのために執り成していてくださる、この方の祈りがあったからこそ、今こうしてわたしたちは立たされ守られているのだということです。このイエス様の執り成しの祈りがあるからこそ、わたしたちも兄弟姉妹たちのために祈ることができるのです。多くの苦難のゆえに倒れ、打ちひしがれている兄弟姉妹のためにも、この主の祈りによって励ますことができるのではないでしょうか。

わたしたちが祈るのは、イエス様がまず最初に、わたしたちのためにどんな時にも祈っていてくださるから祈ることができるのです。そして主は今もわたしたちのために、十字架の上で執り成していてくださるのです。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」その主の祈りによって支えられ生かされているのです。そしてその祈りは必ず希望につながっているのです。このイエス様の眼差しと執り成しの祈りを受けているものとして、共に執り成しの祈りをするものとなりましょう。(岡田 久)

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