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わたしは主、あなたの神である(十戒) (出エジプト20:1~17)

メッセージ
2020年9月20日富里キリスト教会
「わたしは主、あなたの神である」(十戒)
(出エジプト記20:1~17)
1.わたしはあなたの神、主である

「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。』」(出エジプト記20:1~2)
まず最初に、神様はご自分の名前を告げられています。「わたしは主、あなたの神である」と。ヘブライ語では、「アノーキ(わたしは)、ヤハウェ(主)、エロヒーカ(あなたの神)」と三つの言葉が述べられています。ちょうど十戒の三番目の第三戒に「あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱えるものを主は罰せずにはおかれない。」とありますが、人はこの神名をみだりに唱えてはならないのです。

なぜならば、神様は名前を通してそこにいて下さるからです。神はその名を通してそこにご臨在しておられるのです。ですからわたしたちが、「天のお父様!」と呼びかける時に、そこに神様がおられるのです。そして「このお祈りをイエス様のお名前を通してお祈りします!」という時、そこに主がいて下さるのです。神様は名前と共にいて下さるお方なのです。そして、その神様がわたしたちにその尊いお名前を示して下さり、呼びかけることを許して下さっているのです。

さらに「名は体を表す」とあります通り、そのお名前を通して神様ご自身をわたしたちに教えてくださっているのです。ご自分がどんなお方かということを、その名前を通して現わして下さっているのです。このヤハウェという名前は、出エジプト記の柴の書に出て来たように「有って有るもの」(出エジプト記3:14)「無から有を生じさせるもの」(ローマ4:17)そして「共にいるもの(インマヌエル)」(出エジプト記3:12、イザヤ7:14)というような意味があります。

そして、このエジプト記の主人公でありますモーセの名前の意味は、「水の中から引き上げる」という言葉から来ています。つまり、モーセは奴隷の国の圧政に苦しむイスラエルの民を、その罪と死と重労働の中から、自分自身が救い上げられたように、イスラエルの民をも引き上げて救い出してくれる者になるという意味があったのです。さらに、このイスラエルという名前もまた「神は力強い、神は治める」という意味があるそうです。このようにしまして、力強い神の手によって、罪と苦しみの世界から救い出される民としてのイスラエルの歴史がそこにあったのです。

彼らが戦うのではありません。神が戦われるのです。神が強いお方なのです。その救いの神ヤハウェがいかんなく働いて下さったのが、前回学びましたあの海を渡るという場面です。イスラエルの民が戦ったわけではありません。戦ったのは主御自身です。その時、主は何といわれたか覚えているでしょうか。迫りくるエジプト軍の戦車におびえ、目の前の海を見て恐怖におののく民に向かってモーセはこう言いました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。・・・主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジプト記14:13~14)

こう言って主は、海を分け、民を海の中を通し、後から追ってきたエジプト軍を水の中に沈めました。これが神の戦いです。聖戦、ジハードです。イスラエルが武器を取って敵に立ち向かうのではありません。神が戦われるのです。民はただこの強い主を信じ、そのみ言葉に従ってひたすら逃げるだけです。これがわたしたちの主なる神ヤハウェです。その名前ヤハウェが示す通りです。わたしは共にいる、わたしが戦う、わたしが救うのだという神の名であったのです。

わたしはあなたの神であり、主であるから、何も心配するな、わたしが戦うから、あなたがたは、静まってわたしが主であることを黙って見ていなさいというのです。ですから、皆さん、どんなことがあってもあわてたりあせったり心配したりする必要はありません。主が戦われるのですから、わたしたちはこの力ある主なる神を信じて、ひたすら主に従って行くだけです。たとえ目の前に大海原が横たわり、道が塞がれていても、主を信じて一歩踏み出すなら、必ず主は道を開いて下さいます。主の御名に信頼することです。

2.わたしの他に何物も神としてはならない(妬む神)

実は今まで述べた20:1~2は、まだ十戒に入っていません。神名の啓示は、十戒の序論のような部分ですが、大事な個所です。次の3節から17節までが十戒になっています。見てみましょう。3節の「わたしをおいてほかに神があってはならない」が第1戒です。そして4節の「いかなる像も造ってはならない」が第2戒、7節の「主の名をみだりに唱えてはならない」が第3戒、8節の「安息日を心に留め、これを聖別せよ」が、第4戒、12節の「あなたの父母を敬え」が5戒、そして以下順に「殺してはならない」が6戒、姦淫してはならない」が7戒、「盗んではならない」が8戒、「偽証してはならない」が9戒、「隣人の家を欲してはならない」が10戒となり、全部で10の戒めとなっています。

以上が一般的なプロテスタント教会に共通する十戒の順番です。ところがユダヤ教の教えでは、2節の「わたしは主、あなたの神」が第1戒で、3節の「他に神があってはならない」、4節の「像を造ってはならない」「ひれ伏してはならない」「仕えてはならない」という4つの行為が、第2戒になっています。またカトリック教会やルーテル教会も、この4つの行為を第2戒、二番目の戒めとしております。教派によって、数え方が違うようです。

いずれにしましても、十の戒めのうち、1~3までは神とわたしたちとの縦の関係について戒めています。そして4番目の安息日の規定によって、神と深く交わることが求められています。そしてその神との安息を持った後で、今度は、5番目から横の人間関係についての戒めが述べられています。家庭において父母を敬うこと、また社会生活において殺人、姦淫、盗み、偽証、むさぼりと言った悪をしてはならないと戒めております。

こうして十戒を全体的にみてまいりますと、縦の神様の関係と横の人間同士の関係について、順に述べられていることが分かります。つまり、この十戒はある意味ではイエス・キリストの十字架を表していると言っても良いのではないでしょうか。前回も二本の柱と鴨居に子羊の血を塗るということが、どういう意味をもっているかを話しました。柱と鴨居で縦と横の木がクロスすることによって、イエス・キリストの十字架の贖いの血が、神の災いを過ぎ越させてくださるということを学びました。しかも「二本の柱と鴨居」と血を塗る順番まで指示しています。柱が先で鴨居が後です。今回も、この縦と横の戒めを通して、わたしたちがこの十戒を守るうえで大切なことを教えております。それは、まずこの縦と横の順番を変えてはいけないということです。

新約聖書に一人の金持ちの青年のお話があります。彼は信仰熱心で、イエス様に駆け寄って、「先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればいいのですか?」と尋ねました。するとイエス様が、「人を殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」と言いました。そうしましたらその人は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と答えました。(マルコ10:17~22)でもイエス様が、「あなたの持ち物を売って貧しい人に施しなさい、それから従ってきなさい。」と言いましたら、彼は突然顔を曇らせて、主のもとを去って行きました。それはたくさんの資産を持っていたからでした。(マルコ10:17~22)

彼は、この十戒の戒めの、後半部分の社会的な行為については完全に守っていました。しかし、いつの間にか、その自信が自分を神の如くにしていたのでした。自分の大切なものを手放すことができずに、彼の真の神であるはずの主なる神に信頼していなかったからです。神よりも財産に頼っていたからです。実は、神よりも大切なものを持っていて、それに頼りそれを第一にしていた生き方でした。十戒の肝心の前半部分、「あなたはわたしをおいてほかに神があってはならない。」「あなたはいかなる像も造ってはならない。」という第1戒と第2戒に違反していたのです。

十戒の第1の戒め、「あなたは、わたしの他に神があってはならない。」という一番大事な戒めを破っていたのでした。つまり、彼はいつの間にか、主なる神ではなく、自分の行いを誇ることによって、自分自身を神の如くに考えてはいなかったでしょうか。自分を神とし、この世の富に寄りすがり、財産という偶像を第一と考えていたのでした。彼にとっては財産が第一であり、それを偶像として信頼していたのに気が付かなかったのです。イエス様の生涯は、このモーセの律法を第一としながら、いつの間にかその本当の教えを見誤り、自分の善行や宗教的な道徳さを誇り、人々を裁き、自らを神の座に置いてしまっていた律法主義者やパリサイ人との戦いでした。律法主義者やパリサイ人や宗教的指導者たちは、十戒の形式的な目に見える部分だけを大事にして、肝心の目に見えない部分、人間の人々の心の中、自分の心の中をごまかし見ないふりをしていました。

十戒はもともと、神様の本音を人々に啓示した善なるものであり正しいものでした。パウロも言っています。「律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会をとらえ、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返ってわたしは死にました。そして命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。」(ローマ7:7~10)

この十戒を、後半部分の目に見える行いにだけ目を取られ、肝心の冒頭の第1戒、第2戒を見落とすならば、あの富める青年のように律法主義に陥ってしまうかもしれません。でもこの第1の戒め「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めを、しっかりと考えてみるならば、律法主義の落とし穴から免れるのではないでしょうか。また2戒の「いかなる像も造ってはならない」という戒めも大事です。

主なる神様は、「わたしはあなたの神である。」と呼びかけ、宣言して下さっているのです。誰が何といおうが私はあなたの神であり、あなたを生んだ、そしてあなたを育て、あなたの罪を贖い、年をとっても最後の最後まで持ち運ぶ、そして必ず約束の地に迎え入れてくださるとおっしゃっておられるのです。これはヤハウェなる神の宣言であり、神様ご自身の決断です。

たとえあなたが、不十分な者であって、失敗しても、足りなくてもわたしはあなたを見捨てないし、離さないとおっしゃっておられるのです。それがこの第一の戒め、「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という戒めです。また「わたしは主、あなたの神である」と宣言して下さっておられるのです。これは神様の側のご決断です。これは戒めですか、命令ですか、そう聞こえるでしょうか、神様ご自身がそう宣言しておられるのです。何と有難いことではないでしょうか。神の愛の言葉ではないかと思います。

この十戒の冒頭の言葉は、神様からのラブレターのような気がします。神様の告白です。「あなたは、わたしをおいてほかに恋人をつくってはならない。」と言っているみたいなものです。そしてこの十戒の中で、十戒よりも有名になった言葉があります。それは、5節の言葉です。「あなたは偶像に向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、わたしは熱情の神である。」と言っています。この共同訳聖書では「熱情の神」となっていますが、口語訳聖書、新改訳聖書では昔から「妬む神である」と訳しています。神様が妬んでいるのです。「あっ、お前はこの間、神社にお参りに行ったな。お寺の仏様を拝んだり、礼拝したり、御神体を見に行った。あんなに、わたし以外に好きな恋人をつくってはならないと言ったのに、何でよその神(男性=おとこ)に行くのか!?」

これが第1戒の「あなたはわたしの他に、何物をも神としてはならない」という神の愛の告白の言葉ではないでしょうか。神は妬む神、熱情の神なのです。リビングバイブルでは、「あなたの神はこのわたしだけだ。わたしは嫉妬深いから、わたしと他の神を同時に愛することは許さない。」と訳しています。嫉妬深く、熱情深いですから、わたしたちがどこへ行っても、わたしたちが何をしているのかもすべて見ておられるということです。

まるでストーカーのような神様です。この嫉妬深い神からわたしたちは逃げることができるでしょうか。わたしたちが行く先々で、ストーカーですからもう先回りして待っているのです。部屋に入っても今何をしているのか、見られ、聞かれているようなものです。(実際にその通りです。)この妬む神様の目から隠れることができるでしょうか。もう逃げることも、隠れることもできません。全て洗いざらい主の前に心を注ぎだし、心を明け渡して降参しましょう。わたしはこれが、主なる神様の十戒の本心ではなかったかと思います。

3.十字架の言葉としての十戒

最後に、先ほども言いましたが、十戒は、1~4戒の前半は、神様と自分との縦の関係で、後半の5~10戒は、家族や社会でも人間関係における横の戒めではないかと言いました。そして、十戒は、この縦と横を組み合わせることによって、あの柱と鴨居のように、イエス・キリストの十字架の言葉を表しているような気がします。つまり、十戒を守ることのできない人間の罪深さ、十戒によっては眠っていた人間の罪の本性が目を覚まして、ますます自分をだめにしてしまう、いわば人間の隠れた罪をあぶりだしてくれるような働きがあるのではないかと思います。

たとえば、人々が姦淫の現場を見つかった女を連れて来て、イエス様にどうすべきか、見逃すか死刑にするかと尋ねるお話があります。主はしばらく黙っていましたが、座りながら、「まず罪のないものからこの女に石を投げなさい」と言いました。すると年配者から始まって、一人また一人と罰悪そうに、石を足もとにおいてその場を去っていきました。そしてそこには、主イエスと姦淫の罪を犯した女しか残りませんでした。そして主は、「わたしもあなたを罰しない」と言って彼女の罪を赦してあげました。つまり、「姦淫してはならない」という律法の意味するところは、人間の心の中を隠された罪を暴き出すことでした。すべての人は、隠れた心の中ですでに姦淫を犯してしているということです。年配者ほど、自分の罪の経験とその傷が分かります。(ヨハネ8:1~11)

律法は、他人に向かって当てはめるのではなく、あくまでも自分に語られた戒めとして受け取ることを要求しているのです。十字架の言葉はあくまでも、相手に向けて突き出す者ではありません。十字架は、そしてそのみ言葉は自分に向かって語られているものなのです。十戒はわたしたちに向かって、わたしたちの心に向かって、名指しで語られているのです。一人一人が、自分の心の中を見ることです。自分の心としっかりと向き合うこと、これが十戒の10の戒めの意図するところなのです。主イエスは「兄弟に腹を立てるものは裁きを受ける。兄弟に『バカ』というものは地獄に投げ込まれる。・・・みだらな思いで他人の妻を見るものは既に姦淫の罪を犯している。」(マタイ5:21~28)と言いました。

ですから、十戒はその蔭に十字架の言葉が隠されていますから、各自がこの戒めの前に立ち、しっかりと自分の心を見つめる時なのです。自分は、主なる神以外のものを神としていないだろうか。仏像などの像ではなく、目に見えない何かを自分の生きがいだと考えていないだろうか。日曜日を聖別して守っているだろうか。自分の父と母を尊敬しているだろうか。もしかしたら、いまだに自分の両親を、心のどこかで憎んではいないだろうか。その苦い根を抱えたまま生きて来ていないだろうか。心の中で情欲を持ったことはないだろうか。女性を淫らな目で見たことはないだろうか。どんな小さなささいなことでも、盗んだままにしてはいないだろうか。嘘をついていることはないだろうか。自分を良く見せようと偽っていることはないだろうか。何でもかんでも自分のものにしてしまわなければ気がすまない貪りの心はないだろうか。今あるもので十分満足しているだろうか。

十戒の後半部分はすべて、他者に向けるものではなく、自分に向けるものなのです。そういう意味で、「律法はわたしたちの心に罪の自覚を生じさせるものなのです。」(ローマ3:20)そしてまた律法は、わたしたちを信仰によって義としてくださるキリストのもとへと導く、養育係でもあるのです。(ガラテヤ3:24)聖書の言葉はすべて、自分に向けて語られている言葉なのです。聖霊様によらなければ、自分に向けられた戒めとして十戒を聞くことはできません。誰もあの富める青年のように、胸を張って守っていますと言える人間はこの地上にはいないのです。

わたしたちは皆罪人です。主の十字架の贖いの血潮が必要です。毎月、毎月、晩餐式をして悔い改めても、悔い改めても、なお自分の中には罪が現存しています。その事実に愕然とします。イスラエルの民は、実にこの十戒の訓練のために40年間かかりました。それでも、あの成人男子の60万人が、全員荒野にその屍をさらしてしまったのです。誰も約束の地カナンに入ることはできませんでした。そしてあの指導者であるモーセでさえ、たった一回の神に対していら立った故に、約束の地カナンに入ることができませんでした。(民数記20:12)生きてカナンの地に入ったのはカレブとヨシュアのたった二人だけでした。それでも彼らイスラエルの民は、信仰をもって荒野での苦しい旅と生活を続けて来たのです。約束の地には入れず、途中で砂漠に骨を埋めてしまいましたが、約束の地をはるかに仰ぎ見て、信仰をもってその生涯を歩み通しました。

わたしたちもその信仰が与えられています。主の前に、自分の罪を告白して悔い改めるならば、主はどんな罪でも雪のように白くしてくださいます。新しく造り変えて下さり、生まれ変わらせてくださるお方です。日ごとに赦され、新しく造り替えさせていただいています。なぜならば、「わたしは主、あなたの神である」と告白して下さり、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と妬むほどの情熱をもって愛していて下さるお方だからです。十戒に示された自分の罪を告白し、心をすべて明け渡して主イエス様のもとに行くとき、私たちはキリストの愛の十戒によって生かされ、日毎に新しくされてゆきます。

自分の両親を心から愛するものへと造り変えて下さいます。殺すよりも自分の命を与えるものへと変えて下さいます。姦淫を心から憎み、遠ざける力を与えて下さいます。盗むよりは、無償で与えるものにして下さいます。嘘をつかないで、いつも真実を話す人間にして下さいます。そして隣人の家や妻をむさぼるという罪から心底から解放してくださいます。わたしたちには十戒の実践はできませんが、このモーセの十戒の終わりとなり、この十戒を完成させてくださったイエス・キリスト様がおられます。たとえ40年かかってもいいですから、信仰をもってわたしたちの主なる神を見上げ、感謝と賛美をもってこの荒野での信仰の旅を続けてまいりましょう。(岡田 久)

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