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わたしはぶどうの木 (ヨハネ15:1~10)

メッセージ
2020年3月15日富里キリスト教会
「わたしはまことのぶどうの木」
(ヨハネ15:1~10)
1.今は終わりの時

新約聖書のヨハネの黙示録を読んでみますと、世の終わりにはいろんな地球規模の災害が起こると預言されています。あの「3・11が起こったのはなぜ?」という想定を超えた出来事に対して疑問が投げかけられたと同じように、今回のコロナウイルスの蔓延も何故という問いが呼びかけられています。今年はオリンピックの年で、これから社会も経済も好調に推移し、発展すると誰もが思っていた矢先ではなかったでしょうか。それが中国で起こった一人の人の新型ウイルスの感染によって、世界中が恐怖に落とされ、野球もサッカーもできなくなりました。まさに青天の霹靂です。3・11の時もそうでした。突然起こりました。ですから、わたしたちはこういう先が見えない時代に生きているのですから、日ごろから目を覚まして祈りましょう。そしてどんな艱難やパンデミックが起こってもあわてることなく、それだけ主の再臨が一層近づいていることを信じましょう。そしてひたすら聖書の御言葉に目を留めて、聖書の預言の言葉から、やがて来る艱難の時代とそれに続く主の来臨の時を目を覚まして待ち望んでゆく者となってゆきたいと願っています。

3・11の地震と大津波が起こったように、そして今回の世界的なパンデミックが起こったように、必ずキリストの再臨も起こります。突然来られます。その時わたしたちはどうしますか。慌てて聖書を読み直しても、教会の礼拝に出席しようとしても、牧師のところに行って祈ってもらおうとしても、もうその時は手遅れです。普段から真剣に信仰をもって生きることです。今がその時なのです。今は終わりの時なのです。

「主の日は盗人のようにやってきます。その日、天は激しい音をたてながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出された者は暴かれてしまいます。このように、すべてが滅び去るのですから、あなたがたが聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日が来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(Ⅱペテロ3:10~13)「万物の終わりが迫っています。だから思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」(Ⅰペテロ4:7~8)

少し前置きが長くなりましたが、この終わりの時代に生きているわたしたちは、どんな天変地異、災害、疫病が起こっても驚くことはないということです。起こるべくして起こっているのであり、そのような事件に出会う度にキリストの再臨が一層近づいていることを信じて、それに向けてみ言葉に対する信仰とみ言葉による祈りと愛の業に励んでゆく者でありたいと願っています。そういう思いで、今日のまことのぶどうの木であるイエス様の御言葉を見てみましょう。

2.イエスにつながっていなさい

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネ15:1~4)

イエス様はご自分のことを「まことのぶどうの木」だと言っています。そして父なる神様は「農夫」であって、実を結ばない枝を切り取ってしまい燃やしてしまうお方だと言っています。農夫である神様は、実を結ばない枝を剪定し、余分な養分を与えないようにし、実を結ぶ枝はさらに手入れをして豊かに実をつけるように管理して下さるというのです。

では、私たちはどうかと言いますと、3節のところで「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」と言っています。つまりイエス様を信じて受け入れた人は既に、罪が清められてよい枝となり、豊かに実を結ぶ準備が整っているというのです。そして、すでに主の御言葉によって清められた若い新しい枝が、豊かに実をつけて行くためにはどうしたらいいかと言いますと、このまことのぶどうの木であるお方にしっかりと繋がって行くことだと言っています。そうすれば黙っていても実をつけるのです。

この「つながる」という言葉は、英語ではリメイン(Remain)となっています。ですから「とどまる」と訳している聖書もあります。つまり、わたしたちは主の御言葉を信じ受け入れたことによって既に清くされています。問題はその後に、この主の内にとどまり続ける信仰が求められています。7節に「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」とあります。

つまりイエスにつながるということは、イエスの御言葉にとどまり続けることです。これがつながるということです。つまり自分で何とか一生懸命努力して、良い実をつけよう、新しい人に伝道しよう、愛のあるクリスチャンになろうと一生懸命励む必要はありません。枝は自分で実をつけることができないのですから。幹でありぶどうの木の本体につながっているだけでいいのです。あれしようこれしよう、あれをしなければこれをしなければと焦る必要もありません。まず御言葉によって清められ救われた人は、まことのぶどうの木であるイエス様につながり続けることです。この木から離れてはいけません。また、ただ木につながっていてもだめです。本当のぶどうの木であるイエス・キリストにつながることです。

自分で何とか必死に実をつけようと努力する必要はないのです。まず第一のことはまことのぶどうの木であるイエス・キリストの真理の御言葉につながっていることなのです。イエス様のぶどうの木につながることによって、木から養分をいただいて枝は黙っていても成長するのです。葉をつけ実をつけその実が大きくなっておいしいぶどうの実になって行きます。

まことのぶどうの木であるイエス様につながることです。もしかしたら、イエス様よりも○○先生とか自分を導いて下さった方につながっていることはないでしょうか。こういう枝は、一見木につながっているように見えても、本体につながっていませんから、いつまでも実をつけることはできません。やがて刈り取られてしまいます。まとめて焼かれてしまいます。それは農夫である神様の仕事です。またつながっているかどうかは、その実で見分けることができます。イエス様につながっていなければ、決して実を結ぶことができません。

更にキリストにつながるということは、キリストの十字架の言葉につながるということです。先々週学びました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗わなければならない。わたしがあなたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:14~15)イエス様の御言葉を聞いて、その教えに生きるようにすることです。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)自分という自我に死んで、聖霊の助けと導きをいただいて主が望むこと、主が喜ぶことを選び取って行くことです。自分の考え、自分のポリシーとか自分の思想というものに死んで、キリストの御旨に従うことです。なかなかできることではありませんが、それを祈って行くときに、わたしたちの内に働いて下さるお方がそれをさせてくださいます。

3.御言葉による祈りと愛

この主イエスの御言葉から来るところの祈りと愛が、わたしたちの実となって行きます。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(15:7~10)

わたしたちが御言葉につながっているかぎりにおいて、祈り求めなさいと言っています。わたしたちが常に御言葉を暗唱し、御言葉を調べ、御言葉に従うかぎりにおいて、祈りなさいと言っています。「望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」と言っています。逆に言いますと、御言葉なしの祈りは自分勝手な祈りで聞かれないということです。何度も熱心に祈っても、断食して祈っても、それが神様の御言葉に沿った祈りでなければ祈りに火がつかないのです。独りよがりの祈りです。

ヤコブはそういう祈りについてこう警告しています。「得られないのは、(神に)願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブ4:3)み言葉に基づいた祈りです。何が何でも神をねじ伏せても自分の願いを通そうとするのではなく、神様がこう言いましたから、わたしはこう祈りますという祈りです。み言葉に基づいた祈りは、爆発的な力を発揮します。わたしたちは皆既に御言葉によって清められているのです。ですから、後はそのみ言葉にしっかりと結びついて、祈って行くことです。

皆さん方も、朝のデボーションをする時にどうしていますか?祈ってから聖書を読みますか。恐らくそうではないと思います。まず主を賛美して、次に聖書を読んでから、その時の聖書の御言葉に基づいて、祈りの声を発せるのではないでしょうか。あなたが、こうおっしゃいましたから私はこう祈り求めますと。このようにして、御言葉につながって行くときに、自然とみ言葉に基づいた祈り、すなわち、御旨にかなった祈りが出てくるのではないでしょうか。この祈りがかなえられることが、ある意味では実を結ぶということになります。

皆さんだけではなく誰でも、わたしも実を結びたいと願っています。でもなぜ多くのクリスチャンが、実を結ぶ前にぶどうの木から離れてしまっているのでしょうか。あるいは何十年もつながっているのに、実を結ばないクリスチャンになってしまっているのでしょうか。それははっきりしています。み言葉の内に留まっていないからです。み言葉につながっていないからです。あるいは本当のぶどうの木であるイエス様につながらないで、別のぶどうの木につながっていることはないですか。まことのぶどうの木はイエス様だけです。それ以外の木、岡田牧師、大上先生、とか人間につながっていることはないでしょうか。それらの方々はまことのぶどうの木ではありません。まことのぶどうの木はイエス様です。その方を離れては、わたしたちは何もできないのです。

ここに歩きの十字架を見てください。十字架は下の線が一番長く、地面にしっかりと立っています。この下の線がみ言葉の線です。そして、そこから上に伸びる祈りの線が出てきます。これがみ言葉の内にあって祈ることです。そして更に横の愛の交わりの線が出てきます。これも御言葉にしっかりと足をつけたうえでの愛の働きです。神の戒めを守ることによって生じる愛の働きです。そしてその実が残って行くというのは伝道と証です。これも御言葉の下の縦の線から出てきます。み言葉を宣べ伝えるのです。

同じように、「わたしたちがキリストの掟を守るならば、キリストの愛にとどまっていることになる。」(15:10b)と述べています。キリストの掟は天の父なる神様の掟です。掟とは、御言葉よりも少し厳しい命令の言葉です。そうすべきである、服従を求める言葉です。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネ13:14)と主イエスが言いました。ねばならないという言葉です。これはイエス様にしては珍しい強制力を持った御言葉です。

人を愛するということは、自分が好きな人、気の合う人を愛するのではなく、主の戒めによれば、そうではなく自分を傷つけた人、愛せない人、赦せない人、裏切られた人の足を洗う、すなわちその人のことを赦しなさいということです。それが主の戒めに元づいて、キリストの愛に留まるということだというのです。わたしたちは今までなんと多くの愛の勘違いをしてきたことでしょうか。何か良いことを相手にしてあげるのが愛だと思っていました。でも主の教える愛とは、いやな相手嫌いな相手を無条件で赦し受け入れるということだというのです。それがキリストの愛の掟だというのです。またそこに信仰の闘いがあります。

12節でこう言っています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(15:12~13)と。友のために自分の命を捨てることはなかなか難しいことです。人にはできないことです。でも私たちの内に宿っていてくださるお方が、そうしなさいと命じておられるならばそうできるのではないでしょうか。自分ですることではありません。聖霊様を通してわたしの内におられるキリスト様が、そのようにしてくださるのです。祈って行くことによって、思いを言葉にすることによって、敵を赦すことが可能になってきます。

「もはや我、生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり。」の御言葉にありますように、主の御言葉につながっているならば、聖霊様を通して主御自身が内に宿って下さり、主イエス・キリスト様がわたしを通して成し遂げて下さるのです。み言葉に常につながっていましょう。そしていつも御言葉を喜び、御言葉を心に蓄え、御言葉を語り合い、御言葉を宣べ伝える者となりましょう。そうすれば必ず、実を豊かにつけて行きます。最後に15:5を読んで終わりたいと思います。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(15:5)                       (岡田)

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