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わが魂は主を仰ぎ望みます (マタイ14:22~33)

メッセージ

2016年4月3日富里キリスト教会

「わが魂は主を仰ぎ望みます」
(マタイ14:22~33)

1.苦難と絶望の中から

毎年、この詩編の143編の7節から順番に、標語を選んでいるのですが、この詩編の最初の7節を読んでみましょう。「主よ、早く答えて下さい。わたしの霊は絶え入りそうです。御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です。」となっています。つまりこの人は、本当に絶望して落ち込んで、死に直面するほどの窮地に陥っているのです。墓穴に下る者のようだと言っています。なぜかと言いますと、神様が自分の祈りに応えて下さらない、いくら祈っても答えがない、もう心の奥底から落胆し絶望しかかっているというのです。神様の顔が見えてこないと言う状態です。いわば神から見捨てられたというような、絶望のどん底に突き落とされた状態なのです。

ちょうど今朝、読んでいただきました嵐の中のペテロたちのような状態です。イエス様が舟から離れて一人で山に登り、弟子達は自分達だけで暗い湖にこぎ出していきました。案の定嵐が起こって来て舟はにっちもさっちもいかなくなりました。そのような彼らの混乱を御覧になられた主イエスは、山から下りて行って湖の上を歩いて彼らの方に行きました。その水の上を歩いておられるイエスを見て、弟子たちは元気が出るどころか、逆に「幽霊だ」と言って恐怖の叫び声をあげたのです。

もしこの船を今日の教会にたとえるならば、教会に押し寄せてくるいろんな荒波を見て、弟子たちが今にも教会が沈没してしまいそうだと思って心配している場面です。そしてそこにせっかくイエス様が近づいて行っても、イエス様だとは認めることができずに、ますます教会の中が混乱しているわけです。つまりこれはどういうことかと言いますと、教会に押し寄せる荒波を見て心が動転してしまうと、イエス様が近づいて行っても気が付かないと言うことです。心の中に不安や恐怖心があると、ベランダに干してあった、白いシーツを見ても幽霊だと思ってしまうことです。

つまり、問題はわたしたちの心の中にあると言うことです。心の中が嵐になっているのです。たとえ教会が嵐に会いましても、イエス様が山の上からわたしたちを見ていて下さるのです。そして、いつでもすぐに助けるために下って来て下さると言うことです。いつでもどこでもたとえ水の上でも火の中でも、イエス様は必ず来て下さるのです。わたしがそばに居ると言って下さるのです。そして声をかけて下さいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(14:27)と。

2.主を仰ぎ望む

つまり、自分というもの、自分の力や実績に全く絶望し、もはや何にもできない、後は神様を待つしかないと言うところに追い込まれて初めて、「待ち望む」という信仰が培われるのではないでしょうか。主を仰ぎ望むということは、あくまでも私たちが下にいて下から上を見上げている状態です。それは、奴隷が主人の憐みを乞うて下から上を見上げるような姿です。上を見上げることができないほど、心が落ち込んでいるからこそ上を見上げるのです。頭がうなだれる時こそ、上を見上げること、これが「主を待ち望む」と言うことではないでしょうか。

「わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き、絶え間なく嘲って言う『お前の神はどこにいる』と。なぜうなだれるのか。わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう、『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ。」(詩編42:11~12)こういう言葉が、この詩編42~43には3回も繰り返し出てまいります。うなだれてはいけない、呻いてはいけない、顔を上げて神を待ち望め。神を喜び、楽器をもって感謝の歌を歌えと自分自身を励ましているのです。

ペテロもそうです。イエス様が湖の上を歩いて近づいてきたことが分かると、「わたしに命じて、水の上を歩いてそちらへ行かせて下さい。」(マタイ14:28)と言いました。そしてイエス様が来なさいと言われると、ペテロは水の上を歩きだしたのです。弟子達の中で、そしてクリスチャンの中で今まで水の上を沈まないで歩いたというのは、後にも先にもペテロ以外にありません。ものすごい信仰です。彼はしっかりとイエス様を見て真っ直ぐに水の上を歩きました。他の弟子達もびっくりしたでしょう。さすがペテロだ、我々のリーダーだと感心したと思います。彼はリーダーとしてのいいところを見せたのです。しかし、所詮ペテロも人の子です。人間です。

強い風と荒波がぺテロの行く手を阻みました。今まで一心にイエス様を見ていたペテロのその目が一瞬、風と波の方に注がれました。するとそのとたんに、彼はブクブクと沈み始めたのです。そして恥も外聞も忘れて、思わず「主よ、助けて下さい。」と叫びました。するとイエス様が近づいて来て、力強い手で沈みゆくペテロを捕まえて、舟の中へと引き上げたのです。その時ペテロは初めて、信仰とは何かと言うことを知ったのではないでしょうか。

つまり、今までペテロはイエス様と対等の目線にあったのです。イエス様と対等になって、あれをしましたこれをしました、水の上も歩きましたと言っていたのです。でも真の信仰とは、自分とイエス様を対等に置くことではなく、あくまでも下から上を見上げて主にすがりつく、主の救いを待つ、あるいは恰好が悪くても、もがきながらでも、必死に主に助けを求めることではないでしょうか。主の腕に、足もとからすがりつこうとするのが信仰ではないでしょうか。つまり自分の力、自分の実績、自分の能力ではなく、何もできない私、罪人の私を、ただ主の憐みによって救いあげて下さることを願うことです。これが仰ぎ望むと言う信仰ではないかと思います。

信仰とは、このイエス様を一心に見上げることです。このお方に必死に依りすがることです。ただただ、上を見て主の憐みを立ち望むことです。わたしには何もできない、あなただけがわたしたちの頼りとする力であり希望ですと言って、主に全面的な信頼を置いて依りすがりつつ待つことです。そして常にこのような思いを持って信仰生活を歩むことです。成功しても失敗しても、富んでいても貧しくてもです。一時はそういう気持ちで必死になっても、熱さ喉元過ぎればすぐに忘れてしまうわたし達です。いつも常に、耐えることなく、真剣に主に助けを求めて祈って行くことです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)

3.主に感謝しよう

また主を仰ぎ望むということは、主に礼拝をすること、主に感謝を捧げることも含みます。ペテロと主イエスが一緒に船に乗り込むと、風は静まり嵐はたちまちのうちにおさまりました。すると舟の中にいた人たちはこぞって、「本当に、あなたは神の子です。」(14:33)と言って主を礼拝しました。ですから、わたしたちが目的地に着くためには、この主イエス様を舟の中心において、このお方をいつも礼拝し、力を込めて賛美を献げ心から感謝を献げて行くことです。これも「主を待ち望む」信仰です。

これはパウロが、ローマ書7:24節でこう言った言葉によるものです。「わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の律法に仕えているのです。」と言う御言葉に由来しています。
わたしたちクリスチャンは、新しい霊的な性質と古い肉の性質の二つの性質を今も持っています。この二つの性質の板挟みになって葛藤しています。

金銭や性的な誘惑に会ったり、失敗をして落ち込んだり、人間関係で悩んだり、人を赦せなかったり、どちらを選ぶか迷ったりした時、いろんな人生の信仰の闘いがあります。そしてときにはサタンの力に負けてしまうこともあるかもしれません。サタンはいつも、お前はだめだ、もうクリスチャンとは言えない、それでも牧師か、牧師なんかの資格がないと言って、わたしたちを失望させ、神様の愛と御言葉から引き離そうとします。

そういう時に、わたしたちが心の中で「主イエスによって神に感謝します。」と念じるだけで、心の闇と鎖から解放されて明るくなるのを経験しことのあるのは、私だけではないと思います。「主イエスによって神に感謝します!」と言う言葉は、「それでも、そんなダメな私でも、罪を犯してしまった私でも、神様はどこまでもイエスの十字架によってあなたの罪や失敗を赦し愛していますよ。」と言うメッセージでもあるのです。

今日から2016年度が始まりました。この主を待ち望むと言う御言葉を念頭に置きながら共に歩んで参りましょう。そして常に主を見上げて、自分の罪を告白して悔い改めることです。そして主に絶えずどんな時でも感謝を捧げて行くと言うことです。必ずや2016年度も、主がわたしたちを祝福と恵みの油を持って満たし導いて下さると信じます。            (岡田 久)

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