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もう泣かなくてもよい (ルカ7:11~17)

メッセージ
2019年2月3日富里キリスト教会
「もう泣かなくともよい」
(ルカ7:11~17)

1.悲しみと死の行列

今朝は、一人の悲しみの中にあるお母さんのお話しについてみてまいりましょう。人生には四つの苦しみがあると言われています。「生老病死」という言葉で言い表されますが、生きてゆく苦しみ、老いの悲しみ、病の苦しみ、そして死の苦しみだそうです。そして、人間はこの四つの苦しみの他に、八つの苦しみを持っていると言われています。そこから「四苦八苦する」という言葉が生まれたと言われています。どんな人間でも、必ずこれらの苦しみを経験します。それが早いか遅いか、多いか少ないかはあるかと思いますが、誰でもそこを通させられます。今日のお話はまさに、その人生の悲しみと苦しみのどん底に突き落とされた一人の女性のお話です。

「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちは大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。」(ルカ7:11~12)

弟子たちと群衆も一緒にいたイエス様を中心にした群衆が、ナインという町に近づかれました。すると町の門から別な行列が出てきました。それは葬儀の行列です。遺体の入った棺を皆で担いで、町から出てきて近くの墓地に葬るところでした。イエス様がその葬儀の列を見てみると、一人のお母さんがお棺に付き添っていましたが、やっとの思いで歩いていました。一目見て、死んだのはこの母親の子供だなと解りました。しかもその母親は未亡人、やもめでした。いわば母一人、子一人の家族の中のその最愛の一人息子が死んだのです。このわが子に先立たれた母親の気持ちは、いったいどんなだったでしょうか。

もはや一人で歩くことができないほどに、お母さんはよろめきながら必死にこらえてわが子の遺体に付き添っていました。それを見かねた町の人々が、悲しみに打ちのめされている母親を、両側から抱きかかえながら墓地までついて行きました。悲劇と悲しみと死と言ったものが、一緒になって行進しているような状況です。この葬儀の列はまさに、人間の人生そのもの、生老病死を表しているような気がします。若くして病いで死んだ息子、もしかしたらその子の父親も病気で死んでしまったのかもしれません。人間はだれでも、病いの苦しみ、そして死という最後の場面を通らされます。残された母親にとっては、これからの人生どう生きて行けばいいでしょうか。まさに生きる苦しみが始まります。ですからこの葬儀の列は、人間の運命を背負っている行列のような気がします。悩みと苦しみと悲しみと病を背負って、最後は死へと向かっている悲しみの人生を表しています。そして誰もこの死の行列を留めることはできません。わたしたち人間の悲しい運命です。

その死の行列と、イエス様の行列が出合ったのです。いわば死と生が砂漠の真ん中で出会ったのです。悲しみの列と、喜びの列が出合ったのです。いやすれ違ったのです。そしてこの人間の死という定めを背負わされた悲しみの列に、命と希望を持った列が出合い、命が死に近づいて行かれたのでした。

Let us read this scripture. “Soon afterward, Jesus went to a town called Nain, and his disciples and a large crowd went along with him. As he approached the town gate, a dead person was being carried out- the only son of his mother, and she was a widow. And a large crowd from the town was with her.” (Luke 7:11-12)
A large crowd went along with Jesus, and funeral line went out from the gate of the town Nain, these two lines met on the way. The one was a life and joy, the other was a death and sorrow. The line was a funeral one with sorrows and mourning and death. Because the dead man was only son of his mother, moreover she was widow. After her son died, how does she live without her son and by herself? Precisely
this line means a human life with sorrows and mourning and death. If we may live without God, we should live a funeral life with sorrows and mourning and toward to death. But Jesus saw a sorrowful woman in this dead line. He saw and approached to her.

2.憐れんで手を触れられる神

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止った。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい。』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。」(7:13~15)

悲しみに打ちひしがれていた憐れな母親の姿を見て、イエス様がとられた一連の行動が述べられています。それは、「母親を見た」そして「憐れに思った」そして「もう泣かなくともよい」と声をかけられました。そして葬列を止めて、「棺に手を触れられました」そして「若者よ、起きなさい。」といいました。すると不思議なことに死人が起き上がってものを言い始めたのです。

イエス様はだれですか?「イエス様がいちばん」という歌がありますが、その中でイエス様はだれだと言っているでしょうか。「だあって、イエス様は神様だもの。だあって、イエス様は神様だもの。」という歌詞のとおり、イエス様は神様です。イエス・キリストは真の神にして、真の人です。肉を取って下さった神そのものです。そしてその神様がどういうお方であるかを示したのが、このナインのやもめのお話なのです。

神様は、悲しみに打ちひしがれた人を黙って見過ごされる方ではありません。ご自分の方から、目に留めてくださいました。神様がご覧になったのです。ペテロもまたマタイも、神様であるイエス様の方から見て下さって声をかけて下さったのです。もしかしたら、このナインの町に来られたのも、この母親のことを知っておられたからではないでしょうか。

そして母親を憐れに思いました。これは何度も出てきますが、スプリンクにゾマイというギリシャ語です。この言葉から、脾臓という英語スプリーンspleen というができました。つまりご自分のはらわたがえぐられるほどの激しい感情を表しています。心を抑えることができないほどの感情をもって、「もう泣かなくともよい」と言われたのです。人が悲しんでいる時には、思いっきり悲しませてあげることが大事だとよく言われます。しかし、この母親の悲しみは、尽きることがないほどの深く大きな嘆きでした。慰めの言葉も見当たりません。

「泣くな」という方が無理です。でもイエス様は「Don’t cry」 or「 Stop weeping」と言いました。このようにはっきりと泣かなくてもよいと言えるのは、神様以外にないのではないでしょうか。人間はそこまではっきりとは言えません。神様だからこそ、はっきりと「泣かなくともよい」と言えるのです。なぜならば、誰もその子を生かすことができないからです。その子を死から生き返らせることのできるのは、ただ一人、イエス・キリスト様以外にありません。

イエス様の御手が触れるということは、送り出すことではなく、この死の行列を止めるという意味の手ではなかったでしょうか。死をストップさせる手です。それは復活の主であるイエス様以外にできません。イエス様の御手だけが、この人間の死という運命を背負った行列をストップさせることができるのです。イエス・キリストの御手は死を停止させ、そこから命と希望の道へと方向転換をさせてくれる御手なのです。新生讃美歌537にこう言う歌詞があります。「重い荷を担い、苦しむ人に、主の御手が触れると、すべてが変えられた。主の手がやさしく、わたしに触れると、わたしは主により、すべていやされた。」

Let us read next “when he saw her, his heart went out to her and he said “Don’t cry.” Then he went up and touched the coffin, and those carrying it stood still. He said “young man, I say to you, get up!”
(Luke 7:13-14)
Let us see the actions of Jesus carefully. First He saw and second His heart went out and third He said “Don’t cry” then He touched and said “Get up!”. At first Jesus saw a miserable woman and His heart went out. That his heart went out means a thought that the intestine gets scolded. Jesus had a passion on her. And said “don’t cry”. Only Jesus can say “don’t cry”. Because Jesus died on the cross to redeem our sins and He resurrected from dead. Only Jesus won the dead. It is Jesus that resurrected us from dead. Jesus already won the death through his death on the cross and resurrection from tomb. Jesus is the God. Jesus is a Savoir. Jesus is a life. And he saw me and went up to me and touched me and said to me “Get up”. Only Jesus can stop the line of dead. And he can give me an eternal life and make me get up to the heaven.

主の御手が棺に触れたのです。棺は死を意味しています。そして「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と言われました。すると、若者は起き上がりました。
つまり復活したのです。起きなさい。とは英語でget up 又は arise という言葉です。つまりイエス様が来てくださったのは、わたし達の罪と死を十字架の上で滅ぼし、三日目に死人の内から復活することによって、最終的に死と罪と悪魔に勝利するためでした。復活は勝利の証です。死はもはや私たちを支配しません。そのことを主は宣言されたのです。このお方だけが、死の行列を止めて下さり、死に打ち勝って永遠の命を与えることのできるお方なのです。「起きなさい」とは、復活の朝に死人の中から栄光の体へと復活させていただく時の言葉です。

3.息子を返して下さる神

15節に「すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。」とあります。この子はイエス様によって生かされました。つまりイエス様の血潮によって罪が贖われたのです。そしてキリストのものとなったのです。主はこの母親の嘆き悲しみをご覧になって、この母親の切なる願いに答えられて、この子を生き返らせてくださいました。キリストのものとなった彼を、主は再び母の手にお渡しになって、今までのように自分の子として育てることを託されたのではないでしょうか。

わが子ゆえに、目に入れても痛くないほどの愛情を注いで育ててきました。でもこれからは、神様から委ねられた子供、神の子供として、信仰をもって育てて行くことを許されたのです。この子はもはやわが子ではない。死んで生き返った神の子として、育てることを委ねられたのです。今までの彼女は、なぜ、どうしてという神に対する思いがあったのではないでしょうか。なぜ神は、わたしの子供を奪ったのですかという思いがあったのではないかとおもいます。それほどに自分の愛情をもって育てておりました。

でも、今手にしたわが子は、もはやわが子ではない、神様の子として、信仰をもって育てて行くことを決心したのではないかと思います。「主は与えて下さるお方であると同時に、主は取り去る方でもあられる。人間の生も死もすべては主の御手にある」(ヨブ1:21)ということを彼女は教えられたのではないでしょうか。イエス様は母親のあまりの悲しみのゆえに、この子を引き離して自分の弟子として従ってくることをよしとせず、母親の手にゆだねたのではないかと思います。どこまでも深い慈しみと憐みに満ちたお方であることを、改めて教えられました。

Finally Jesus gave this young back to his mother. When Jesus said him to get up, young man sat up and began to talk. The miracle happened. Then Jesus gave him back to his mother. What does it mean? Why Jesus gave him back? Because the resurrected young man is belong to Jesus, so Jesus gave him back to his mother again to nurture as a gift from God not as her own son. This is the thought of mercy and love of Jesus. Jesus is the God. Only He can make us live in eternal life.
Until now Jesus said to those who sorrow and mourn “Don’t cry, Stop weeping!”. Let us believe in this word of comfort of Jesus. And give thanks to Jesus whatever happened. To give our joy and to give thanks to Jesus is our resource of power.

この主イエス・キリストの大きな愛の眼差しと救いの御手の中へと、招き入れて下さったお方に、心から感謝したいと思います。それはまずイエス様が、わたし達に目を留めて下さり、近づいて来てくださり、わたし達に触れて下さったのです。罪と死によって悩みと悲しみの中にしかいることができなかった私たちのところへ、主ご自身が近づいてこられたのです。そしてわたし達のために命を与えて下さったのです。そこにわたし達の救いの根拠と希望があります。主の一方的なまなざしと御手によって、永遠の命へと方向転換させていただいたのです。この主の大きな憐れみの眼差しと御手を感謝しましょう。イエス・キリストの十字架の贖いと復活の力を喜びましょう。そこにこそ私たちの救いの源があります。名前がすでに天に記されていることを感謝し、喜びましょう。(岡田 久)

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