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つまずきの石 (ローマ9:30~10:4)

メッセージ

2013年11月17日富里キリスト教会

「つまずきの石」
(ローマ9:30~10:4)

1.イスラエルがつまずいた理由

あの神様が選ばれた民、数々の苦難を通して神の栄光を与え、神の子としての身分も、栄光も、約束も、契約も、律法も、そして神を礼拝するという栄光も彼らだけに与えられました。(9:4)まさに神に選ばれた宝の民です。しかし、肝心の彼らが、神の義を得ることがなく、逆にこの栄光の約束から見放されていた異邦人の方が、神の義である信仰による義を得ることができましたとパウロは言っています。

彼らは残念ながら、本来、律法が目指していたところのものに到達することができませんでした。その理由は、32節「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。だから、彼らはつまずきの石につまずいたのです。」とパウロは言っています。更に、10章の2節でもこう言っています。「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証しますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではなりません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」と。

彼らは律法を守ることには熱心でしたが、本来律法が指し示している目標には達しませんでした。何故か、それは自分の力、自分の行い、自分の正しさ、自分の義を立てていたにすぎなかったからです。だからこのつまずきの石に、つまずいたのです。

2.キリストは律法の終わりであり、目標であり、完成である

パウロは何度も言ってきました。「律法を行うことによっては罪の自覚が生じるだけである。」(ローマ3:20)と。しかしながら、イスラエルの民は、律法を行う、律法を守ることによって自分は神の子であり救われているのだと考えていたのです。これをパウロは、「正しい認識に基づくものではない。」とはっきりと断言しています。つまり、認識不足、知識がないという彼らの無知から来ているというのです。誰でも、聖書をしっかり読めば、そうは書いていないことはわかるはずです。自分に罪がないという人は、無知だということです。

つまり、律法によっては、人は救われない。むしろ逆に罪の意識、罪の自覚が生じるだけなのです。ですから、私たちは、自分は神の律法を守ることができない、律法の違反者だということを素直に認めることが大事だということです。生まれながらにして罪人であり、今も罪を持っていて、罪を犯すこともあるという事実をはっきりと認める必要があります。これが正しい認識、人間についてのそして律法、旧約聖書の正しい知識なのです。

ですから、だれでも神の贖いの供え物である神の子羊なるイエス・キリスト、しかもあの十字架に架けられた救い主、メシヤを仰いで罪赦されて、生きる以外に道はないと悟ることなのです。これが正しい認識です。そこに、真実の信仰者の生き方があり、聖書は旧約も新約もそのことを教えているということです。そしてこの聖書全巻が、証し、律法が目指しているのは、この神の義なるイエス・キリスト、しかも十字架につけられたメシヤなのです。律法の目的は、このイエス・キリストの十字架の救いに現された、神の義を目標にしているのです。自分の義ではありません。神の義なのです。この神様の正しさ、正義、真実を神は、あの十字架の御子を通して現して下さいました。

「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光をお受けられなくなっており、彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義とされるのである。」(ローマ3:23~24)そして、この神の義は、このお方を信じる信仰によってのみ、与えられるものであり、ユダヤ人だろうが異邦人だろうが、関係なく、誰でも無条件に与えられる神の救いだということです。これが正しい認識です。

この10:4にあります「キリストは律法の目標であります」と言う言葉がございますが、この新共同訳聖書では「目標」と訳したギリシャ語は、テロスと言うギリシャ語ですが、「目標」と言う意味と同時に「終わり」と言う意味もあります。つまりイエス・キリストの十字架によって、もはやユダヤ人をはじめ、全人類を縛ってきた律法の支配が終わりを告げたということです。キリストの十字架によって、肉の世界、法律の時代は終わったということです。

この律法ができなかったことを、成し遂げるためにイエス・キリストはこの世界に来られました。そして、律法によって明らかにされた人間の罪、人間の限界を御自分の死をもって裁いてくださったのです。キリストは、律法のできなかったことを、完成するために来て下さり、十字架の上で律法の呪いをご自分の肉の上に負って下さったのです。そして私たちが受けるべき律法の呪いを、ご自分の身に引き受けてくださいました。律法の呪いの中から、私たちを贖い出して下さったのです。(ガラテヤ3:13)こうして律法の支配と、罪と罰の世界の終わりとなって下さったのです。

私たちが犯した、刑法上の罪も、また心の中の隠れた罪も、一切を身代わりになって受けて下さって、私たちを無罪放免に自由の身にして下さったのです。そればかりではなく、私たちを罪のない神の子として御前に立たせて下さり、永遠の命と言う祝福の中に招き入れてくださったのです。今や、私たちはイエス・キリストによって、全く新しい神の恵みのもとに置かれ、神の新しい世界、神様が御支配する神の国へと招き入れていただいたのです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5:17)こうしてイエス・キリストは律法の終わりとなって下さり、律法の目標となって下さり、律法の完成者となって下さったのです。

3.つまずきの石の恵み

そしてすべての人が、この自分の罪という事実に気付くように、神様は、この「イエス・キリストの十字架と言うつまずきの石」を、あのシオンの丘に据えてくださったのです。ユダヤ人にとっては、来たるべき救い主なるメシヤが、あのシオンの丘で十字架の上に架けられるということは信じられないことでした。あのナザレの大工の息子が、来たるべきメシヤ救い主だとは到底信じられませんでした。彼らは、あの貧しく、惨めな、傷ついたキリストにつまずきました。

十字架の救い主は、ある意味では、ユダヤ人のみならず、誰でもつまずくのではないでしょうか。どうして、神の子が、十字架に架けられなければなないのだろうかと。でも、この主の十字架をみて、キリストは私の罪のために十字架にかかって下さり、わたしの罪の身代わりとなって十字架にかかって下さった。それほどに、神はこの世を愛され、この罪人であるわたしさえも愛して下さっているのだと信じる者にとっては、恵みの石になるのではないでしょうか。主を見上げて、この方こそわたしのメシヤ、救い主だと信じる者には貴い、今も生ける救いの石ではないでしょうか。

人の人生、いつも平坦な道ばかりではありません。時には、岩場の道があったり、ぬかるみの道があったりします。元気に歩いていても、思わず道に埋まっている石につまずいて転んでしまうこともあります。誰でもつまずくときはあります。でも問題は、そのつまずいた時にどうするかです。

痛さまぎれに、つまずいた石を蹴飛ばしてしまったらどうなりますか。また、自分の足にけがをしてしまうかもしれません。イザヤは言っています。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない。」(イザヤ28:16)と。神様は、私たちが人生の中でつまずいたら、そして人生の道の真ん中で倒れてしまったら、その自分をつまずかせた石により頼みなさい、この石を信じなさい、決して失望に終わることはないと言いました。

そして自分は何故つまずいたのかということを考えてみなさいと言うのです。どうして自分がつまずいたのだろうか。もしかしたら、自分の義を得ようとして、一生懸命走っていたからではないでしょうか。自分の行い、自分の力、自分の努力によって何かを得ようとして、がむしゃらに走っていたからではなかったでしょうか。イスラエル、ユダヤ人は自分の宗教的な熱心によって、自分の経験深さによって神に救われようと頑張っていました。そういう、自分、自分、我、我と言う自分中心の生き方の故につまずいたのではないでしょうか。

ある人は、真っ暗闇の中に落ち込んでしまうこともあるでしょう。ある人は、物も食べれなくなって鬱になってしまうこともあるでしょう。でも、神様は、そのつまずきの石の傍らにいて、声をかけてくださいます。この小さな声を聞くことが、信仰です。つまずいた時こそがチャンスなのです。何故ならば、神様が一番近くにいてくださるからです。あなたに語っておられるからです。

この自分をつまずかせた石の声に耳を傾け、そのお方を信頼し、信じるならばその人にとって、石は救いの石になります。自分の罪を告白して、主に寄りすがることです。これこそ正しい神の認識です。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない。」(9:23)の御言葉の通りです。つまずきの石である主の十字架のもとに、行きましょう。                        (岡田 久)

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