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ただ神の恵みによってのみ救われる幸い (ローマ3:21~31)

メッセージ
2021/6/6
富里キリスト教会礼拝説教
「ただ神の恵みによってのみ救われる幸い」
(ローマ書3:21〜31)

①律法から福音へと
今年度に入って、私たちはともにこのローマ書を追ってまいりましたが、ここしばらくは罪、罪、罪のオンパレードの罪シリーズが続き、とうとう先週でその罪シリーズはピークを迎え、罪に対するパウロの結論とは、罪に囚われていないイエス様のような正しい者などはこの世には存在しない。つまり全ての人間は例外なく、漏れなく罪人であり、それは神の目からみると、とても正しいと認めることはできないというものでした。
その事実を痛感するためにこそ律法はあるのだとパウロは語ります。律法を守ろうとした時に生まれる痛み。それこそが罪の自覚であります。律法によっては罪の自覚しか生まれないのです。守ろうと思っても守れないのです。これが罪に囚われた人間の現実です。あんまり現実はみたくないものです。しかし、自分は本来、そのように無力で惨めで憐れな者なのだ。このような自覚を持つことがとても大切なのです。
そして、そこでどうせダメならと開き直って罪の世界にのめりこむのではなく、その罪を痛み、悲しみ嘆き、胸を叩きながら「主よ、私を憐れんでください」と涙する者を決して主は見捨てたりは、いたしません。必ずその涙を拭い去ってくださるのです。神様は罪に嘆く者を決して放っておいたりはされないのです。

ローマ3:21
「ところが、今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」

そのように罪に囚われ、嘆く者のために律法によって救われるという原理と全く関係ないところに神の義が示されたのです。それが福音であり、イエス・キリストそのものであります。神の御子なるイエスがこの地に人となって来られ、十字架をもって私たちの罪を全て贖われ、復活を持って勝利を示された。このイエスキリストのみわざに神の義が余すところなく表されています。主イエスが来られたことによって時代は転換点を迎え、新たな時代へと突入されたのです。時は満ち、救いの道が開かれたのです。その救いは律法の法則とは関係ないものでありながらも、旧約のアダム、アブラハムの時代からずっと続いてきた神の約束の成就なのです。その約束の時がイエス様の到来をもって始まりだしたのです。

マルコ1:15
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

イエス様が宣教をなされた時の第一声の言葉です。主イエスが来られたことにより、今や救いの神の国はどんどん拡がり続けているのです。

新しい契約である「神の義」。これは、人間を罪の中から救い出して、神との正しい関係に招き入れることを意味しています。神様の側から見れば人間を義とする行為であり、人間の側から見ると信仰によって神から義が与えられるということです。神から人へと向けたベクトル、矢印、そして人から神へと向けたベクトル、矢印。神に背を向けていた人間が罪を悔い改め、再び神の方へと身を方向転換し、向き直した時(これを信仰ととらえて良いでしょう)、二つの矢印が互いに向き合います。その神様との関係が健全に回復した状態はまさに義、正しいといえ、その信仰ゆえに神は人を正しくなくとも正しいと認め、罪の縄目から解放してくださるのです。
これは、神様からの一方的なプレゼントです。救いとは自分で達成するのではなく、一方的な恵が与えられることによって成就するのです。しかし、当たり前のことですが、プレゼントはもらわなければ自分のものにはなりません。その与えられたプレゼントを両の手で私たちは感謝を持って受け取っているのであり、まだ受けとていない方はどうかこの人間にとって最も大切なギフトを受け取ってほしいと願います。

ローマ3:21
「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこにはなんの差別もありません。」

キリストを信じることによって神の義が与えられる。しかしそれとともに、信じる、信仰という言葉は真実という意味も持ちます。それゆえ、イエス・キリストの真実ゆえに神の義が与えられるとも訳すことができ、どちらの訳がふさわしいのかといった神学議論が実は、なされたりしています。私自身はどちらか一方の意味に限定されるのではなくどちらの意味合いもあるのではないかと思っています。
イエス・キリストの十字架の姿はまさに、神への従順、私たちへの全き愛、その姿はまさしく真実、真実の愛といってよいでしょう。その真実なみわざゆえに神は義であると満足されました。義の根拠はイエス様にあるのです。他方、罪に絶望し、このお方のみにしか私を救い出すことはできないと信じ、全てを明け渡すその私の信仰によって神はその義を与えてくださるのです。
どちらにせよ、大切なことは人間からは、一ミリも救いには近づけないということです。信じる心、信仰すらも神様から与えられたものです。私たちは自分たちの理性や、意志だけでは主イエスへの信仰告白をすることはできません。その信仰すらも聖霊という神様からの賜物が働くことによって初めて、もつことができるのです。信じるものが救われる、というよりも救われた者は信じている。この事実にこそ目を向けたいと願います。

②罪の平等と恵の平等
新たな契約として与えられた福音、そこに表されているものは神の義である。そして、そこには全くなんの差別もないとパウロは言います。その理由は、人は皆、等しく罪人であるという現実からくるものです。パウロはここに至るまで徹底的に罪の現実について語ってきました。正しい者など一人もいない。ユダヤ人もギリシャ人も関係ない。どこまで言っても律法による罪の呪いから人は自力では逃れることができないのです。
しかし、それゆえ救われる者も平等にひらかれているとパウロは言います。ユダヤ人、ギリシャ人、民族や知恵などといったものは救いとは関係ありません。さらにいえば、家柄や学歴、職業、能力なども関係ありません。全ての者が平等に罪人でありながら、全ての者には平等に救いの手が差し伸べられている。福音に条件などはないのです。救いの恵みは全ての者にひらかれているのです。

ローマ3:24
「ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

イエス・キリストの十字架の贖いによってのみ、この神の恵みによってのみ私たちは義とされるのです。神の恵みというプレゼントは全ての者に用意されています。全ての者のための十字架の贖いなのです。
この十字架に神の義が示されているのだとパウロは語ります。それは罪と悪を憎み全てを公正に裁く神の正しさであり、それでもその罪ある者を憐れみ、慈しみ断絶されていた関係をご自身から回復されようとする神の愛の両面の姿であります。
イエス・キリストはバプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」といったように、全人類の罪を償うための供え物、神の子羊なのです。罪を償うための供え物、25節のこの言葉は新改訳では「宥めのささげ物」と訳されています。なだめ。なにをなだめるのでしょうか。それは罪に対する神の怒りです。神の子羊イエス・キリストは神の怒りをなだめるためのいけにえだったのです。神はキリスト・イエスを、怒りをなだめ、和解をもたらすものとして計画し提供されたのです。そしてその十字架の贖いによって私たちは罪の赦しと神との和解を得たのです。
罪を決して赦さず容赦無く裁く、正しく義なる神。なんか怖いですね。神さまは、愛じゃなかったの?全然優しくない。いけにえなんて残酷だ。そう思われる方もいるかもしれません。そうかもしれません。確かに神様は恐るべきお方です。旧約聖書では神を怖れよと何度も語っています。
しかし、よくよく考えてみてください。親と子の関係においてみても、子供が可愛いからといって何をしても許していてはその子はとんでもない道にいきかねません。それはただの放任主義でしょう。子が悪の道に入ろうとしないため、親は時にこの誤りを正し、厳しく罰することもあるのです。もちろん子供の人格と人権を尊重しながら。
また、国家の法治問題においても全て犯罪者を改悛の一言のみで許していたら益々増長して悪事をかさね口先だけの悔い改めで済ませてしまいかねません。神がもし罪人を無条件で許したらそこにはもう神の正しさはありませんし、そのような存在に対して私たちも全幅の信頼を寄せることができなくなってしまいます。神が神ならぬものになってしまうのです。
しかし、神様はそれでも私たち一人一人滅ぼしたくはないと願っておられます。私に立ち返って生きよと叫び続けます。なぜなら私たちのことを言葉にならないくらい、どこまでもこよなく愛しておられるからです。「神は愛なり」だからです。そして神様はその愛のゆえにとんでもない方法でこの人類の罪の問題を解決されたのです。
それは、神ご自身が人となってこの地に来られ、その神の怒りを代わりに全部引き受けるというウルトラCの反則のような方法でした。それが十字架の贖いの意味なのです。反則だろうが関係ないのです。それほど私たちのことを愛しておられるのです。この反則まがいのわざこそが神の正しさ、神の義なのです。神の義とは人の罪を己が身において全て負い遂げることだったのです。神は自らの義を示して人類を罰するとともに他方で人類の罪をゆるし、これを義とする道筋を開かれたのです。
この驚くべき愛と驚くべき義が共に矛盾せずに貫かれてこその神の義である十字架なのです。この神の義、恵みを受け取った者、つまり主イエスを信じた者が無償で義とされるのです。代価は十字架をもってイエス様がすでにあがなってくださったからです。

③行いの法則から信仰の法則へと
ローマ3:27
「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」

この神の義である十字架を見た時、この愛を受け取った時、私たちは自分自身を誇ることなどできるでしょうか。どこまでも罪の呪いに無力な私たちを憐れみ、ここまでお膳立てしてくださり、1から100まで神様が一方的に私を救い出してくださったのです。それにもかかわらず、今まで私たちは行いの法則の中で生きてきました。
自分自身の力で救いに至ろう、悟ろうとし、自分自身に正しさ、正義を見出そうとしていた。じぶんの意志、決断、力によって行い、自分を立派なものとする。私はちゃんとやってるから義とされて当然。あいつより俺の方が正しい。傲慢そのものですね。誇りというよりも、もはや驕りです。
そして人と自分を比較し、自分より劣っていると思えば軽蔑し、優れていると思えば劣等感を持ち、妬む。そして競争競争の毎日。もっと、もっと、もっと。しかし、決していつまでたっても満足はしません。当然です。人が自力で完全な義人となることはできないからです。これが行いの法則に生きる者の姿です。まさに、律法の呪いです。ここまで自分はひどくないと思う人もいるかもしれません。しかし、大なり小なり誰もが持っているものでもあるとも思ってはいないでしょうか。なにより、私たちがこの現実社会で生きる中で、このような価値観で社会も自分自身も縛られていることを実感する時が往々にしてあるのではないでしょうか。
この行いの法則から救い出してくださった神の恵み、それこそが信仰の法則です。この神の恵みが罪に囚われた私たちの心から、自分への誇り、おごり、傲慢といったものを取り除いてくださります。
完全な義と完全な愛が表された神の義である十字架の恵み。このプレゼントを受け取った時、もはや自分を誇るのではなく、ただこの神の恵みを喜ぶ者と私たちはなるのです。
罪に対してどこまでも無力で惨めな自分を認め、そのような者をただ愛と憐れみのゆえに無償で神様が、義と愛のしるしである十字架をもって救ってくださったのだ。この恵みを、プレゼントを受け取った時、私たちは本当に神様の大いなる愛に包まれていることを心底実感し、喜びが溢れてくるのです。そこには比較による軽蔑も劣等感もありません。ただ神と私だけがそこにあるのです。信仰によって繋がる神様との関係の回復がそこで起こされるのです。
しかも、ここで終わりではありません。さらに続きがあります。呪いであった律法が信仰によって確立されるのです。まず律法を通して私たちは自分の罪に対して絶望します。そして、神の義である福音という救いの希望を見上げ、信仰によって救われます。じつは、多くのクリスチャンがここで満足してしまって自己完結してしまっています。残念ながらそれはさながらショートケーキの一番上のクリームを少しなめただけにすぎません。いちごもスポンジも味わわないとはなんともったいない。
信仰によって救われてからの歩みこそが実はその恵みを深く味わうことになることを私たちは深く心に留めたいと願います。信仰によって救われる、その途方もない神の恵みと愛を受け取った私たちは、その愛を受けた喜びによってなんと少しずつ罪から解放され律法を行えるようになっていくのです。イエス様はご自身のことを律法の完成者であるといわれました。律法は廃棄されたのでなく信仰によって確立するようになるのです。それは、神に愛され、赦されながら、神を愛し、人を赦して生きていけるようになっていくということです。
律法だけに生きると、罪を犯したかどうか。そういったところばかりを見てしまいます。しかし福音に生きる信仰者はそこから十字架を仰ぎ見るのです。絶対に罪を犯さないということよりも、たとえ罪を犯しても悔い改め、主を仰ぎ見続ける。これこそが義と認められ続けていく幸いな信仰者の人生なのです。この主に信頼していくことによってこそ、主は私たちの心を整え、少しずつ罪から解放し律法を成就できるようにしてくださるのです。主が全てを成し遂げてくださるのです。
この神の恵みを受け取って、主を見上げ、罪と自我から解放されながら、神と隣人を愛していこうではありませんか。主が私たちに望まれていることは神の愛をいただき、その愛をながしていくことなのです。そこにこそ神の愛の中に生きる信仰者の幸いな人生があるのです。

マタイ22:37−39
「イエスは言われた『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

武井誠司

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