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ただ一つの慰めを胸に留めて (Ⅰテサロニケ4:13~5:11)

メッセージ
2020/06/28
富里教会礼拝説教
「ただ一つの慰めを胸に留めて」
(Ⅰテサロニケ4:13−5:11)

①終末について
6月に入ってから私たちはこのテサロニケ書を通して神様の恵みをいただいていおりますが、最初この手紙に入っていった時、パウロがこの手紙を書いた執筆理由をお伝えしたと思います。その理由は大きく二つありました。
まず一つには、迫害という苦難の中にあってもテサロニケ教会の人たちが聖霊の力によって喜ぶ者となり、素晴らしい主に倣う模範的な生き方をしていたという報告をパウロが喜び、さらにそのような状況である教会の人たちを励ますために書いたということがあります。
そして二つ目はテサロニケ教会の人たちの終末についての疑問への返答のためです。テサロニケ教会の人たちは、苦難の中にあって、終末への関心が高まり、その終末に対する正しい知識を必要としていたのです。特に死者の復活と再臨のときについてパウロの教えを求めました。そしてパウロはこの手紙をとおしてそのいつか必ず来たる終末について丁寧に返答されています。今日の箇所は、その終末の疑問への返答の部分にあたります。
聖書は必ず、この世界に終わりの時が来ると明確に書かれています。それはいつ来るかはわかりませんが、その時に天に昇られていたイエス様が再びこの地上に降りてくる、その時だと言われています。このイエス様が再び来られることを再臨と言います。
そして、その時に私たち人間は最後、神様の前でさばかれることになります。そして、イエス・キリストを主と告白する信仰者はそのさばきにおいて、無罪を宣言されて、神さまが用意された新天新地に迎え入れられ、そこにおいて主のみ前からくる満ち足りた喜びと慰めを受ける者となるのです。今までの苦しみを全て洗い流し、涙を全て拭ってくださり、そこにはもはや死も嘆きもない。そんな世界が私たちには約束されているのです。これが希望です。どれだけ辛い人生を送ったとしても最後は必ず神と共にある永遠の完全な喜びが待っているのです。しかし他方で、キリストを信じない者は最終的に永遠の地獄に投げ込まれるといった厳しいことも明確に書かれています。
こういった厳しい面を聞いて受け入れられない日本人が多いと聞きます。なんか、神様怖いし残酷だし、排他的だと。私もかつてはそんなことを思ったことがありました。しかし、人間とはそもそも、どうしようもなく罪に囚われており全員が地獄行きが決まっていました。そこから神様が人となり十字架の贖いを待って私たちを救い出してくださったのです。聖書の中心的なメッセージは「このままだとお前たち地獄行きだぞ!!」と恐怖を煽るものではなく「なんとしてでもお前たちを地獄行きから救い出したいのだ」という愛のメッセージであることを受け取っていただきたいと思います。

②テサロニケ教会の人たちへの疑問
話は長くなりましたが、終末とはざっくりではありますがこのようなものであります。この終末が迫害に苦しんでいたテサロニケ教会の人たちの希望だったわけです。ですから、この終末についての知識は彼らにとって本当に切実、死活問題だったのです。
当時テサロニケ教会では再臨の前に死んだ人たちは一体どうなるのかという不安の声が広がっていたようです。再臨前に死んでしまった人は救いに入れないのでは、二度と私たちは再会できないのではという不安と恐れからパウロにどうなのかと質問したようなのです。その質問に対し、パウロは確信を持って答えます。

13−14節
「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」

パウロは死んだ人のことを眠った人と表現します。他の手紙でもパウロは使者をこのように表現しますし、私たちクリスチャンも亡くなった信者に対してそのように表現します。日本においても死者のことを眠ったと通常的に表現します。しかし、これは死というものへの恐怖から、目を背けるために、現実逃避のために用いられているように思います。死が怖いのです。向き合いたくないのです。
しかし、私たちが眠っているという時、それは本当にまことにそのままの意味で使っています。この世での死は終わりでではなく、必ず目を覚ます時が来て、私たちは再び再会するという、その確信ゆえの言葉なのです。そして、それはまことに真実であって、気休めではありません。だから、大丈夫なのだ、安心しなさいとパウロは語っています。そして、その根拠はキリストの復活にあるといいます。
神さまはイエス様を死から復活させたのだから、そのイエス様を信じて先に眠った者も一緒に復活させるよと言っています。これほど力強く、ゆるがない根拠はないでしょう。それゆえ、私たちは死を恐れません。すでにキリストご自身が死に打ち勝っておられるからです。私たちはもう、すでに死に勝利しているのです。

③終末、再臨の順序
そして、パウロはこの終末、再臨の順序、様子をこと細かく説明していきます。まず、天使の号令が鳴り、神のラッパが鳴り響き、そして主ご自身が天から降ってこられます。このことはⅠコリント15章にも書かれており、そこでは最後のラッパが鳴ると一瞬で死者は復活して朽ちない者とされ、私たちは変えられると語られています。
まず主が降りてこられ、ラッパの音と共に死者は眠りから目を覚まし、蘇り、そしてその時、生きている者も一緒に空中に引き上げられるのです。主の再臨のとき、私たちクリスチャンは先に世を去った大切なあの人と再び会い、そして一緒にイエス様の元へと行くのです。そしていつまでも主と共にいるのです。雲に包まれて引き上げられるという表現がありますが、雲は神の臨在を表します。主の再臨の時、私たちは大切な人と一緒に主イエスに包まれた平安の中、空中へと上がっていくのです。まさに救いの完成です。
この、再臨のときに空中に引き上げられことを神学用語で携挙といいます。この携挙はいつ起こるのかという神学議論が分かれており、また、この携挙をテーマにしたレフトビハインドいう小説、映画もありましたが、誰が引き上げられ、誰が残されるのか、そういった想像を掻き立てられもします。終末に関しては絶対にこうだとは言い切れないことが多いですからね。どうしても議論も分かれ、不安を煽られるようなこともあります。
ですがパウロがここで一番言いたこいことは、「死んでも必ず復活するから安心しなさい」ということです。神学的議論よりもこの箇所のメッセージの本質に目を向けましょう。終末とは怖いものではなく、苦難の中で生きている私たちの唯一つの揺るがない希望なのだ。だから、あなたたちはその希望を胸に互いに励まし合いなさいとパウロは言うのです。ただ、ここでの励まし合えと言う言葉は慰め合えとも訳せます。私はむしろ、その方がここでの訳としては相応しいように思います。
迫害の中、共に戦ってきた仲間の死を悲しみ、絶望しなくてもいいんだよ。今は別れて悲しいけどこれで終わりじゃないよ、必ず私たちは再び会うんだよ。そう言って互いに慰めあえと言っているのではないでしょうか。そして、実際に必ず私たちは再会する。この事実は私たちにとても慰めを与えてくださいます。

④ただ一つの慰め
テサロニケ教会の人たちの真剣で切実な疑問はよくわかります。今の私達からすると聖書に書いているので当たり前と思うかもしれませんが当時は、新約聖書はなく、完成された聖書は存在していませんでした。どうなるか本当にわからなかったわけです。死の別れを経験した、あの大切な人と再会できるかどうかということは本当に彼らにとっては切実な事柄だったことでしょう。救いはいろんな要素がありますが、たましいが解放され神様の永遠の中で生き続け、そして、そこでは人生を共にした愛する、父、母、夫、妻、子供、友人。彼らとの再会があるのだ。その再会があるということがどれほどの慰めを与えるでしょうか。また会えるんだ。これほどの慰めは他にはありません。ただ唯一の慰めなのです。
ハイデルベルク信仰問答の最初の問いにはこう書かれております。
問1
「生きるにも死ぬにもあなたのただ一つの慰めは何ですか。」


「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにもわたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」

私たちは、死を通した別れというものを全く予測することはできません。病気や寿命の場合はある程度は見当がつくかもしれませんがでも、突然昨日まで、元気にしていた人がいなくなることもあります。そんなときの心の悲しみは想像を絶するものがあるでしょう。しかし、その時唯一心を慰めてくれるものがあります。それは私たちの体もたましいも全て神の御手のうちに包まれており、その救いの恵みに預かっている兄弟姉妹は、今は突然の別れを悲しむが、いずれ必ず再会することが約束されているということです。
私が神学校2年目の秋、ある先生がアメリカ出張中に心筋梗塞によって突如天に召されました。つい先日まで笑顔で話していたのに。信じられませんでした。優秀でありながらもとても気さくで柔和で学園中から愛され、信頼されている先生でした。私自身もとても大好きな先生でした。それゆえ、学生の動揺は大きく、「なぜ?」という言葉と言いようのない悲しみが学園中にあふれていました。それを見た一人の先生が急遽、祈祷会を開き、その中でこのハイデルベルク信仰問答の問一を読まれたことを今でも鮮明に覚えています。今は悲しくてしょうがないが私たちのたましいは主の御手の中にある。いつか先生と再び会う時が来るのだ。この希望は確かに私の、いや学園全体の慰めとなりました。そして、今を生きる力ともなったのです。

⑤死んでも共に生き続けたい
私たちは、なぜ伝道するのでしょうか。それは主イエスご自身の命令だから。確かにそうでしょう。しかし、そこには様々な思いが詰まっています。ただ教会を大きくすること、組織の保持のためではありません。その人が救われてほしい、そういった純粋な思いもあります。でも近しい人に対してはもっと切実な思いで伝道しているではないでしょうか。自分を受け入れて欲しいとかそんなもんじゃない。あなたと死んでもなお、一緒にいたいのだ。死んで別れてもまた再会したいのだ。その慰めと平安を持ってこの世での別れを迎えたいのだ。そういった切実な思いがあるのではないでしょうか。この動機は全然不純ではなく、むしろ純粋で切実でみこころにかなった思いだと思います。

◎結び
「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」

私たちにとっての死の別れは一時的なもので、主イエスを信じる者は全て、主が再び来られた時に喜びの再会し、主イエスと永遠に共に過ごすことになります。これは、主イエスご自身がはっきりと約束してくださったことです。

ヨハネ福音書14:3
「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

この希望は、どんなに苦しい人生を送っていたとしても大きな励まし、力となります。また、死の別れがどれほど悲しくても、必ずまた会えるという希望はなによりもの慰めとなります。
そして、この希望は現実逃避するためのものではありません。生きている私たちが前を向いて進むための励ましであり慰めであります。パウロもこのあと、8節でだからこそ「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」と言い、目を覚ましていなさいと言います。
この希望を携え、いつ主の日が来ても大丈夫なように毎日を地の塩、世の光として誠実に歩みつつ、いつまでも一緒にいたい、そのように思う大切な人に福音を届け、その人たちのために切に祈ってまいりましょう。生きるにも死ぬにも私たちは真実な救い主、主イエス・キリストのものなのですから。共にただ一つの慰めを求めてまいりましょう。

武井誠司

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