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すべての人を照らすまことの光 (ヨハネ1・6〜13)

メッセージ

2009年12月24日クリスマス・イブ燭火礼拝
    「すべての人を照らすまことの光」
             (ヨハネによる福音書1:6〜13)

1. はじめに

クリスマスおめでとうございます。
今宵、あのベツレヘムの町に救い主がお生まれになりました。この方こそ私たちの救い主、神の子イエス・キリスト様です。実に、神の御子は人間となられ、この世に来て下さり、しかも乙女マリヤから、私達と同じように人間としてお生まれになりました。ただ、私達と違うところは、御子は神御自身でもあられ、聖霊様によってマリヤの胎に宿られてお生まれになりました。

しかも、その誕生の時は両親のマリヤ・ヨセフ夫妻、三人の博士、そして数人の羊飼いだけしかこのことを知らされませんでした。しかも、ベツレへムの町の馬小屋の飼葉桶の中でお生まれになったのでした。それは、この世の貧しい人もどんな人でもこの救い主を受け入れることができるようになるためでした。そしてすべての人を照らす救いの光、恵みの光、まことの光となられたのです。

2.イエス・キリスト世の光

このヨハネによる福音書の1:1、4にこういう言葉があります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と。そしてさらに「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(1:9)と。

この「言」というのは、キリストを指します。ですから、もう一度言い換えてみますと「天地万物の初めにキリストがおられた。キリストは父なる神とともにおられた。そしてこのキリストもまた神であった」となります。すなわちキリストは、世の初めから存在しておられ、父である神と共におられました。そしてこの「言」もまた神である、すなわちキリストも神であられたと言うことです。そして、この言、すなわちキリストの内には命があり、このキリストのうちにある命が光としてすべての人を照らしたとあります。キリストのうちには命があり、この命がすべての人を照らす救いの光、恵みの光となられたのです。

さらに、14節には、「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」とあります。このキリストが、肉体を取ってこの世に来られた、これがクリスマスの出来事です。そしてイエス・キリストこそまことの神であり、なおかつまことの人間となられたのです。神と人間の両方の性質を持っておられるのが、イエス・キリスト様なのです。このイエス・キリストこそ、まことの光、救いの光、恵みの光として今も、この世にあって今晩のろうそくのように光り輝いておられます。そしてお一人お一人の顔だけではなく、その心の中までも明るく照らして下さっておられます。闇はこれに勝たなかったと記されています。

ですから、今から約2000年前に肉体を取ってこの世に来て下さったイエス・キリスト様の中には命そのものがあり、この命がイエス・キリストを通してこの地上に現れ、人々の心を照らす真理の光になられたのです。それは天の神様から私達人間に与えられた、大きな恵みの光でもあるのです。光なるキリストは、「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えたのである」(1:12)とあります。イエス・キリストはその伝道の生涯を通して御言葉と御業によって、人々の心を照らし、信じるものに永遠の命を与えて下さいました。そして今日に至るもなお、この恵みの光であるイエス・キリストの救いは、福音を通して全世界の人々に宣べ伝えられています。光は今も輝き続けているのです。

3.暗闇に輝くまことの光

今宵、私たちもこのキリストの光を求めて、光のもとに集まって来ました。このろうそくの光は、私たちの顔を照らし、部屋を明るく照らしますが、このまことの光は顔を映し出すだけではありません。まことの光は、そこに神の真理があると言うことです。そしてこの神の真理が、今すべての人の心の中を照らしていると言うのです。真理の光が照らすこの世界は、どんな世界でしょうか。

今年も、自殺者が三万人を越えたと報道されています。経済的な不況、生活が苦しく、職場の人間関係も家族も崩壊しつつような、先が見えない時代に入ってきました。温暖化、異常気象と将来に対する不安が人々の心を覆っています。光を見い出せない、希望を見つけることができないような現代社会です。この暗い社会の中で、人々はみんな悩み苦しみ、悪戦苦闘しています。それでも聖書には「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1:5)と言っています。たとえ、闇の力が大きくても、このまことの光は暗闇の中に輝いている、そしてすべての人を照らしていると言っています。この真暗闇の世界にもかかわらず、すでに光が差し込んでいると聖書は言っています。

ロシヤの文豪ドストエフスキーは、自分自身が投獄されたことのある経験からこう言っています。「たとえ、真暗闇の中に一人ぽつんと置かれても、一条の光があれば生きることができる」と。たとえ、孤独、暗闇の世界におかれても人間はそこに光が一筋でも差し込んでくるならば、それを見て生きることができるというのです。この寒い不景気の師走、はたして年を越せるだろうかと思い悩む人、中には寝る場もない人がいるかもしれません。でも、そこに一筋の光を見い出すことのできる人は、生き抜くことができるのです。ドストエフスキーが見い出した一条の光とは、まことの光であるイエス・キリストの救いの希望ではなかったでした。この御子イエス・キリストの光こそ、私達を闇から救い出す希望の光、まことの光なのです。

しかし、実際はこの世にまことの光であるイエス・キリストが来た時には、ほんのわずかの人しかその救いの出来事を知りませんでした。「暗闇は光を理解しなかった。」「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(1:5,10)
とあります。せっかく光がこの世に来たのに、ほとんどの人がその光を理解せず、光のもとに来ようとはしませんでした。それでも、聖書には「光は暗闇の中で輝いている」とあります。

私たちも暗闇の中で、絶望してしまったり落ち込んでしまったりすることがあるかもしれません。でも光はまだ輝いています。クリスマスは毎年毎年やって来ます。イエス様が天から再び来られる最後の審判の日まで、何度も何度も巡って来ます。ですから絶望するのはまだ早いのです。すでに光は来て、暗闇の中で輝いているのですから。私たちが目を開けば、そこに光があるのです。まだあなたには光が見えていないかもしれませんが、それでも、光はすでに来られて、暗闇の中にいるあなたを照らしています。愛の暖かい光を持って照らし続けているのです。目を開けて、この恵みの光を見てみませんか、そして一歩光の方に足を踏み出してみてはいかがでしょうか。

4.恵みの光

最後に、この光によって照らされ、暗闇の生活から救い出された一人の人物のお話をして終わりたいと思います。その人に名前は、ジョン・ニュートンといいます。彼は、有名な賛美歌「アメイジング・グレイス」の作詞をした人物として知られています。この讃美歌は一番良く歌われる讃美歌の一つですが、テレビでもコマーシャルに使われたり、ドラマのテーマソングになったりしました。ジョン・ニュートンは、もともとはイギリスとアフリカ、アメリカ間を行き来する貿易船の仕事をしておりました。アフリカからのいろんな物資を輸送する仕事ですかられっきとした職業ですが、その物資の中にアフリカの黒人奴隷も商品として入っていたわけです。

20代の時に奴隷貿易に携わるわけですが、22歳の時嵐に会い、船が沈みかけるような時が何度かありました。その嵐の中で、彼は初めて神様に「神様、助けて下さい!」と必死に祈りました。その彼の必死の祈りによって、奇跡的に船は助かり無事イギリスの港に帰り着くことができたのです。そして、彼は30歳で貿易の仕事を辞め、牧師になる決心をして勉強をしました。しかし、最初はなかなか牧師にあることができませんでした。彼の過去の経歴が神に仕える者にふさわしくなかったのでしょう。でも、38歳でようやく牧師となってイギリスのオルニイ教会の牧師になります。そして54歳の時に教区の賛美歌集を作ることに携わって、そのとき彼は280の賛美歌を作詞しました。その賛美歌の中の一つに、「アメイジング・グレイス」の詩が入っていました。1807年82歳でジョン・ニュートンは天に召されますが、その墓碑には彼自身が次のように書き記しています。

「牧師ジョン・ニュートン。かつての不信仰者、放蕩息子、アフリカの奴隷売買の仕事についた男。しかし、我が主、救い主イエス・キリストの豊かなる恵みによって、守られ、赦され、生まれ変わった者。そして長きにわたって自分で壊そうと思ったキリスト教の信仰を、逆に宣べ伝える者として召された男。オルニイ教会で16年、セント・メアリー・ウルノス教会で28年間伝道牧会した。1750年メアリー・キャトリットと結婚。1790年与えて下さった主に妻を返す。」と記されています。

さらに彼の遺言状にはこう記してありました。「私が背教者であり、神を冒涜する者であり、不信者であった時、情け深くも私を赦し、守って下さり、また私の頑迷なる邪悪さの故に私が陥ったアフリカ海岸での悲惨なる状態から私を守って下さった神。そしてまったく取るに足らぬ人間である私に、主の光り輝く福音を説くことを認めて下さった、恵み深い神と救い主に私は魂を委ねます。わずかばかりの確信を持って、神であり人間である主イエス・キリストの十字架の罪の贖いと和解に信頼を寄せています。その罪の赦しと和解は、私がこれまでしばしば罪人が自らの希望を打ち立てることのできる唯一の基盤として教え説いて来たものです。ですから私は、天の御国にあって、主は私をおそばにおいて下さると信じています。」と。

奴隷売買という人間にあるまじき闇の仕事に従事していた男が、神様の光に照らされて自分の罪を示され、主に助けを呼び求めました。その叫び求める声を主は聞いてくださり、嵐の海から救い出してくださいました。しかも、そんな人間を、神の救いを宣べ伝える器として召して下さったのです。彼が作詞した讃美歌にアメリカの民謡がメロデイとして付いて、あの有名な「アメイジング・グレイス」の曲が生まれたのです。

その讃美歌の1節にこうあります。「驚くほどの恵み、なんと心地よい響きか。私のような哀れな男を救って下さったとは。かつては失われていた者が、今は神に見い出された。かつては目が見えなかったが、今は見えるようになった」と。私たちもかつては闇の中をさ迷い、目が閉ざされてこの恵みの光が見えなかったものですが、本当に忍耐強い主は、人生のいろいろな嵐の中で私達を捉えて下さいました。八方ふさがりの中で、絶望と孤独の中で、病いや苦しみの中で光が見えない時こそ、主が私たちの一番近くにいて下さる時のような気がします。この光はすでに私たちのそばに来ておられます。光がまだ見えずとも、すでに驚くほどの恵みの光は、私達を照らしています。

「すべての人を照らすまことの光があって世に来た。そして、このまことの光を受入れる者、すなわちイエス・キリストを信じる者には、神の子となる資格をお与えになったのである」(ヨハネ1:9,12)と聖書には記されております。今もこの光は闇の中に輝いております。私たちが目を開くならばそこに一条の光があります。この神様の大きな恵みの中へ、一歩足を踏み出してみませんか。                         
                                      (岡田 久)

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