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からだを献げる霊的な礼拝 (ローマ12:1~8)

メッセージ

2014年7月20日富里キリスト教会

「からだを献げる霊的な礼拝」
(ローマ書12:1~8)

1.体を献げる礼拝

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(12:1)

パウロは「自分の体を献げなさい。」と言いました。心だけではなく精神だけでもなく、お金や物だけでもなく、あなたがたの体を捧げなさいと言っています。それはイエス様御自身が、心だけではなくご自身の体をもって、贖いの業を成し遂げてくださったからです。体をもって、全身全霊で主に仕えることです。この体に三つの条件が付いています。「神に喜ばれる体」、「聖なる体」、「生ける体」をいけにえとして献げるのです。「神に喜ばれない」生き方をしている人は、徹底的に罪を自分の汚れを悔い改めなければなりません。

また「不潔な、汚れたからだ」ではいけません。聖なるからだです。聖なるからだというのは、何度も申しました。「聖」という漢字が示す通り、「耳」で聞いて、「口」で主に向かって祈ることによって、心の中にいつも「王なるキリスト」を抱いて歩むことです。つまりいつも聖書の御言葉を読んで、祈りをしつつ、毎日毎日、自分の罪を告白して悔い改める生活です。これが聖なる体です。そして自分の心の中心に、自分ではなくイエス・キリストが中心になるようにして行く生活のことを指します。そういう生き方が聖なる供え物としての生き方であり、神に喜ばれるからだとなるのです。

そして更にパウロは、この体を献げるだけではなく、あなたがたの心も絶えず新しくされて献げなさい、体だけではなく、心も日々に造り変えられ新しくされて献げるようにしなさいと言っています。

2.心を献げる礼拝

次に心を献げる礼拝ですが、パウロはこう言っています。「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(12:2)

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」と言っています。生きているいけにえです。普通いけにえは、殺してから献げるものですが、私たちは生きたままで、しかもただ単に生きているというだけではなく、日々に成長し、成熟に向かっているいけにえとして献げなさいと言っています。
それがこの2節の言葉です。つまり心が内側から変えられることです。そして何が神の御心であり、何が善いことで、何を神が喜ばれるのか、何が完全なことであるのかを自分で判断できるようになりなさいと言っています。

この世に倣ってはいけない。むしろ、心が新しくされることです。「倣う」という言葉は、「スケーマ」というギリシャ語ですが、これは「形をまねる」という言葉です。一方「自分を変える」という言葉は、ギリシャ語で「モルフェー」という言葉で、これは昆虫が変態するような変わり方です。つまり、形や格好だけをまねるのではなく、心の内側から変えていただきなさいということです。心のおしゃれです。この内面の変化は、聖書の御言葉と聖霊からしか来ませんから、毎日熱心に御言葉を読むことによって、内側から変えられて美しくなるということです。

昨日の信仰よりは今日の信仰、自分の信仰が日々に成長し新しくされてゆくことを求めることです。神の御心が解るように求めることです。つまり、心が新しくされるということは、神の御前で、御言葉を通して自分で一人の判断ができるようになるということです。パウロも何度も口を酸っぱくして行っています。「わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」(フィリピ1:9)と。自分でちゃんと聖書から、神様の御心を判断して決断し、教会においても家庭においても正しいことを選び取ることができるようになることです。
いつまでも子供のままでいてはいけません。もっと大人になり大人の判断をしなさいというのです。

人の言葉や先輩の言葉や、だれか偉い人の言葉ではなく、自分で自分の目で聖書を読み考え、人ではなく、神様から聖霊様を通して判断し決断して行くことができるようになること、これが心を新たにするということです。神様の御心、神様の喜び、神様の善、神様の完全さを判断できるようになることが新しく造り変えられることであり、そのように生き方をする人を神様は喜んで受け入れてくださいます。皆さんがそういう心になることを、私も願っています。

3.霊の賜物を献げる礼拝

最後に、霊の部分を献げる礼拝について見てみたいと思います。わたしたちは、それぞれ人によって様々な霊物をいただいております。ある人は預言の賜物、ある人は奉仕の賜物、ある人は教える賜物、ある人は勧めをする賜物、ある人は指導する賜物、ある人は慈善を行う賜物です。ここに七つの霊の賜物が与えられております。

「わたしたちは、与えられて恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また教える人は教えに、進める人は勧めに精を出しなさい。施しする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」(12:6~8)

いろんな奉仕は、自分のできることを精一杯すればいいのです。たとえ小さな働きでも、そのことに「専念し、精を出し、惜しむことなく、熱心に、快く行う」ことです。自分の信仰に応じて預言をすればいいのです。それ以上のことをする必要はありませんし、背伸びすることも、よく見せようとすることも必要ありません。この奉仕で一番問題になるのは、他の人との比較と競争です。他の人を見て、あの人は何にもしていない、この人は不十分だと評価すべきではありません。奉仕は、あくまでも神様と自分との関係でするものです。神様の大きな恵みに答える形で、自分でできる精一杯のことをすればいいのです。

それぞれの賜物についての献げ方について、一言、大切な言葉が述べられていますので、今一度その言葉を見てみたいと思います。「信仰に応じて預言しなさい。」とありますから、人の借り物ではなく、自分の体験、自分の聖書の読み方から来るものをそのまま出せばいいのです。無理に良く見せよう、立派なことを話そうとする必要はありません。「奉仕の賜物」もそのことに専念することです。片手間にやってはいけませんし、誰かと比較して手加減してもいけません。神様の前で、神様に奉仕するのです。

「教える人」も「勧めをする人」も一生懸命調べたり、読んだりしながら準備をしてできるところで教えることが大事です。また「施し・献金」をする人は、惜しいという心を持ったらしない方がいいですね。自分からすすんで喜んで気前よく献げることです。また「慈善活動」をする人も、快くすすんですることです。人から強いられていやいや仕方なくするのであればそれはもはや神に喜ばれる慈善ではなくなります。快く喜んで行うことです。

私たちはキリストの一つのからである教会です。神様からそれぞれ恵みとしていろんな賜物や働きが与えられています。その賜物を自分だけのためではなく、他の人のために豊かに用いるようにしましょう。それが私たちの体も心も献げる霊的な礼拝です。惜しむことなく、いやいやながらではなく、人に見てもらうのでもなく、良き判断をもって、主の前で、主が喜ばれる礼拝を捧げて行きたいと願っております。                    (岡田 久)

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