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いつまでも残るもの (Ⅰコリント13:1~13)

メッセージ

2012年5月13日富里キリスト教会
「いつまでも残るもの」
(Ⅰコリント13:1~13)

1.クリスチャンの過去、現在、未来

今日の聖書の中にこういう言葉があります。「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13:11~13)

この御言葉の中に、クリスチャンが成長をしてゆく三つの霊的年齢が述べられています。人間にも少年時代、成人式、そして熟年の時があるように、クリスチャンにも、子供の時代、成人の時代、そして主に会いまみえる最後の時があります。今朝は、この三つの世代について考えながら、どの時代にも残るもの、いつまでも永遠に残るものは何かということを考えてみたいと思います。

A.幼子の時代(過去)

まず最初に幼子の時代です。パウロは、「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。」(11)と言っています。これはかつてのパウロの姿を言っていると思います。まるで、子供のように考え、子供のように話し、子供のように考えていました。一言で言いますと、信仰者とは言ってもまるで幼い幼稚な信仰だったということです。

子供の話し方、子供の感情、子供の考え方しかできなかったのです。皆さん、子供の考え方ってどんな考え方ですか。子供の良い面として素直だということもあります。でも、はっきり言って、子供っていうのは自分のことしか考えないですね。いつも自分、自分、無いものねだり、人のものが良く見えて人のものを欲しがる、自我のかたまりと言っていいかも知れません。そういう自分中心だということにさえ、気づいていません。

わたしも13:4にあります「14の愛の性質」の中で、4番、5番、6番の「愛は自慢せず、高ぶらない、礼を失せず」の三つの点がなかなかできませんでした。すぐ子供のように自慢してしまう、すぐに高慢になってしまう、そして礼を欠いて失礼をしてしまう。傍若無人にふるまい、それがクリスチャンではないだろうかと考えていました。信仰をもったころの若い時は、それでもよかったかもしれませんが、今もそれが通用するとは思えません。もっと、大人の成熟したクリスチャンとして、相手を配慮し、相手のことを思い、理解し、子供じみた自己中心の考え方を直す必要があると自戒しております。パウロも、「成人した今、(わたしは)幼子のことを棄てた。」と言っています。

B.成人した時(今、現在)

かつては、まるで子供のように幼くてわがままで自己中心の自分であったが、今は、もはやそういう幼子みたいな考え方や言動は捨てたと宣言しています。おそらくパウロは若かりし頃、大会衆の前で神の言葉を語り、山を動かすほどの強い信仰をもち、あらゆる神学や聖書知識を習得することに務め、それらを獲得することを人生の目的だと考えていたかもしれません。

しかし、長い間伝道をし、神様からの賜物をいただいて、あちこちに教会を建てて福音を宣べ伝えて来たけれども、その働きの根底に愛がなければ、すべては空しいということを悟ったのではないでしょうか。今、やっと霊的な成人式を迎えて、子供ような考え方、つまり自分の霊の賜物や伝道の成果を誇ったり競争したりするような考え方を捨ててしまったと言っております。

そして、信仰生活の中で、何が一番大切でいつまでも永遠に残るものはなにかということに気付いたのではないでしょうか。そして、それは「愛」である。
そして、霊的に成人した彼は、そのように賜物を誇ったりする幼子のような言葉や考え方を、今は捨ててしまったと言っています。これが今の自分だと言っています。何をしても、どんなことをしてもその根底に愛がなければ一切は空しいと知ったのでした。では、その愛とはないかということです。それが、4節からの愛の賛歌と言われている言葉です。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
                           (13:4~7)

ここに、七つの積極的な愛の行為と、七つの消極的な愛の行為が謳われています。積極的な愛の行為は、「忍耐強い、情け深い、真実を喜ぶ、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と言う七つの行為です。そして消極的な愛の行為と言いますのは、自分を否定する言葉、しない、しないという自我を抑制しコントロールする行為です。そしてこの七つの積極的な行為と七つの消極的な行為が、聖書が言っている愛であり、この愛だけがいつまでも残るのであるとパウロは言っています。この愛がいつまでも残るのです。

かつてアメリカから多くの宣教師が日本に来て、日本人に伝道して下さいました。しかし、どうしても変な日本語、変な発音で説教するのです。それでも、日本人は真剣に一生懸命耳をそばだてて聞いていました。それは、たとえ変な日本語でも彼らは、命がけで船で太平洋を渡って日本にやって来て、何とかして日本人に日本語で御言葉を伝えたいと思ったからでした。そこには、この神様の愛があったからです。ここに愛がありました。そして多くの日本人が、愛に触れてイエス様を信じました。

そして、この信仰と希望と愛の三つだけがいつまでも残るとパウロは言いました。そしてこの三つの中で、最も大いなるものは愛であると。いつまでも残るはこの愛です。預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれても、この愛だけは決してすたれない、永遠にいつまでも残るのです。

C.その時(将来)

成人した今は、確かに幼子のような考え方や話し方を棄てた。そして、今は、霊的に成人した大人のクリスチャンとして語り、考えてはいるけれども、まだそれは一部分に過ぎないと言っています。はっきりと愛を確かめ見てはいないのです。まるで、曇りガラスに映った鏡に顔を映しているようにぼんやりしています。それでも、私たちはそのぼんやりしているものを信じて、希望をもって、愛の内に今歩んでおります。やがて、その愛がはっきりと顔と顔を合わせるように見える時が来ることを知っています。

それは主の再臨の時です。そのときには全てのことが明らかにされ、神様の愛が完全に知ることができるのです。過去にイエス・キリストの十字架と復活の救いを振り返って信じ、そしてやがて到来するキリストを待ち望みつつ、現在、私たちはこのお方の愛によって生かされていることを覚えたいと思います。そして、この信仰、希望、愛だけがいつまでも永遠に残るものです。そしてこの三つの中で、愛が最も大いなるものであるとパウロは言っています。

3.いつまでも残るもの

最後に一つのお話をして終わりたいと思います。アメリカの結核患者が入院している病院でのお話ですが、一つの長方形の病室に、ベッドが縦に七つ並んで置かれていました。そして、その一番窓際のベッドに、ジミー・カーチスと言う男が寝ていました。この病室の患者は7人とも皆、死を宣告された重病人でした。ジミーはいつも寝ながら、窓から眺める景色をみんなに話してあげていました。「おーい、みんな。今日は子供たちの遠足の日だぜ、黄色いリュックやピンクの帽子をかぶっているよ。おやおや三番目と四番目の子が手を繋いで歩いているぞ。」

ある朝、目が覚めてみると、窓際にいたジミーの姿が見えません。どうも昨晩、夜中に亡くなったらしいのです。すると、病室の入り口の方に寝ていたトムという男が、こう言いました。「おーい、看護婦さん、今度は俺をあの表が見える窓際に置いてくれよ。なんで俺をそこにやってくれないんだ!」大きな声で怒鳴りました。二人の看護婦さんが、しぶしぶこの男を窓際のベッドに移動しました。「俺はジミーと違って、表の景色を見たって誰にも教えてやらねえぞ。」と、トムはいきがりました。

トムは、にんやりと笑って、窓の外に目をやりました。するとどうでしょう。窓の外には、子供たちが通る道や小川が流れているあのすばらしい景色がありませんでした。それどころか、たくさんのスクラップやがれきが積み上げられた荒れ果てた光景しかありませんでした。どこにもジミーが語ってくれたようなきれいな景色は見当たりません。そうです。ジミーは、同じ病気で気持ちが塞いでいる仲間に、何とか希望をもってもらおうと、毎日毎日、明るい希望に満ちた世界の景色を語り続けていたのです。

すると、部屋の仲間が、「トム、今度はお前の番だ。おれたちに外の世界を話してくれ。」とせがみました。そのとき、トムは、ジミーのことを思い出して、奥に寝ている仲間に向かって話し始めました。「おーいみんな、今日は花屋が通るぜ。リヤカーの前の方にあるのは、あれはパンジーだ。そして隣には黄色のバラも乗せているぞ。甘いバラの香りがしそうだぜ。」と言って、ジミーに負けないくらいの素敵な思いやりをもって、みんなに語り始めました。

そしてやがて、トムも天に召されてゆきました。まだ見ていない世界を、まるで今見ているかのように話し続けました。そして、その素晴らしい世界へと旅立って行きました。彼も死にましたが、信仰をもって、まだ見ていない事実を確信し、見えない事実を確信して語り継ぎました。(ヘブライ11:1)そして、目に見えないものを忍耐と希望をもって待ち望んだのです。目で見ることができないからこそ、希望なのです。そして私たちはこの希望によって救われているとパウロも言っています。(ローマ8:24~25)

ですから、信仰と、希望と、愛、この三つがいつまでも残るのです。そしてこの三つの中で最も大いなるものは愛であるとパウロは言っています。この愛がいつまでも続くのです。今はまだ、この愛は一部分かも知れませんが、やがてはっきりと完全に知る時が来ます。今はまだ、暗闇でがれきしか見えなくても、やがて明るい復活の朝が来ることを私たちは知っています。教会にはすばらしい愛のお母さんがいます。そして、霊のお父さんもいます。いつまでも残るこの愛の内に、信仰と希望をもって歩んでゆきたいと願っています。
(岡田 久)

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