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あなたには弁解の余地がない (ローマ2・1~6)

メッセージ

2010年10月10日富里教会
「あなたには弁解の余地がない」
(ローマ2:1~6)

1.弁解その1「聖書を読む機会がなかったから」

まず最初に、自分は神を知る機会がなかったので、神に対して感謝もできないという弁解をする人に対して述べられています。1:20節から読んでみます。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。したがって、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら、愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ローマ1:20~23)

この御言葉から、聖書も律法も知る機会がなかった人々は、神様が造られた被造物を通して「目に見えない神の性質、神の力と神性」を知ることができるとあります。南海の孤島に住んでいる人々、アフリカの奥深いジャングルに住んでいる人々は、おそらく生涯、聖書を手にすることがないような環境の中にあるかもしれません。でも、そういう人でも自然という被造物を通して、南の海に沈み行く真っ赤な太陽や、ジャングルの動物や木々の営みを通して、それを造られた神様の存在を知ることができるのではないでしょうか。

そして、我々は神を知るチャンスがなかったという人々、そしていまだに神を知ろうともせず、感謝することもしないで、逆に、その被造物を神にして偶像を礼拝してしまいました。そのことを是認している人々は、どんどんと悪から悪へと自らが汚されるまま落ちていってしまっているのです。男女関係が不自然なものとなり、情欲のおもむくままに振る舞ってしまいました。神様は、彼らがするように任せたとあります。(1:26~28)少し、厳しいように思うかもしれませんが、私たちの歩みを見ても、神様はいろんなところで、私たちの心に語りかけているのではないでしょうか。その呼びかけに耳を塞ぎ、心を閉ざしていたのは人間の側だったのではないでしょうか。神を知りながら、感謝することを忘れてしまう、私たちの不信仰と弱さがあります。

2.弁解その2「自分は義しいことをしている」

ユダヤ人にとって律法は自分たちの寄って立つところであり、かつ自分たちのルーツでもあり誇りとするものでもありました。この律法が、あのモーセを通してイスラエルの民に与えられ、今日まで、律法を生活の規範として守ってきました。そして、律法の基本は十戒です。この十戒を基本にして、さらに細かい多くの細則が造られて、ユダヤ人はそれを守ることに信仰生活の最大の関心をもっておりました。ですから、自分達には律法がある、自分達は律法を守っていると自負して、異邦人をさげすみ差別していました。

ここで、思い出していただきたいのは、あのシナイ山で十戒を受けたのは、紅海を渡る前だったでしょうか、それとも渡った後だったでしょうか。(問)
十戒が与えられたのは、紅海を渡ってからですね。それは彼らがこれから長い荒野での信仰生活を送るにあたって、神様からその生活の心得として十の戒めをいただいて、信仰の旅に出かけました。ここで気をつけていただきたいのは、この十戒を守ったものが紅海を渡って救われたということではないのです。紅海を渡って救われたのは、神様の一方的な恵みによって救われました。

ところが、ユダヤ人はいつの間にか、この十戒の本来の意味を忘れて、十戒を守ったものだけが紅海を渡って救われると、その救いの順序を逆にしてしまったのです。十戒を守ることが救いの条件となってしまったのです。そうではなく、私たちが救われるのは、神様の一方的な恵みによって救われます。みんな、自分の罪を認め、ただイエス・キリストを信じました。その信仰によって神の前に義とされました。(罪赦されました。)

私たちが教会の約束を守るのは、救われるためではありません。そうではなく、信じて救われたから教会の約束を守ります。信じて救われたからバプテスマを受け、礼拝に出席し、喜んで十一献金を捧げます。信じて救われたから伝道します。チラシをまきます。それが、このローマ書の中でパウロが言わんとしている「信仰による義人は生きる」という言葉の意味です。パウロはこの信仰の自由、仕える恵み、献げる感謝、伝道する喜びを忘れてはいけない、いつもこの信仰の原点に立ちなさいと、ローマの信徒に訴えていたのです。

本来、モーセの十戒、律法はそのことを表わしているのですが、いつの間にか、人間の罪によって、律法が救いの条件になってしまっていたのでした。そしてこの間違った救いの逆転は、今日の教会でも、私たちの信仰生活の中でも起こりうることがらです。パウロは、このローマ書の中で、その律法主義なるものと徹底的に対峙し、反論をしています。そして、真の信仰生活とは何かということを明らかにしようとしたのが、このローマ書だったのです。

3.慈愛と寛容と忍耐の神

2:4にこうあります。「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くこともしらないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなな心を改めようとはせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行なわれる怒りの日に現れるでしょう。」(2:4~5)

もしかしたら、神様は今なお、この私のかたくなな心の故に、忍耐を持って、また大いなる寛容をもって、長く忍耐して待っておられるのではないでしょうか。回心の出来事があってからもなお、私の心の中には、自分の義を立てて人を裁いてしまうところがあります。お恥ずかしい話ですが、牧師になってからもなお、自分の義を立てて他人を裁くことがありました。神様は、今もなお、私のために大いなる慈愛と寛容と忍耐を持ってご覧になっておられます。

私たちが、心から悔い改めて主の前に立ち帰ることを待っておられます。クリスチャンであろうがなかろうが、牧師であろうが信徒であろうが、神様はそれぞれの行いに応じて報いられるお方です。神様は、私たちの心の中をご覧になられます。その時、私たちは果たして自信を持って神の前に立つことができるでしょうか。

私たちの側には、何も弁解できる材料は、正直のところないかもしれません。神の裁きの前には、うなだれてその裁きに服することしかできないかも知れません。でも、そういう弱い私たちのために力強く弁護してくださるお方がおられます。それは私達の罪のために、身代わりになって十字架にかかってくださり、神の裁きをご自分の上に受けてくださったお方です。それが、あのイエス・キリスト様です。イエス様こそ、私たちを義として下さる神様の義そのものです。このお方に、神様の憐れみと慈愛と寛容と忍耐のすべてが示されています。

イエス様こそ私たちの力強い弁解者です。罪人の私たちのかたわらに立ち、私たちの代わりに神様にとりなし弁護して下さるお方です。今も十字架の上で「父よ彼らをお赦しください。自分たちが何をしているのか解らずにいるのです。」と、とりなしていてくださいます。私たちは弁解できませんが、イエス様が弁護して下さいます。神は憐れみ深い方であり、その大きな慈愛と忍耐と寛容を持って、私たちが悔い改めることを、今日も待っておられます。この神の呼びかけに、今日、あなたも答えてみませんか。

          (岡田 久)

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