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あなたがたが食物を与えなさい (マルコ6:30~44)

メッセージ

2013年7月19日三枝集会

「あなたがたが食物を与えなさい」
(マルコ6:30~44)

1.あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。
(6:37)
まず、最初に27節にありますが、イエス様が、弟子たちに言った言葉です。群衆を解散させないで、「あなたがたの手で食べ物を与えなさい」と言いました。
この「あなたがたが食べ物を与えなさい」という言葉に、最初に注目してみたいと思います。おそらくイエス様も、お話を聞いた人が、継続して霊的な御言葉の養いを受けるためにはどうしたらいいかを、弟子たちに教えられようとしたのではないでしょうか。「あなたがたが、自分の手で信仰決心者に御言葉の食べ物を与えなさい。」と言いました。イエス様が、この五千人に一人一人に御言葉のパンを与えることができるでしょうか。どう考えても不可能です。日が暮れてしまいます。イエス様は、弟子たちに食べ物を与えるようにと命じられました。

私が江戸川区の教会にいた時にも、家庭集会を四、五カ所持っていました。そして私は日曜日の説教をして、祈祷会の聖書研究をして、家庭集会でも御言葉を語っておりました。もう、これ以上、家庭集会を増やすことは時間的にも限界でした。すると、教会に来ておりましたブラジル人の御婦人が、「パスター、なぜあなたは幾つもの家庭集会に出るのですか。ブラジルでは、牧師は日曜日の説教はしますが、家庭集会はそこのリーダーにまかせて、牧師はそのリーダー達に御言葉と牧会の訓練をさせています。」というのです。

確かに牧師が全部に出ていれば、五、六カ所の家庭集会で精一杯です。でも信徒に委ねれば、いくらでも集会は増えてゆきます。でも信徒の側からすると、「先生、私は御言葉を語れません。牧会は無理です。」という声が返ってきます。また牧師の側からも、牧師が行かなかったら、この集会はどこに行くか解らないという心配があります。でもイエス様は、「あなたがたの手で、即ちキリストの弟子たちの手で御言葉の食べ物を与えなさい。」と命じておられます。

2.パンは幾つあるのか。見て来なさい。
(6:38)
次に第二番目に、「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」(6:38)という言葉に注目してみたいと思います。弟子たちは、五千人を養うにはパンを買うお金がないと考えました。ヨハネ伝の方では、弟子のフィリポを試して「どこでパンを買えばよいだろうか。」と問いかけています。弟子たちの目は、この五千人の大群集の方に向いています。そしてすぐに、パンを買う予算をはじき出して計算をしています。200デナリオン(約200万円)必要です。実に弟子たちの経済的な視点と言いますか、金勘定は優れたものがあります。しかし、伝道は予算、経費の問題でしょうか。そうではありません。伝道は霊的なことなんです。食べ物をどこかから手に入れて来るのではなく、あなたは何を持っているのかということなのです。

イエス様は、弟子たちの目を群衆ではなく、弟子達自身の方に向けさせました。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」といいました。今度は、弟子の一人であるペテロがこう答えました。「ここに大麦パン五つと魚二匹を持った少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(ヨハネ6:9)と。彼らは自分たちの持っているものを見ると、それはわずかなパンと魚です。しかも子供が持ってきた弁当のような、乏しい食物です。ペテロは、「これでは何の役にも立たない」と吐き捨てるように言いました。

でもイエス様は何と言いましたか、「パンは幾つあるか見て来なさい。」と言いました。外部から持って来なさいと言いましたか。そうではありません。あなたがたは何を今持っているのか見て来なさいと言ったのです。自分たちが持っているもの、それが大事なのです。ダビデはゴリアテを倒す時に、他人の武器を使いましたか。どんなにそれが立派なものでも、小さいダビデの体のサイズには合わないのです。ダビデは、サウルのくれた兜や鎧や剣を使わずに、自分がいつも使っている石投げ紐と、五つの滑らかな川の石を武器にしました。そして、あの巨人ゴリアテを倒したのです。(サムエル上17:40)

自分たちが持っているもの、いつも使っているもの、自分たちが慣れているものでいいのです。たとえ、たった五つのパンと二匹の魚でもです。何の役にも立ちそうもないというものでいいのです。さて、皆さんは何を持っているでしょうか。

3.組に分けて、青草の上に座らせる(6:39)

第三番目に大切なことは、群衆を組に分けて青草の上に座らせるということです。イエス様は弟子たちに組に分けるようにと命じました。これは、イエス様が教会に対して、組に分けるようにと命じていることです。これは何かと言いますと、グループを造りなさいということです。組に分けることによって、食べ物が十分に行き渡るからです。そして百人と五十人の組に分けて座らせました。私は少し多いような気がします。というのは、十人以上になると話し合いが会議口調になってしまうからです。ですから、十人になったら五人五人の二グループに分けなさいと言っています。その方が親密に、内面まで入って深く話ができるからです。

青草と言いますのは、羊がゆっくりとした気持ちで、草を食べることができる環境ということです。羊である信徒が安心して、御言葉を食べることのできる場所です。この御言葉を食べることによって、羊は少しずつ成長して行きます。
いかがでしょうか、この青草のようにゆっくりのんびりとリラックスして集まって、御言葉を十分お腹いっぱいに食べるとこができる場所がありますか。自分が居てもいいんだよというような、自分の居場所のような集会です。あるいはそういう時間帯がありますでしょうか。

もし、教会にこのような青草の場所がないとしたら、おそらく教会員の方は飢えてお腹を空かして、あちこちに散らばってしまうでしょう。食べ物を求めて出て行きます。そして、どんな信徒も羊ですから、群れになったり、グループを作ったりします。そうしたいのです。自然の成り行きです。そうでないと自分を養うこともできませんし、狼の攻撃からも身を守ることもできません。

礼拝を休みたくなりそうな方が、この家庭での集まりにつながることによって、持ちこたえているケースもあるのではないでしょうか。その集まりだけは、いつもわくわく楽しみに集まって来ます。ここに信仰生活の命の源泉があります。こういう主にある交わりと御言葉の学びを経験したことのないクリスチャンの方は、本当に気の毒に思います。私は、地上で天国が体験できる唯一の場所ではないかとさえ思っています。

もちろん教会全体での礼拝や行事も意義がありますが、やはり一番、心躍るのは、このような集会でじっくりと御言葉を聞き、交わり、祈り合う時ではないでしょうか。そして、この場に復活の主が現れて下さって、傷ついた心をいやし、病んでいる魂に光を与えてくれます。祈りを通していやしが起こったり、カウンセリングを通して慰められたり励まされたりします。むしろ信徒の方の方が、親身になって相談相手になってくれたりしています。

そして大事なことは自分達だけで勝手に群れるのではなく、そこにやはり一人の牧者がついているということです。そうでないと、群れ全体が道に迷ってしまったり、足を踏み外してしまったりします。グループのリーダーは小さな牧者です。そして、教会の牧師がその小牧者を支える中牧者で、その上に大牧者なるイエス様がおられます。イエス様は、組に分けて、青草の上に座らせ、「あなたがたの手で食べ物を与えなさい」とおっしゃいました。

4.イエスは天を仰いで賛美の祈りを唱え
(6:41)

でも、イエス様が、「あなたがたの手で与えなさい。」と言ったので、弟子たちが勝手にその二匹の魚と五つのパンを配ったのではありません。もしそうであれば、それは五つのパンと二匹の魚のままです。全体に行き渡らないばかりか、一人分の食べ物にもなりません。このわずかな物が、奇跡的に五千人を養うほどに増えたのはなぜか。それは、そのわずかしかないものをイエス様がお取りになって下さったということです。つまり、その小さなたったこれしかないものをイエス様のところに持って行くことです。イエス様の手に取っていただくということです。そこに初めて奇跡が起こります。四番目に注目すべき言葉は、「イエス様が、天を仰いで賛美の祈りを唱えた」ということです。

実は、イエス様が、パンを手に取って賛美の祈りを捧げる場面は、この後、十字架に架けられる前の晩の最後の晩餐の時にもありました。(マルコ14:22)そして主が復活された後、エマオの村で二人の弟子に現れた時にも、賛美の祈りを唱えてパンを裂いて渡されました。(ルカ24:30)つまりこれは何を意味しているのかと申しますと、一言で言いますと、「主客の逆転」が起こったということです。

つまり今まで、主人は自分だったが、この時からイエス様が私の主人になったということです。当時は、パンを裂いて渡すのはその家の主人の仕事でした。受け取る方は、その家の家族の者や来客や家来、僕であったわけです。パンを受けるということは、パンを渡される方が自分の主人になり、自分のほうがお客様や召使、僕になったということです。この主体の変化、主体が入れ替わったことをこの祈りは意味しています。自分が食べ物を与えるのではなく、イエス様が与える本人であるということです。私たちはただ、それを受け取って配るだけです。あくまでも主人はイエス様なのです。イエス様に養われるということです。主に養われていることを、他の人に見せること、これが証であり伝道です。

リーダーは、何か自分がパンと魚を与えることができると思うのではなく、自分がイエス様からいつもパンと魚をいただいて生きていることを証することがリーダーの役割ではないでしょうか。自分が手に入れるというのではなく、イエス様からいただくものだということです。この姿を見て、他の人も、命の水の飲み方を自然に身に着けて行くのではないかと思います

5.五つのパンと二匹の魚(6:41)

さて第五番目ですが、「五つのパンと二匹の魚」とは何かということについて考えてみたいと思います。いろんな考え方があると思いますが、最近読んだ本の中に、この五つのパンというのは、イエス様が「これはわたしの体である」と言って渡されたパンですので、(マルコ14:22)イエス様の体を指しているのではないかという解釈です。私たちもよく、「五体満足」という言葉を使いますが、体を表すのに「五体」という言葉を使います。ですから、五つのパンとは、イエス・キリストの体である命の御言葉を指しているという考えです。

そして二匹の魚と言いますのは、昔、クリスチャンが自分はキリスト教徒であるということを表すために、一つのしるしとして魚(ギ=イクスース)という単語をギリシャ語で書きました。この五つの文字の意味するところは、「イエス・キリスト、神の子、救い主」という言葉の頭文字から成っております。つまり、魚というのは二人にクリスチャンという意味ではないかということです。

五つのパンと二匹の魚を配るということは、二人の弟子がイエスの御言葉のパンを、組に分けて青草の上に座らせて、そのグループに配るということです。私たちのように何もない者であっても、そのないものを主に差し出す時に、主がそれを賛美して御言葉を配る器に変えて下さるということではないでしょうか。五つのパンである主の御言葉を与えて、二人ずつ組にして配るように遣わされました。

この時、おそらく十二弟子の他に72人の弟子も周りにいましたので、全部で弟子の数は84人になります。これを二人ずつ組にしますと42組できます。5千人を42で割ると、約100人くらいのグループになります。大小50人と100人のグループができて、食べ物が十分に行き渡ったと考えてもいいのではないでしょうか。

6.パン屑と魚の残りを集めると十二籠になった(6:42)

六番目に42節の「すべての人が食べて満腹した。」という御言葉に注目してみたいと思います。そこにいた人全員が、成人男子で五千人、あんな子供も入ったら、もっと大きな人数になるかもしれません。彼らが、全員食べて満腹したとあります。これは五つのパンと二匹の魚が、一人一人に行き届いたということです。しかも、食べた後に残したパン屑と魚の残りものを全部集めたら、十二のかごにいっぱいになったというのです。これは、残りものでも、なお神様は祝福して用いて下さるということです。十二は聖なる数ですから、無駄なものでも捨てるものでもないということです。

これは何かと申しますと、一つには、私が話した今日のメッセージの残りものであるこの用済みの原稿が、聖別されて再び用いられるということを意味しています。私はいつも日曜日の宣教原稿を、終わりますと、礼典の清水さんにメールに添付して送ります。すると清水さんが、教会員全員に配信します。日曜日に聞いて、月曜日に家に帰ってプリントアウトして、もう一度読む方もおられると聞いております。そして礼典役員から、伝道役員に配信されますと、伝道の山﨑さんが求道者のリストを持っていますので、その方々に送信します。その後、HPに毎週の宣教のダイジェストをアップします。

このようにして一度食べたパン屑は絶対に捨てられません。何度も聖別されて、別な人々の心を養うのに用いられます。これが「残りのパン屑と魚を集めると十二のかごにいっぱいになった。」ということの意味です。こうして御言葉は、グループを通してどんどんと増え広がって行くのではないでしょうか。「あなたがたの手で食べ物を与えなさい。」とイエス様が命じられた理由です。

7.弟子たちを強いて舟に乗せた(6:45)

皆さんは、今まさにこの五千人を養うという聖書の奇跡の中に存在しているのです。この物語が、単なる奇跡的な出来事ではないような気がして来ませんか。それは、今皆さんがこのお話の中にいるからなのです。

最後に、イエス様がどうしたかと言いますと、この後弟子たちを舟に乗せて向こう岸へこぎ出させました。ここで一つ注目していただきたいのは、イエス様がその際に、弟子たちを「強いて船に乗せて、向こう岸へ出させた」ということです。「強いて」という言葉は、無理矢理という意味です。向こう岸まで出かけたくはない、ましてやイエス様が一緒でありませんから、彼らは漁師であるにもかかわらず怖気づきました。

私達もそうです。教会という建物の中にいると安心です。仲間がいて安全です。楽しいです。でも、一歩外へ出て、「私はクリスチャンです。」とか「教会に来て下さい。」とは口が裂けても言えない弱さを持っています。大きなリスクと決断を伴うかもしれません。新しい仲間と一緒に暗い海にこぎ出すのは勇気がいります。二の足を踏みます。

そのように、岸辺でどうしようかと迷って戸惑っている私たちを、イエス様は無理矢理強いて舟を出させました。このように、新しいことをする、しかも自分の家を開放して誰かれなく招くということは、誰かに強いられなければできないことではないでしょうか。ふつうは尻込みします。しかし、この伝道の働きは、実際にこぎ出してみないと分からないものです。泳ぎたくても、水に入らなければ、泳ぐことができないのと同じです。

神様の奇跡の出来事は、誰かに無理やり、強いられてでなければできない恵みの体験でもあります。グループ、集会という船に乗せて、真っ暗闇のこの世界にこぎ出すことです。自分では尻込みをしてしまいますが、イエス様が「いつまでも、岸辺でチャブチャブと遊んでばかりいないで、思い切って仲間と一緒に船に乗ってこぎ出しなさい、自分の手で飼い主のいない羊のように道に迷っている人々に、五つのパンと二匹の魚の証しをしなさい。」と言っているように思えてならないのです。                   (岡田 久)

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