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5つのパンと2匹の魚・あなた方が与えなさい (ルカ9:10~17)

メッセージ

2012年1月8日富里キリスト教会
「五つのパンと二匹の魚」(あなたがたが与えなさい)
(ルカ9:10~17)

1.あなたがたが食べ物を与えなさい

さて前置きが長くなりましたが、本題に入らせていただきます。私は、この「五つのパンと二匹の魚」で五千人を養うという奇跡の出来事の中で、一番大事な点は何かと言いますと、イエス様の言葉ではないかと思います。特に13節の「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と弟子たちに言われたイエスの言葉です。

なぜここでイエス様は「あなたがたが彼ら群衆に食べ物をやりなさい。」とおっしゃったのでしょうか。どうしてイエス様は、ご自分でこの群衆に食べ物を与え、ご自分でこの群衆に食べ物を配らなかったのでしょうか。ヨハネによる福音書の方では、イエス様の方から、弟子たちを試そうとして「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」(ヨハネ6:5)と尋ねています。

牧者を失った多くの迷える魂が、自分たちを真に養って下さるお方、そして自分たちの飢え渇きを満たしてくれる物を探していました。しかし、弟子たちの目には、空腹を満たす肉の食べ物のことしか頭にありませんでした。この五千人もの人々を養うには、こんな山の中ではレストランもないし、コンビニもないし、一体どこで弁当を手に入れるのだろうかと考えたのです。弟子たちはまだ、真に人を生かし養うのは、神の御言葉であるということには気づいていませんでした。

「人はパンのみに生くるにあらず、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのである。」(マタイ4:4)という主の御言葉を理解していなかったのです。群衆が求めていたのは、肉の食べ物ではなく、霊の食べ物だったのです。弟子たちの目は、食べ物のこと、霊的に満たす食べ物ではなく、肉的に満腹させることのみを考えていました。ですから、イエス様も弟子たちに対して、「あなたがたが自分の手で、彼らに食べ物を与えなさい。」と彼らの信仰を試すようにして言われたのです。

2.これしかありません

そうしましたら、案の定弟子たちは「私達にはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、私たちが食べ物を買いにいかない限り。」(ルカ9:13)と答えました。どの福音書でも、これしかありません。たった五つのパンと二匹の魚です。何の役にも立ちませんと言っています。

すると主イエスは、「パンはいくつあるか見て来なさい」(マルコ6:38)、そして「それをここに持って来なさい。」(マタイ14:18)と他の福音書では言っています。つまりイエス様は自分たちが持っているものを調べなさい、自分たちの手元にあるものに何があるのかと尋ねたのです。例えば、伝道するために私たちの教会に何がありますか、あなたは何を持っていますか、自分の手元にあるわずかな持ち物は何ですか。

例えば、私たちの伝道予算はこれしかありません。伝道するための案内チラシはこれしかありません。蒔いてくれる人も少ししかいません。伝道のための予算とか人数とかチラシを見ると、これでできるだろうかと考えてしまいます。でも、今、自分の手元にあるものを、主イエスの手元に持って来なさいと命じられました。

私たちは、毎月教会案内の配布をしています。今月も日吉台に行きます。その時、配る前に祈ります。それは、この手元にあるわずかなチラシや私たちをいったん神様の前に捧げますという祈りです。1月は、この人数しかありません。枚数も多くは持って行けません。でも、今この手元にあるわずかなもの、私たちの五つのパンと二匹の魚をイエス様のもとに持って来なさいというのです。

大事なことは、こんな小さなもの、何もない物を主の前にお捧げします。その小さな自分を神の前に差し出すだけで、主御自身が、その貧しき小さな者を用いてくださり、神の栄光を表して下さるのです。ですから、何もない、何もできない私たちをそのままでイエス様に献げればいいのです。これが「これしかない」と言って、貧しい自分を献げるということです。そしてそれでいいのです。

3.五十人ずつ、青草の上に座らせた

それから、イエス様は50人ずつ組にして座らせました。マルコの方では「青草の上に座らせるよう」お命じになりました。(マルコ6:39)これは、たんなるパンと魚を増やすという奇跡ではなく、そのような奇跡が起こるために、場所の準備がされたということです。つまり、いっせいに五千人にイエス様が増やしたパンと魚を配って群衆を驚かせるということではなく、もっと具体的にある目的をもって意図的に、50人づつ組にして青草の上に座らせたのです。
つまりこれは、イエス様の伝道の仕方、イエス様の教会形成の仕方について意図しているということです。

まず、青草と言いますのは、人がそこに座ってリラックスできる場所です。安心してゆっくりとくつろぎ、身も心もいやされる場所という意味です。皆さんにとって青草とはどこですか、この礼拝の場所でしょうか。成人科でしょうか、あるいはスモール・グループでしょうか。イエス様は、群衆を、まずこの青草の上に座るようにと命じられました。そこで初めて、霊の糧であるパンが配られるのです。

ある注解書には、この「五つのパン」というのは、イエスの体である五体を意味している、そして「二匹の魚」は、二人のクリスチャンのことを意味している。したがって、「五つのパンと二匹の魚」というのは、二人の弟子である宣教者がイエスの五体の体である命の御言葉のパンを携えて行くことである。それが、「あなたがたの手で彼らに食べ物を与えなさい」と言ったことの真の意味であると書いていました。そして二人が、宣教することによってイエスも宣教者自身も、御言葉として人々に食べてもらい、彼らの霊的な命を養うことになるのだと。

4.天を仰いで、賛美の祈りを唱え

イエス様は、まず群衆を50人の組に分けた後で、手元にあった五つのパンと二匹の魚を手に取りました。それから、天を仰いでそれらのために賛美の祈りをしました。賛美の祈りですから、「天の父よ、あなたは私たちのためにここに五つのパンと二匹の魚を備えてくださいました。見た目には、わずかであり、この人々を養い満足させるにはあまりにもわずかです。でも、神はこのわずかなものをも豊かに祝して用いてくださいます。あなたには何でもできないことはありません。全知全能である我らの神の御名を賛美します。どうぞこれを祝福し幾重にも増やして用いてください。」と。

どんなわずかなものでも、どんなに小さなものです、それを主に捧げて行くならば、主がそれを幾重にも祝福して用いてくださいます。わずかしかない、たったこれだけがというものが、主の手に委ねられ主に祝福されると、有り余るほどの恵みと祝福になって人々に行き渡るのです。自分にはできなくても、自分には不可能であっても、神にはできないことはないという信仰によって何倍にも祝福して用いられるのです。すべての人が食べて満腹するほどになるのです。そして残ったパン屑を集めたら、それも12かごいっぱいになりました。あの時の修養会のように、人々の心から満足感と喜びが湧き上がって満ち溢れ出るのです。そして残ったパン屑も、更に豊かに祝福されて用いられます。

5.まとめ

私はこの奇跡の出来事のキーワードは、最初にも言いましたが「あなたがたが自分の手で、彼らに食べ物をやりなさい。」ということではないかと思います。
これはイエス様の命令です。そして私もまた、この言葉から教えられたことは、果たして自分が弟子たちに「あなたがたが自分の手で、彼らに食べ物を与えなさい。」と言ってきたかどうかです。むしろ、皆さんに言わないで、牧師は自分だけでパンを増やして自分一人で悪戦苦闘して、群衆に配ってきたのではないだろうかと反省させられました。

イエス様も、自分で配ることはできたはずですし、その方が確実に配ることができたかもしれません。でもあえて、弟子たちに、自分たちで自分の手で自分の持っているもので配るように命じられました。自分にはそんな賜物はない、自分はまだそんなところまで行っていない、経験がありませんし知識も持っていません、荷が重すぎますとしり込みしていることはないでしょうか。

イエス様は自分たちの持っているわずかなものをここに出しなさい、私のところに持って来なさいとおっしゃいました。自分の身の丈以上のものをもってこなくてもいいのです、背伸びする必要もありませんし、ほかから何かを持ってくる必要もありません。手元にあるものでいいのです。お料理しかできない人はそれを差し出せばいいのではないでしょうか。手芸でも、お掃除でもなんでも小さなものを主の前に持って行けばいいのです。

そうすれば、それをイエス様は祝福し何倍にも増やして用いてくださいます。自分の持ち物や能力や性格に目を注ぐのではなく、ほんとに何もない自分を主の御言葉に従って捧げ切ることです。そこに神様の不思議な奇跡の業が起こってまいります。「あなたがたが彼らに自分の手で食べ物を与えなさい。」という主の御言葉を、今年も信じて従うものとなりましょう。    (岡田 久)

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