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魚を焼かれるイエス (ヨハネ21:1~14)

メッセージ

2014年7月27日富里キリスト教会

「魚を焼かれるイエス」
(ヨハネ21:1~14)

1.船の右側に網を打ちなさい

「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、デイドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。『船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」(ヨハネ21:1~6)

この出来事は何を意味しているかと言いますと、「岸」と言うのは向こう岸ですから、これは天国です。復活された主はすでに天国に行って、私たちをご覧になられ、天国から湖に向かって、つまり人生の荒波の吹きすさぶ現世に向かって、声をかけられているのです。そして、「ああしなさい、こうしなさい」と指示しておられるのです。これが「船の右側に網を打ちなさい。」と言う言葉です。
たとえ漁師の勘で、そこには何も魚がいないと分かっていても、その指示に従うのです。

最初、イエス様は、弟子たちを招いて「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」と言いました。つまり人間をとる漁師は、この岸辺から声をかけて下さるイエス様の声に聞き従わない限り魚は取れないのです。この御声に聞き従わない限り、一人の魂も救うことは出来ません。ですから、自分たちの勘や経験や知識で漁、即ち伝道をしても、一人も救うことは出来ないということです。「取れた魚」は救われた人々です。ですから、主の復活、そしてペンテコステの後に続く世界伝道、そして教会を建て上げて行くと言う使命は、何よりもまずイエス様の言葉に従わなければならないということを教えたかったのではないでしょうか。主の言葉に従わない限り、一人の魂も救うことは出来ないのです。いくら夜中に一生懸命漁をしても、一匹も取れなかったようにです。

2.ペトロとヨハネ

「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。他の弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ぺキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(21:7~9)

ペトロが先に湖に飛び込んで泳いで岸に着いた後、あとから魚の一杯入った網を水の中につけたまま、ようやく船が岸にたどり着きました。「イエスの愛しておられたあの弟子」と言うのは、この福音書を書いたヨハネのことです。彼が、七人の弟子の中で、一番最初に主だと気がつきました。しかし、急いで岸まで行きたくても網にいっぱい魚がかかっています。仕方なく、焦る気持ちを抑えて船を引いて行きました。実は、この船と言うのは「教会」を指しています。そして、網にかかった魚とは、教会を通して救われた人々のことを指しています。

ですから、ヨハネはせっかく獲得した人々の魂が、海の中に散ってしまわないようにしっかりと、教会と言う網の中に入れて、主の待っている向こう岸である天国まで連れて行く働きを担いました。教会はこの世にあります。湖の中に入っています。でも目に見えない網でしっかりと囲まれて、散って行かないように守られているのです。一方ペテロは、早く向こう岸に行って主に会いたいという性格の伝道者をあらわしています。いわば、教会形成よりも一人一人の魂の救いを大事する宣教師タイプの働きを表しているのではないでしょうか。

ペテロは「宣教師、開拓伝道者」タイプの使徒で、ヨハネは「教会形成をする牧会者」タイプの働きを代表しています。そしてこの二つの働きはそれぞれ相反するものではなく、これからの世界宣教に向かっては必要なものだということです。どちらの働きも必要です。以前、バプテスト連盟がアメリカの南部バプテスト連盟の宣教団と一緒に協力して、全日本に「五百と五万の教会と信徒」をと銘打って、協力伝道を展開しました。このように、開拓伝道する宣教師と教会形成をする牧師が一緒になって伝道する、この二つの働きが世界宣教のためには必要だということを、イエス様は教えようとしたのではないでしょうか。

3.炭火で魚を焼くイエス

実は魚のことをギリシャ語では「イクスース」と言います。この言葉の文字を一字一字取りますと「イエス・クリスト・神の・子・救い主」となります。つまり主イエス・キリストを神の子と告白する人ということで、クリスチャンのことを指します。この魚を炭火にかけるということは、「炭火」は「聖霊の炎」を意味しますから、聖霊によって聖められたクリスチャンということになります。

つまり、向こう岸、天国では、聖霊によって聖められたクリスチャンをイエス様が準備していて下さり、それを弟子達と一緒朝食として食べる時だということになります。食べると言うと何か物騒な感じがしますが、これは今までの伝道の成果を、イエス様と分かち合って喜ぶということです。これが天国での宴となるのです。生涯をかけて伝道したペテロ、そして世界中に教会を建てて福音宣教の働きをしたヨハネと他の使徒たちが、その救いに導いた人々と共に、食卓を囲んで共に喜ぶと言う場面ではないかと思います。

朝の食事です。これは復活の朝、復活の主と再び出会うという天国での宴のような時です。クリスチャンにとって、天国で、イエス様やペテロやヨハネ達に食べられるという親しい交わりの晩餐を表しています。食べる方も食べられる方の、共に天国での親しい交わりを体験するということです。ですから、このイエス様に食べていただく、あのペテロやヨハネに食べていただくおいしい聖められた魚になるためにはどうしたらいいでしょうか。それが今日のメインテーマです。

ここは銚子港が近いので、おいしい魚を食べることのできる土地がらです。またアジやサンマは、はらわたを取って乾燥させますと、いっそうおいしくなります。私たちもイエス様や十二使徒に食べてもらうためには、おいしい魚にならなければなりません。そのためにはまずはらわたを取らなければなりません。このはらわたは、私たちの内にある罪の部分きたない食べられない部分です。それをイエス様の十字架の血潮と御言葉の水でもって洗い流してもらう必要があります。そして体を二つに裂いて、さらに乾燥させます。これは自分の体も心も全てを主に明け渡すということです。何も隠し事はありませんということです。そして、さらに太陽の光と風の力によって聖める必要があります。

太陽は日の光、私たちの肉にある食べることのできない部分を消毒してくれます。そして余分な水分を取って身を熟成してくれます。風もそうです。風は聖霊を意味しますから、聖霊の吹く風によってさらに聖めるのです。このようにクリスチャンがイエス様に喜ばれる魚になって行くためには、イエス・キリストの十字架の血によって汚れた部分を洗い流します。御言葉の水を持って汚れた血液を流してきれいにし、その上に更に聖めのために塩を振りかけます。この塩によって殺菌と味付けをして聖め、あとは聖霊の風によって十分に乾燥させて聖めます。こうして炭火で聖めれば、おいしい魚の干物ができるのではないでしょうか。

これを天国では、イエス様と弟子たちが一緒に食べる。そしてわたしたちも食べられる。こうして食べる方も食べられる方も、共に喜びの朝の食事をするのです。これが向こう岸である天国での出来事だということです。そのためには、喜んで食べてもらう魚にならなければなりません。イエスの十字架の血潮と御言葉の水、そして清めの塩、そして太陽の光と風によっておいしい焼き魚の干物ができるのではないでしょうか。それがこの岸辺での朝の食事です。天国での愛餐会です。

4.天国での朝食

「イエスが、『今取った魚を何匹か持って来なさい。』と言われた。シモン・ペトロが船に乗り込んで網を陸に引き上げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい。』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活したのち、弟子たちに現われたのは、これでもう三度目である。」(21:11~14)

不思議にも153匹もの大きな魚がかかっていましたが、網は破れませんでした。よく大物がかかると釣り糸が切れたり、網が破れたりします。でも教会と言う網は、どんなに大物がかかっても、また153匹と言う大漁でありましても、破れることは決してありません。この153匹と言う数の解釈はいろいろありますが、当時の主な魚の種類の数ではないと言われております。

つまり、全種類に渡ってくまなく人々が救われるということです。アメリカ人やヨーロッパ人だけではなく、アフリカ系やアジア系の人々153の民族から、神の救いに定められている人々が予定通り救いの網に入るということです。153匹と言うのは、神様の救いに定められている人々の確定数があるということを意味しているのではないでしょうか。ともかく大漁です。それでも網は破れないということは、救われる人々はたくさんいても、教会はその人々をしっかりとすべて収容しているということです。

そしてその中からも数匹の魚を獲り出して、イエス様が準備した魚と一緒にして朝の食事をしたのです。天国での愛餐会です。また、天国と言うのはこのような所だとも言っております。イエス様と一緒に、自分たちが伝道して得た多くの魂と食事を通して親しく交わるところだとも言えます。それを、このように魚とパンの質素な朝の食事にたとえているのではないでしょうか。

福音書の最後に、主はこのようにして、これからペンテコステ以降に福音が全世界に宣べ伝えられて、多くの魂が救われることをあらかじめ教えました。そのためにはまず、伝道は復活されてすでに天国に行っているイエス様の向こう岸から呼びかける御言葉に従わなければならないということです。その時に、大漁の魚を揚げることができるということです。そして、やがて最後には再び弟子達と天国で、取れた聖なる魚を焼いて、一緒に天国での交わり食事の時を持つことになるということを教えられたのではないかと思います。(岡田 久)

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