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飼葉桶のキリスト (ルカ2:8~12)

メッセージ

2010年12月19日富里教会
「飼葉桶のキリスト
(ルカによる福音書2:8~12)
1.貧しき者へのしるし

ルカの2:4~7までを読んでみましょう。
「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリヤと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリヤは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊る場所がなかったからである。」
                         (ルカ2:4~7)

キリストは、本来でしたらユダヤ人の救い主として、イスラエルの民に歓迎され王宮か神殿に迎えられるべきはずのお方でした。しかし、誰もこの田舎のナザレから来た貧しい夫婦が、キリストの両親だとは気が付きませんでした。本来ならば、宿屋の最上の客室に迎え入れられるべき人でしたが、部屋が空いておらず、御子イエス・キリストは飼い葉桶の中に身を横たえるしかありませんでした。

多少の飼い葉やわらや家畜の匂いはしたでしょうが、温かい場所を確保できたのは不幸中の幸いでした。このように、肉体を取ってこの世に来て下さった救い主を迎えるのは、ホテルのスウィート・ルームのふかふかのベッドではなく、馬小屋の飼葉桶の中でした。救い主キリストは、自分の民から締め出され、馬小屋にそして飼い葉桶という置かれました。これは、豊かな人の心ではなく、貧しい人の心に宿ったということを意味しています。

また、次に出てまいります羊飼いもそうです。今も昔も、羊飼いというとイスラエルの中でも最低の貧しい階層に属しておりました。ですから、彼らは長い旅をしながら、何日も風呂にも入らず、荒野を羊と一緒に旅をしなければなりませんでした。全国の人々が、自分の生まれ故郷へ帰るという帰省の季節になっても、仕事のために家に帰らずに寒空の中で仕事をしなければなりませんでした。今の時代でもそうです。帰省もできずに、外で年末も夜の仕事をしなければならない人々がたくさんおります。そういう貧しい人々に向って、クリスマスのメッセージは語られたのです。

8節から読んでみましょう。
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。私は、民全体に与える大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」
                        (ルカ2:8~12)

布にくるまって、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子、これが貧しき人々に与えられた神様からのしるしだというのです。このしるしの意味するところは何でしょうか。それはイエス・キリストは、飼葉桶のように汚れた心、貧しい心、渇いた空しい心に身を横たえて下さるということです。このヨセフとマリヤのように、貧しいなりにも神に希望を置いてつつましく生活している者、そして救い主の到来を待ちながら、羊を飼って夜も昼も寝ずの番をして待っている心の持ち主の所にやってきてくださるということです。

汚れた部屋、罪に汚れた心、人生に空しさを覚え、生きる意味を捜し求めている渇いた心、そういう霊的に精神的に貧しい心の持ち主の所に救い主が来て下さるというのです。それが、この「飼い葉桶の中のキリスト」という神様から与えられた救いのしるしなのです。心病んでいるもの、痛みを持っているもの、悩みを抱えている者のところに御子が来てくださったのです。

皆さんの心は今どんな心ですか。ボーナスがたくさん入ってほくほくしている心ですか。自分の生き方人生に満足している心ですか。イエス様は、成人してからこう言いました。「心の貧しい人々は幸いです。なぜなら、天国は彼らのものだからです。」と。クリスマスの本当の意味は、経済的にも、また精神的にも自分の貧しさ、弱さ、欠点を感じている人々に与えられた喜びのメッセージなのです。

2.羊飼いの信仰

心の貧しかった羊飼いは、この天使の言葉に励まされ、その語られた言葉の出来事、事実を確めようとしました。15節からを読んでみましょう。
「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」(ルカ2:15~17)

羊飼いたちは、天使が語ったことを確めにベツレヘムの村まで行きました。時間は夜中です。村まではかなりの距離があります。でも彼らは、この天使のみ言葉を確めずにはおれませんでした。そして、お互いに「話し合い」ました。これは、私たちの教会で言うなら、成人科のクラスのようなものです。あるいは、スモール・グループの御言葉の学びと分かちあいの時かも知れません。お互いに仲間同士で、天使が語ったことを確かめ合うのです。お互いに励ましあうのです。

そして、実はある意味では、聖書は飼い葉桶です。この飼い葉桶である聖書の中にキリストが眠っているのです。ですから私たちは、ベツレヘムの村の宿屋と馬小屋を熱心に訪ね歩いて、御子イエス・キリストを探さなければなりません。つまりクリスマスというのは、この天使の語った御言葉を仲間で、飼い葉桶という聖書の入れ物を通して、そこに御子イエスキリストを発見することなのです。キリストを見つけることです。御子をこの聖書の入れ物の中に発見すること、これもクリスマスの出来事なのです。

ベツレヘムという名前の意味は、ベイト(=家)とレヘム(=パン)から成っている言葉ですので、訳すと「パンの家」となります。つまり、命を与える御言葉のパンとして御子が来て下さったということです。そしてこのパンの家とは何でしょうか。それは、御言葉を分かち合う場、すなわちこの教会のことです。またスモール・グループ等の仲間の集まりと交わりの場、それがベツレヘムです。パンの家です。

私たちはそこで、お互いに励ましあい、話し合い、御子を聖書の中に見つけようとするわけです。やはり、仲間がいないと途中で挫けてしまいます。お互いに暗い夜道を、助け合い、励ましあい、語り合いながら御子を見つける発見の旅を続けているのです。

4.マリヤの信仰

「いやあ、私はそこまでいきません」とおっしゃる方がおられるかも知れません。それでもいいのです。実は、御子を生んだ母マリやも、そこまでは信じきっていませんでした。自分がお腹を痛めて生んだわけですから、余計、この子が神の子、救い主だとはにわかに信じることができなかったかも知れません。村の人たちもそうでした。18節から読んで見ましょう。

「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリヤはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(2:18~20)

マリヤは、自分がイエスを産んだこと、羊飼いたちが来てこの子は救い主、メシヤだと言ったこと、そして自分に告げた天使ガブリエルの御言葉などを、心に納めて、思い巡らしていました。この「思い巡らす」という言葉を、英語ではPONDER(=熟考する)という単語と、MEDITATE(=黙想する)という言葉が使われています。つまり、この言葉は一体どういうことだろうかと、何日も、何ヶ月もの間、思い巡らすことです。PONDERという言葉は、PONDつまり池という言葉に由来しています。一つの御言葉を、頭の池の中に溜め込むことです。そして、繰り返し繰り返し思い起こして「この言葉は一体どういう意味なんだろう」と、昼も夜も考えていることです。

そうしていると、必ず、いつか聖霊様が心の中を照らして下さって、その御言葉の意味が、一瞬にしてひらめくことがあります。御言葉を解釈する上で大切な、「聖霊の内的照明」という体験です。そうしますと聖書の上にかかっていたかすみが晴れるように、聖書の深い意味がスーッと解るようになるのです。霊的な目が開かれる瞬間です。すると、もう黙っていられません。羊飼いたちは自分たちが卑しい身分であったと言う事実にもかかわらず、村中の人々に御子の誕生と救いの知らせを告げ広めました。そして、神様を崇め賛美を歌いながら、意気揚々と興奮しながら、羊のいる野原へと帰って行きました。

このように最初のクリスマスは、極々少数の人しか知りませんでしたが、今日、多くの羊飼いやマリヤやヨセフによって、飼い葉桶の中のイエス・キリストの救いの知らせが、全世界に宣べ伝えられています。私たちも、マリヤや羊飼いと一緒に、この御言葉の事実を聖書の中に見つけることができるよう、仲間と一緒に集まりましょう。そして御言葉をたくさん心の中に溜めて、人々にクリスマスの本当の意味を宣べ伝えて行きましょう。(岡田 久)

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