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静かにささやく声 (列王記上19:8~15)

メッセージ

2016年8月21日富里キリスト教会

「静かにささやく声」
(列王記上19:8~15)

1.逃避したエリヤ

今、学んでおります預言者エリヤも、あのカルメル山で、激しい霊的な戦いを経験しました。バアルの預言者450人と戦い、ついには彼らに勝利したのです。それでも王妃エゼベルの前には、まだまだ勝利するまでには行きませんでした。アハブ王は家に帰って、妻イゼベルにエリヤの勝利を告げると、逆に、イゼベルは勢いを増して、バアルの神に誓って、何としてでもエリヤを殺すと断言したのです。これを聞いて、エリヤはイゼベルの復讐を恐れ、150キロも南のべエル・シェバまで逃げのびてきました。そしてそこからさらに、一日分歩いて荒れ野に入り、一本のえにしだの木の根元に座り、主にこう願いました。

「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません。」(19:4)と。「もう限界です、これ以上戦えません。」と訴えました。そして自分の命を取ってくださいと、主に願ったのです。エリヤは、相当に疲労困憊していました。燃え尽きていました。完全に戦い尽くして自分のエネルギーも力も全て出し尽くしたのです。「もっと出せというのですか。もうだめです。疲れ果てました、これならいっそのこと死んだ方がましです。」と言いました。誰でもそう思います。神を知らない人でしたら、すぐに自分で自分の命を取ってしまったかもしれません。

つまり、ここで大事なことは「その場を離れる」ということです。マラソンを離れる、体操をはなれてみる、一旦その現場から身を引いて、しっかりと自分の体と心を休ませることが大事なのです。一見、恰好よくないかもしれませんが、後退する、止めるということです。

東京オリンピックの銅メダリスト円谷選手(銅メダルを取ったにもかかわらず、後に自分を責めて自殺)の友人選手だった君原選手は、いったん現役から退いて結婚をしました。そしてその後、マラソン人生から離れて普通の生活に戻ったのです。そしてそういう中で奥さんに励まされて、再度オリンピックに挑戦しようと思いました。そしてメキシコオリンピックで、銀メダルに輝きました。それは、彼は休んだからです。マラソンから離れたからです。いったんその場から身を引く、引退する、退部届を出すとかして、身を引いて休めることが大事です。頑張る必要はありません。たとえ負け犬になっても、仕事を辞める。会社を休む、学校を休むということです。しばらく現場から身を引くことです。それが回復の第一歩のような気がしてなりません。

2.起きて食べよ

エリヤは荒野のえにしだの木の根元で、死んだように眠りました。何日も爆睡したのです。すると御使いが現われて「起きて食べよ」と言って、枕もとに菓子パンと水瓶を置いて行きました。エリヤは起きてそれを食べるとまた横になりました。するともう一度御使いが現われて、パンと水を差し出しこう言いました。「起きて食べよ。この度は長く、あなたには耐えがたいからだ」と言いました。その場から離れて、ゆっくりと身体を休めることと、十分な食事をとることです。

普通のパンではなく、「パン菓子」とありますから、甘くておいしい食べ物です。体力的にも弱っていますから、十分に栄養の行き届いた食事をとることによって、体力も回復し、気力も回復してくることがあります。ですから、やはり無理をしてでも、その現場から離れ、何もかも忘れて、ゆっくりと栄養豊かな食事を取ることによって、体力をつけることによって気力がわいてくるというのです。(散髪、歯科医院、入院の方がいい。)

3.原点に帰る

十分に休んで、食事も摂って歩けるようになったエリヤが、次にとった行動は何かと言いますと、自分の原点に立ち返ったということです。19:8に「エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。『エリヤよ、ここで何をしているのか。』」(19:8~9)

モーセが40年間、荒野を放浪したように、彼も四十日四十夜かけて神の山ホレブまで歩いて行きました。べエル・シェバからホレブ山まで約250キロくらいですから、40日もかからないと思いますが、エリヤはあちこちさ迷いながら、自分のこれからのことも考えながら歩いたのではないでしょうか。彼は主の御心を求めて、これから自分はどうすればいいのだろうか、その道を探し求めながら神の山までたどり着きました。そしてかつてモーセが十戒を授かったシナイ山まで、足を進めて来てしまいました。

わたしも休職中に、アメリカのバプテスト教会を旅しました。自分の信仰のルーツを探る旅です。そこで、I give you my heartという歌に出会いました。その中に、Lord I give you my heart./ I give you my soul./ I live for you alone./ Every breath that I take./ Every moment I‘m awake/ Lord have your way in me.という歌です。主が道を示して下さるようにと祈りながら旅をしたのを覚えています。

エリヤも自分が進むべき道がわからなくなっていたのです。するとそこで主がエリヤに語りかけました。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」と。エリヤは答えました。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えて来ました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」(19:10)

エリヤは自分が、この洞窟の中に身を潜めている理由を主に話しました。主は彼がここにいる理由を二回も尋ねています。この10節の後に、14節でも同じようなこと、エリヤは説明しております。わたしはこの神様の「エリヤよ、ここで何をしているのか。」という質問の中に、カウンセラーとしての神様の心配りを見る思いです。

激しい霊的な戦いをして、疲労困憊、燃え尽き症候群になっている一人の人間に対して、何でお前はここにいるのかと、問うているのです。人は自分が燃え尽きてしまいそうな時に、その思いを誰か別の人に話したいし、また聞いてもらいたいものです。主はエリヤの心の思い、その痛み、傷ついたことをていねいに、しかも二回も質問してくれました。そしてエリヤは、自分の思いを余すところなく主に打ち明けたのです。ですから、エリヤもここで誰かに自分の気持ちを打ち明けない限り、心の癒しと回復はありませんでした。

4.静かにささやく声

でもこの自分の言い分を聞いてくれる人がいるだけでは、まだ真の癒しと回復にまでは至っていません。彼が本当にいやされ、回復をするためには、自分のことを打ち明けるだけではなく、最後には神の御声を聞くことがなければならないのです。主に向かって、自分の思いのたけを訴えることは大事ですが、訴えるだけではなく、そこから次に主の御声を聞くところまで進んで行かなければなりません。エリヤの気持ちを聞いた主は、次にこう言いました。

「主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた『エリヤよ、ここで何をしているのか。』」(19:11~13)

主は「洞穴を出て、山の中で主の前に立ちなさい。」と言いました。洞穴と言いますのは、暗闇、孤独といったイメージがあります。いわば、エリヤの心の状態を表しています。「わたし一人だけが残ったと」いう孤独感、敗北感、失望感です。さらに「命を狙われている」という恐怖感です。彼は表に出て立つことさえできず、じっと洞穴という暗闇の中に身を置いて、時が過ぎて行くのを待っていました。自分の気持ちを聞いてもらいたいという気持ちでいっぱいです。二回も書かれているということは、何度も何度も、自分がここにいる理由を打ち明けたのです。人がいやされるためには、まず自分の思いのたけを打ち明けることのできる相手と、場所と時間が必要な気がします。

でもいつまでも自分をその暗闇の中に置いたままでは、真にいやされたことにはなりません。やはり、最後は、「洞穴を出て、山の中で主の前に立つこと」です。つまり、主を礼拝する場所に自分の体をもって行くことです。閉じこもってばかりいないで、神の前に出る、端的言いますと、礼拝に出るということです。自分の殻を破り捨てて、一歩、神の山に行くということです。主の前に立つことです。主日の礼拝に出ることです。そしてその時に、主が出会って下さるのです。

エリヤは不思議な経験をしました。まるで神様の御臨在を思わせるような風が起こりました。しかしその中には主はおられませんでした。次に大きな地震が起こりました。しかし、その中にも主はおられませんでした。次に火が起こりましたが、そこにも主はおられませんでした。そしてその火の後に、静かにささやく声が聞こえたのです。つまり主と出会うということ、そして真に主の御言葉を聞くということはどういうことかということを教えています。つまり、主は自然現象の中にはおられないということです。主はあくまでも、「静かにささやくような声」としてわたしたちに出会って下さるということです。

自分が人生で一番落ち込んだ時、洞穴の真っ暗闇の中に身を置いて、死を願うような苦しい時、その時こそ、真に主の御声を聞く一番良い機会なのです。楽しい時、元気な時、嬉しい時にはあまりこの静かな小さい声を聞こえて来ません。真っ暗闇の中で、出口を求めて真剣に祈り求めている者だからこそ、聞こえて来る御声なのです。

つまりこの静かにささやくような声と言いますのは、神様の言葉に集中して初めて聞こえて来ます。雑音がしたり、心が定まらなかったりしては聞こえて来ません。集中して真剣に主と向き合う時です。それは祈りの時です。しかも暗い闇の中で、自分が息絶えようとしているような、絶望的な中で、静かにささやく声が聞こえて来ます。

5.来た道を引き返し、荒れ野に行け

主は、エリヤに「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。」と言いました。自分の逃げて来た道を引き返して、もう一度荒れ野という厳しい現実に身を置きなさいということです。でも主は、ただでは返しませんでした。「ハザエルに油を注いでアラムの王とし、イエフにも油を注いで、イスラエルの王とし、あなたの後継者であるアベル・メホラのエリシャにも油を注ぎなさいと言いました。」そして最後に「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざをかがめず、これに口づけしなかったものである。」と言いました。

エリヤに新しい使命と、主を信じる真の神の民を七千人残していると言ってエリヤを励ましました。決してお前は一人ではない、お前を支える仲間がいるというのです。しかも七千人です。どんなに孤独になり、敗北しそうな時にも、主は必ず七千人という信仰者を備えていて下さるというのです。これらの言葉に励まされて。エリヤは再び北のダマスコを目指して戻っていきました。皆さん、七千人の仲間がいるというのです。わたしたちも本当に小さな群れです。でも主はこの地方に、七千人の主を信じる者を残しておられると言っておられます。ですからあきらめずに、この多くの仲間を信じて伝道しましょう。あなたは一人ではない、七千人の仲間がいるのです。

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