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雪よりも白く (詩編51・1~14)

メッセージ

2010年8月15日富里教会
「雪よりも白く」
(詩編51:1~14)

1. 神に対する自分の罪を認める

まず第一に、自分の犯した罪を認めることの難しさについてお話したいと思います。誰でも自分の罪を見て見ぬふりをします。ダビデもそうでした。押しも押されぬイスラエルの王、神にたてられた勇者、連戦練磨のつわものです。自分は出かけなくても、部下たちだけで勝てる。そして自分は、宮廷にとどまって昼寝をして、夕方ねぼけ眼で起きたわけです。王としての傲慢さと、人を思いのままにできるという思いが、ダビデの心に隙を与えていました。そこにサタンが入り込んで、沐浴をしている美しい女性の裸の姿を見せつけたのです。ダビデも男です。昔から「英雄、色を好む」ということわざがありますように、一目で情欲のとりこになり、姦淫の罪を犯してしまいました。

そして自分の身から出た一つの過ちが、姦淫、殺人、偽り、策略と、どんどん拡大し、凶暴になっていったにもかかわらず、彼は自分の罪をひたすら隠し続けました。おそらく、ダビデはこのまま、自分では罪を知っていながら、しらをきって、死ぬまで、墓場までこの罪を持っていったのではないでしょうか。

しかしナタンの命がけの警告により、自分の犯した罪の大きさに初めて気がつきました。そして、ダビデはナタンに対して「私は主に罪を犯した。」(サムエル下12:13)と告白しました。
詩編51:5から、ダビデはこう告白しています。
「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。」(詩編51:5~7)

まず第一に大切なことは、自分の罪、咎、過ち、非を認めるところから始まります。そして人に対して罪を犯したということよりも、ダビデが告白していることは、神様に対して罪を犯したことだということです。いくら法律上は和解して、万事解決したと思っても、クリスチャンにとって重要なことは神との関係です。神様との関係がどうなのかと言うことです。神様は私たちの心の中を全て御存知です。自分では隠したと思っていることも、また秘密の出来事も全て御存知です。誰も、この神の目を逃れることはできません。

ダビデは6節で、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。」と言っています。神様の前においては、自分にはもはや何の弁解するところはありませんと告白しています。「あなたの裁きには誤りはありません。」と観念して主の前に立っています。でも、ここから、まず自分の罪を神の前に認め、自分の罪の大きさに震えおののきつつ告白することから、私たちの再生の道が始まるのではないでしょうか。

2.罪を清めてくださる神

第二に、神は罪を赦し、清めて下さるお方だということです。イザヤ書1:18にこうあります。「たとえ私たちの罪が緋のようであっても、雪のように白くなることができる。たとえ紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。」(イザヤ1:18)と。

もし私たちが、神の前に自分の罪、咎、過ちを告白して悔改めるならば、主は必ず私たちの罪を拭い去り、聖めてくださいます。そのことを訴えたのが、51編の3~4節と9~11節の御言葉です。
「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御哀れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗って下さい、雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください。あなたによって砕かれたこの骨が喜び踊るように。わたしの罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。」

大切なことは、赦して下さる神に対して、自分の罪をぬぐい、清めてくださるように祈り求めることです。「背きの罪」というのは、神が自分を王として選んでくださったことに対する背任の罪です。ダビデは、イスラエルの王としての聖なる権威を踏みにじり、神に背きました。また、「咎」というのは、個々の違反の罪です。そして「罪」とは、それらの背きや咎の根本となっているもともとの本質的な罪のことです。そういう罪、咎を認め、主の前に告白して、それらから自分を清めてくださるようにと願い求めることです。神様は、憐れみ深く、慈しみに富んだお方ですから、必ず、罪を拭い落とし、清めてくださるお方です。

「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗って下さい、雪よりも白くなるように。」(51:9)とあります。ヒソプとは、良い香りのする植物ですが、かつてイスラエルの民がエジプトから脱出する時に、ヒソプの枝で家々の柱に子羊の血を塗りました。その時に、子羊の血のついている家は、神の災いが通り越して行きました。この柱に塗られた子羊の血は、イエス・キリストの十字架の贖いの血潮を意味しています。神の子羊イエス・キリストの血は、私たちのどんな罪でも赦し聖める力があります。
たとえ、緋色のように真っ赤でも、また紅のように赤くても、キリストの贖いの血は、それを真っ白に洗い流して下さいます。

「雪よりも白くなるように」という言葉がありますが、あの雪よりも白く、羊の毛よりも白くして下さるのです。つまり、新しく造り変え、生まれ変わらせて下さるのです。どんなにでたらめな、とり返しがつかないような人生であっても、主の十字架の贖いの故に、新しくされ、リセットされた新しい人生を歩ませて下さるのです。やり直しのきく人生です。ダビデのように、姦淫、殺人、虚偽、策略、背任と言った死刑に値するような罪でも、それをも赦し、もう一度ゼロから再出発させて下さる神様です。

3.生まれ変わった新しい人生  

最後に、たとえクリスチャンでありましても、そうでなくても私たちの人生に苦難や失敗や挫折はつきものです。ダビデのように、ちょっとの気のゆるみが、大きな人生の落とし穴になってしまうことがあります。「何で、どうして自分だけがこうなるのか」と思うかも知れません。でも、どんな試練にも必ず神様の意味があるのです。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」「わたしを苦しめられたのは、あなたのまことのゆえです。」(詩編119:71,75)という御言葉あります。

人生の苦しみや試練にも、必ず意味があります。目的があります。この事件を通して、ダビデは、もう一度、主の前に自分の罪を悔改め、新しい霊を下さるようにと願いました。「神よ、わたしのうちに清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。」(51:12)と祈っています。そして何よりも彼が変えられたのは、19節、「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」と祈っています。

ダビデは、この事件を通して、もう一度新しくされました。王としての高ぶる心、人を支配する肉の欲を捨て、神の前に心打ち砕かれ、へりくだって歩む人間に変えられました。そして、再び伝道者として立ち上がる再献身の決意もしました。15節に「わたしはあなたの道を教えます。あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように。」と訴えています。

この事件の後、ダビデは本当に主の前にへりくだって歩みました。この後も、彼の人生にいろんな試練が押し寄せてきます。とりわけ、自分の息子たちによる不祥事とアブサロムの反乱。次々と人生の荒波は押し寄せてきますが、彼はへりくだって、主にのみよりすがって歩みました。そして、様々な危機から神がダビデを守ってくださいました。バトシェバとの間に生まれた長男は死んでしまいますが、その次にできた子供、ソロモンがダビデの王位を継いで、イスラエルを更に強固な国へと発展させて行きました。

神様は、どんな失敗や罪を犯しても、必ずそれを赦し清めてくださいます。そしてすべてのことを益にして下さいます。雪よりも白くして下さると言っておられます。雪と同じように白くなることすら難しいと思う私たちですが、でも、このように祈るならば、雪よりももっと白い私たちに造り変えて下さいます。この51編は、私たちが雪よりも白くなるための祈りです。ですから、そう祈りましょう。心砕かれた者の祈り、それは「神様、私の罪を赦し、雪よりも白くして下さい。そして、あなたの前に聖なる者、完全な者にして下さい」という祈りです。イエス・キリストの十字架の血潮には、私たちを清めて完全にする力があります。                                (岡田 久)

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