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銀貨二枚を捧げた貧しい女 (マルコ12:38~44)

メッセージ
2018年3月4日富里キリスト教会
「銅貨二枚を捧げた貧しい女」
(マルコ12:38~44)
1. 主が見ておられる

「イエスは賽銭箱に向かって、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち1クァドランスを入れた。」
(マルコ12:41~42)

ルカの方では「イエスは目を上げて金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。」(ルカ21:1)とあります。マルコでは「賽銭箱の向かいに座って群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。」とあります。どちらもイエス様は、献金箱の前にしっかりと座ってじっくりとご覧になっておられるというのです。どこか陰に隠れてこっそりとみているというのではありません。神様への捧げものですから、当然それはイエス様に向かって捧げられるものです。私たちが献金をする相手、対象はイエス様です。ですからイエス様もしっかりと陣取って、わたしたちの献金の姿を見ておられるのです。「目を上げて」とありますのは、注意深くきちんとご覧になっておられるということです。

ですから、この神殿に献金を捧げるお金持ちの人々も、「たくさん」入れていたのです。しかも二、三人だけではありません。大勢の金持ちです。その大勢のお金持ちが、たくさん献金を投げ込んでいたのです。この時会堂には13の献金を捧げるためのラッパ状の献金箱がありました。よく短い有料道路などで、有料道路に入るゲートのところに大きな口をした投入口があります。それのラッパ状の献金投入口がありまして、そこにお金持ちの人々が来て、たくさん献金していたのです。

普通、大金持ちの人はわずかしか献金しないと世間では言われていますが、彼らは違っていました。大金持ちでありながら、たくさん捧げていたのです。恐らくラッパにお金の投げ入れる音が響いたのでしょう。ジャラジャラ、ガラガラとパチンコ屋みたいに大きな音がしていたのではないでしょうか。でもそれだけでも素晴らしいではないですか。

でもイエス様がご覧になっているのは、その捧げたお金の金額やお金の色や音ではありません。イエス様は、賽銭箱に向かって座られ、目を上げてじっくりと
献金する一人一人の心の中を見ておられたのです。つまり、わたしたちが献金をする時に、イエス様がそのそばにいて、私たちがどんな気持ちで献金をしているのかをしっかりとご覧になられておられるのです。今日もこの宣教、主の晩餐式の後に献金の時があります。その時に主は献金する一人一人の前に向き合って座られ、わたしたちの捧げる金額よりもむしろ私たちの心の中をご覧になっておられるのではないでしょうか。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた通りにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(Ⅱコリント9:7)

2.大事なものを捧げる

そういう大勢のお金持ちに混じって、貧しい一人のやもめの女性が献金をしました。「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち1クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。みなを有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れたからである。』」(マルコ12:42~44)

当時は未亡人の女性は生活の糧がありませんでしたから、貧しい生活を強いられました。本当にその日食べるのにも事欠く生活でした。ですからお金持ちの人のように、たくさんは献金できません。13個の献金用の投げ入れ口がありましたから、そのうちの一つに、こっそりと2レプトンを捧げました。これはどちらもローマの貨幣単位ですが、1レプトンは1日の日当分に当たる1デナリの128 分の1と言われていますので62円です。そして2レプトンは1クァドランスに相当しました。ですから2レプトンと言うことは、約125円を捧げたのです。しかし、この125円が彼女の一日分の生活費全部でした。

そしてイエス様は、わざわざ弟子たちを呼び集めてこう言いました。「この女は、だれよりもたくさん入れた。みんなは有り余るものの中から献金したが、この人は貧しい中から自分の持っているものをすべて献金したからです。」と。先ほどは、イエス様は、捧げる者一人一人の心中を見ておられるということを言いました。お金持ちがたくさん捧げることも、素晴らしいことです。あの金持ちの青年は、たくさんの資産を持っていましたが、貧しい人には施していませんでした。お金持ちで、たくさん捧げる賜物のある人だってそう多くはありません。このお金持ちの人も信仰をもってたくさん捧げていたと思います。

でもイエス様はその人の心の中をご覧になられます。そこで主がご覧になられたのは、その女性が、乏しい中から自分の持っているものすべて、すなわち生活費の全部を献金したということを知ったのです。わたしでしたら、2レプトンのうち、1レプトンを献金して、残りの1レプトンを今日の生活費に充てた方がいいのではないかと思ってしまいます。自分の生活も必要です。この出来事はわたしたちに生活費全部を捧げることを勧めているお話でしょうか。

こういう出来事がありました。実際に私が見ていましたので事実ですが。ある時、お母さんと小学生の低学年の子供さんが礼拝に来られました。そして献金の時間になりました。当然子供さんはお小遣いをもっていませんでした。お母さんがお財布から、50円玉を出して子供に渡しました。献金当番の方が近づいてきました。そして、その子の目の前に、黒い献金の袋を差し出しました。後ろから見ていたわたしは、てっきりその子がお母さんからいただいた50円をその袋の中に入れると思いました。ところが、その子はその50円玉を握ったまま離さないのです。

お母さんがびっくりして慌てて、その子の脇腹を肘でつついて「早く出しなさい。」と合図をしました。当番の人も困ってしまいました。次に進めません。しばらく献金の時間が中断してしまいました。そしてちょっと時間を置いてから、その子はあきらめたらしく、フーっと方で嘆息をしながら50円玉を献金の袋に投げ入れました。もう残念でしょうがない、もったいないという気持ちが後ろの席に座っていたわたしには痛いようにわかりました。でもこの子は、本当にもったいない出したくないものを子供なりにも痛い思いをして捧げたのです。

いかがでしょうか。私たちの中にもこのような思いはないでしょうか。自分のお金ではないにもかかわらず、いったん自分の手に握ってしまうと惜しくなってしまう、もったいないなあと思ってしまうことです。このお金があったら、あれが買えるこれも買えるという気持ちが起こってきます。子供は正直ですから、差し出すことをやめてしまいました。私たちもすべては神様からいただいているものなのに、いったん自分の手に入ってしまうと自分のものだと思ってしまう。お母さんからもらったものでも、欲が出てくるのです。

ダビデは神殿建築のための献金をするにあたってこう祈りました。「すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出しただけにすぎません。・・・わたしの神よ、わたしはあなたが人の心を調べ、正しいものを喜ばれることを知っています。わたしは正しい心をもってこのすべてのものを寄進いたしました。」(歴代誌上29:14,17)

3.やもめの信仰

わたしたちが毎週こうして献金の時を持つときにも、イエス様は真ん中に座って、一人一人の心をご覧になっておられます。金額よりも、どんな気持ちで、どんな信仰をもって捧げているかです。この献金は信仰の捧げものです。私たちの信仰を捧げるのです。毎週だから形式的になってしまいがちですが、この献金の時に私たちは全身全霊をもって力を込めて主に献金する時間ではないでしょうか。主に讃美を捧げるようにして、力と信仰をもって主に献金するのです。

あれほどに生活に困っていた彼女が、どうして自分の生活費全部を神に捧げることができたのでしょうか。それはやはり彼女が未亡人だという貧しい生活の中にあっても、日々に主によって守られていたからではないでしょうか。たとえ食べ物を買うお金に窮しても、神様は必ず貧しいやもめを養っていてくださるという信仰です。今日食べるに困っても、明日はまた与えられるという信仰です。自分の貧しいぎりぎりの生活の中にあっても、絶えず神はわたしを守り養っていてくださるし、そうしていただいてきたという信仰です。

献金の50円をもらった子供が、その50円を全部献金しても、またお母さんが下さる、そういう信仰を持っていたのではないでしょうか。賜物は上から来ます。自分が手にしたものではありません。神から預かって、神様のご栄光のために用いるように託された金なのです。ですから、このお話は、わたしたちに生活費の全部を献金しなさいという例話ではないような気がします。まず神様が、わたしたちのために何をしてくださったのか、何を与えてくださったのか、そのことを思い出すことが大事ではないでしょうか。神様の下さった大きな恵みの献金に比べたら、自分の捧げる献金は比べ物にならないという信仰です。神への信仰と信頼の証しの業ではないでしょうか。周囲に対する証ではなく、神への証の業です。この献金の行為において、真実の神様と私たちの関係が問われています。

神は御子イエス・キリストを通してその十字架によって、わたしたちにご自身の命とも言えるほどの恵みを与えてくださいました。何にも代えがたい最高の宝物です。その神様の恵みの大きなプレゼントに比べれば、一日の生活費なんか取るに足らないと思ったのではないでしょうか。自分の生活費の全部以上のものを、神からいただいているという信仰を彼女はもっていたのではないでしょうか。ですから、生活費全部を入れたのではないでしょうか。「あなた方が救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それはあなた方自身から出たものではなく、神の賜物である。」(エフェソ2:8)

神様はわたしたちが、見せかけの表面的な、外形的な信仰ではなく、真実真心を込めた信仰をもって捧げることを望んでおられます。たとえそれが、125円の献金でありましても、そのわずかな金額の中にもその人の信仰が反映されているのです。すべては上からいただいたものです。神様からの恵みのプレゼントです。ですから、わたしたちもこの神様の大きな恵みに答えて、すべてを捧げてゆきましょう。信仰をもって喜んで主に仕えましょう。たとえわずか2レプトン、125円であっても、わたしたちが心からの感謝と喜びと献身の思いをもって捧げるならば、主はその捧げものを喜んで受け止めてくださいます。イエス様はわたしたちの捧げる心をそばでじっくりとご覧になっておられます。

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