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金持ちとラザロ―死後の世界― (ルカ16:19~31)

メッセージ

2012年2月5日富里キリスト教会
「金持ちとラザロ」<死後の世界>
(ルカによる福音書16:19~31)

1.はじめに

レイモンド・ムーディという有名な内科医が、1975年に「死後の生」という本を書きましたが、なんとこの本は、出版後、大きな反響を呼んで300万部も売れたというのです。彼は、「死んでから生き返った」という100人の人にインタビューをして、この本を書いたそうです。ある人は、「トンネルを通って行った」とか、「その後大きな光に出会ってから、またこの世に戻って来た」とか、「死んだ身内の者に出会った」とか、いろんな死後の体験談を調査してまとめました。このように多くの人が死後の世界に関心を持っています。私達も小さい時からいろいろと教えられてきました。しかし、みな予想の範囲を超えていません。実際に死んでみなければ解らないところがあるからです。

2.死後の世界

今朝、取り上げられましたルカによる福音書16章は、「金持ちの章」と言われていまして、三人の金持ちのお話が登場してまいります。最初は「金持ちの財産を無駄使いした不正な管理人の話」(16:1~13)、次が「金に執着するファリサイ派の人々の話」(14~18)、そして三番目が「金持ちとラザロ」(19~31)のお話です。この三つのお話を通して、イエス様は、私たちの財産の真の所有者は神様であること、そして、我々はその財産の管理人に過ぎないことを教えています。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい着物を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめていた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席についているアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」                 (ルカ16:19~23)

金持ちの贅沢な生活とは反対に、ラザロは一生貧しい生活を余儀なくされました。一生、貧しさと飢え、できものだらけという病気との戦いと苦しみの連続でした。聖書の中で、旧約聖書のヨブを除けば、これほどみじめな人生を送った人はいないのではないでしょうか。そして何よりも彼をどん底に突き落としたのは、周囲の人々の無視でした。野良犬だけが、寄って来ては彼の体をなめてあげていました。野良犬が唯一の友達でした。

しかし、ここで気づくのは、貧しい人の名前は「ラザロ」とはっきりと記されていますが、金持ちの名前はありません。おそらく、当時はこの金持ちの名前は誰でも知っていたと思います。しかし、いくら裕福でも、神の目から見た場合には、彼の名前は神には知られていませんでした。一方、貧しいラザロは、人々には知られていませんでしたが、逆に神には知られていました。はっきりと「ラザロ」(=神の助けたもう者)という名前が聖書に残されています。これは生命の書に名前が記されているということです。

この世的には、孤独で貧しくどん底のような生活ですが、神様はちゃんと彼の名前を覚えていてくださいました。ラザロこそ、その名が示す通り、「神様が助けたもう者」なのです。それは、貧しい者だからこそ、また底辺にいる者だからこそ、片時も、神の名を呼ばずには生きて行けなかったからではないでしょうか。

そして、死はいずれ誰にでもやって来ます。そして、彼らの生き方が、死んだあとの場所を決定しました。22節に「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席についているアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちは死んで葬られた。」とあります。ラザロは、死んだあとすぐに天使と一緒にアブラハムのふところに連れて行かれました。しかし、金持ちは、死んで、ただそのまま土に葬られたとあります。ここでも違いが出てきました。

更に彼らが最終的に行ったところは、金持ちは「陰府の世界でさいなまれた」とあります。陰府というのは、ギリシャ語で「ハデス」と言いますが、死者の最後の裁きの場である地獄(ギリシャ語では「ゲヘナ」)に移されるまで、留め置かれる場所です。別名、地獄の待合室と言われるところです。しかもそこは、地獄のように炎が燃え盛っていて、のどが焼けるように熱い所でした。そしてそこからは、どんなにもがいてもアブラハムの宴席に行くことはできません。

一方、ラザロは信仰の父アブラハムのすぐそばまで、天使によって連れて行かれました。ユダヤ人の場合ですとアブラハムですが、私たちの場合ですといイエス様のふところと言ってもいいかも知れません。イエス様と一緒に十字架につけられた一人の囚人が、息を引き取る直前に「イエスよ、わたしを思い出して下さい。」と言いました。すると、主が「あなたは今日わたしと一緒にパラダイス(楽園)に入る」(ルカ23:42~43)と言われたその場所です。パラダイス(=楽園)と言われるところで、静かに主の再臨を待つのです。

3.死者の叫び

この金持ちとラザロのお話は、ここで終わってはいません。さらに続きます。今までが前半部分です。後半は、じゃあどうしたら、この金持ちのように、火炎地獄のような陰府の世界に行かないようにできるかと言うことが記されています。そしてこの部分が、このたとえ話の一番言いたいところではないかと私は思います。

金持ちが行った陰府の世界は、耐え難い火炎地獄のようです。金持ちはその暑さに耐えきれず、アブラハムに向かってこう叫びました。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせて下さい。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」(16:24)と。ところがアブラハムは、「お前は生前いいものを受けたが、ラザロは悪いものを受けた。だから今ここでは、立場は逆になってラザロはいいものを、お前は悪いものを受けるのだ。おまけに楽園と陰府の世界には大きな淵があって、これを超えて行くことはできないのだ」(16:25~26)と答えました。

そうしたら、金持ちは、「自分の生き残っている五人の兄弟が、こんなところに来ることがないように言って下さい。」と言います。アブラハムは、「彼らにはモーセと預言者の教え(=旧約聖書)があるからこれに聞けばいいだろう」と答えます。すると金持ちはなおも食い下がって、「いいえ、死んだ人が行かなければ信じません。」と言います。するとアブラハムは、「たとえ死人が幽霊になって現世に行っても、モーセと預言者の言葉が書かれている聖書を読まなければ、聞いたことにはならない。」と答えました。

残念ながら、この金持ちの願いは全部却下されてしまいました。ここで、聖書は、このような苦しい所へ来ないようにするにはどうしたら良いかを教えているような気がします。それは、お金の真の所有者は神様であることを肝に命じて、生きている時に、その富を利用して貧しい人への施しをして、神様の御用のために用いなさいということです。お金に執着するのではなく、神に執着してお金を神のために用いるということです。そして、そのような信仰は聖書を読むことから始まると教えています。

4.死の淵を超えて

この聖書は、私たちがやがて行くべき死後の世界について、はっきりと明確に記してあります。千の風になるのでもありません。トンネルを通って行ってお花畑に出るのでもありません。死んだ後は、地獄に続く陰府に行くか、天国に続く楽園へ行くかのどちらかです。中間はありません。聖書は、あの陰府の炎の中でもだえ苦しんでいる金持ちの悲痛な叫び声でもあるのです。

死んでからでは、楽園と陰府の世界との間に横たわる深い底なしの淵を渡ることはできません。今のうちに、永遠の命に至る道を求めてください。いくらでも、その気になれば、誰でも真剣にこの生命の書を読むことができます。モーセと預言の書が記された旧約聖書もあります。この聖書に永遠の命へ至る道のカギがあるのです。

でも、今ならば、この天から降って来られ、肉体を取られ、十字架の上で私たちの罪を贖い、三日目に甦られた方のことを知ることができます。イエス・キリストは罪と死に勝利されました。イエス・キリストはわたしたちが永遠の命を得るためにこの世に来て下さいました。「私は道であり真理であり命である。誰も私によらないでは父の御許に行くことはできない」(ヨハネ14:6)とおっしゃいました。イエス・キリストこそ、あの楽園から陰府の世界に下りて来られたお方です。この方を通してしか天国へ上る道はありません。

今、イエス様が来られてからは、天国は一層近いことろとなりました。今は、だれでも力づくで競い合うようにして天国に入っているとあります。(ルカ16:16、マタイ11:12)今日、命の源であるイエス様を受け入れるならば、誰でも例外なく永遠の命の書に名前が記されます。そして、自分中心の生き方ではなく、神様の御心を行う生き方へと造り変えてくださいます。
(岡田 久)

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