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金の子牛 (出エジプト記32:1~14)

メッセージ

2011年9月25日富里キリスト教会
「金の子牛」
(出エジプト記32:1~14)
1.はじめに

主の御名を賛美します。
先週は、台風15号が関東を襲いました。森の木が折れて道路をふさいだり、芝生の上にもたくさんの小枝が落ちてきました。そして、ちょうど水曜日でしたので、果たして祈祷会に来てくれるだろうかと心配しました。幸い、午前中はまだ関東に来ませんでしたので嵐にはなりませんでしたが、ちょうど夕方が一番接近した時間帯でしたので、大変でした。でも、そういう時間にもかかわらず、夜の祈祷会にいつも来て下さる杉本ご夫妻と後藤姉が駆けつけてくださり感謝でした。

祈っている最中に、風の音にかけ消されながらかすかに鈴虫の泣く声が聞こえてきました。その小さな鳴き声を聞きながら、私は、「アッ、この台風は間もなくすぎて行ってしまうな。」と思いました。ゴーゴーと吹く風の合間合間にかすかに聞こえてくる虫の声です。でもその小さな声には、未来に対する希望と言いますか、確信のようなものを感じたのです。普通ですと、台風ですから、虫も鳥も鳴きません。でも、その嵐の音に負けるものかという、小さき者の小さな叫びのような気がしました。それは小さいからこそ、虫けらのような声だからこそ、逆に台風の大風に勝つような気がしたのです。

私たちの祈祷会もそうです。特に夜なんかは、出席者ゼロで家内と私だけの時もあります。自然と祈る声も小さくなってしまいます。でも、神様は大きな声、たくさんの人の声よりも、小さく弱々しい者のか細い声に耳を傾けてくださるような気がします。私たちの教会も小さな教会ですが、むしろ小さいからこそ、弱いからこそ神様が私たちの虫のような声に耳を傾けてくださるのではないかかと思います。小さくても祈りましょう。いや、小さいが故に、嵐に負けそうになるが故に真剣に必死に祈って行きたいものです。神様は、そのような嵐の中の祈りを聞いてくださるような気がします。

2.金の子牛

信仰生活の中でいろんな人生の嵐を経験します。教会にも時々嵐が襲ってきます。今回は、指導者であるモーセの姿が見えなくなるという不安でした。イスラエルの人々はこう言いました。「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、『さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。』」(出エジプト32:1)と。今まで、神様の大きな奇跡によって海を渡って救われた人々の言葉とも思えないほどの言葉です。たった40日間、モーセの顔が見えないからと言って、モーセの代わりになる神を造ってくれとアロンに言ったのです。この「神々を造ってくれ」と言った彼らの言葉に私もびっくりしてあいた口がふさがりません。こんなにも早く、人は不信仰に陥ってしまうのでしょうか。それほどに人間の心は変わりやすいものでしょうか。

この子牛の像を造るということは、自分の好みに従って鋳型を造り、されにそれを整形して、さも神のように自分たちにふさわしく、若くて力があり光り輝いている豊穣の神の姿を造ったのです。日本的に言うと、「商売繁盛、家内安全、五穀豊穣」の神です。十戒の二番目に「あなたはいかなる像も造ってはならない。」という戒めがあります。これは、神を自分好みの神に造り上げてしまうからです。祭壇の石にさえ、のみや金槌を当てて石を成形することさえ禁止しました。その十戒の戒めに反して、彼らは自分たちに必要な神々を造ろうとしたのです。そして出来上がったのが、雄の金の子牛でした。

3.現代の金の子牛

今、金の相場が上がっているそうです。資産を金に変えて持っていた方が安心だという時代です。金ほど人間を安心させ喜ばせる物はないでしょう。牛は農産物です。今日、牛に食べさせる小麦の生産とその小麦を買い求める投機的なお金が世界を支配しています。ですから、この金の子牛と言いますのは、世界を左右する農産物の生産とそれに投資する資本によって世界は動いていると言っても過言ではありません。それを支配した者が、世界を制覇できると言っても過言ではありません。

世界の金融資本と経済を第一とすること、これが金の子牛という神様です。みんなが持っていた高価な装飾品である金の耳輪がその資金源となっています。一人一人が手持ちの金を出資したのです。ですから今日でも、この世界は「金の子牛」を神様にして動いていると言ってもいいかも知れません。しかし、それは偶像ですから、いつかは必ず破綻します。そのつけを払わされて、苦い思いをするのは、金の耳輪を出した投資家であり、イスラエルの民でした。彼らも、この堕落の後、神の怒りを買い、モーセから苦い水を飲ませられます。

彼らは、十戒の二番目の「刻んだ像を造ってはならない。」という戒めだけではなく、「他の神を礼拝」し、「みだらに主の名を唱えました。」そしてさらに、「姦淫の罪」「むさぼりの罪」をも起こしてしまったのでした。十戒の一つを破ることは、全部を破ることです。そして、民は子牛を礼拝した後、飲めや歌えのドンチャン騒ぎをしました。土着の信仰に酒がつきもののように、酒池肉林の群れになってしまったのです。

4.神の怒り

このような事態を神様は、黙って見過ごすわけにはゆきません。このことを知った神は、モーセに直ちに下山するように命じました。そしてこう言いました。9節からですが、「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き留めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上っている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし,あなたを大いなる民とする。」(32:9~10)と。

神の怒りは頂点に達しました。今まで、黙って我慢してこの民を導いてきたが、実にかたくななで素直ではないというのです。彼らを全員滅ぼして、モーセとその子孫だけを、大いなる民とすると言いました。神も、堪忍袋の緒が切れてしまいました。こんなかたくな民を切り捨て、リセットしてまた新しい民を産みだそうとしました。

5.神をなだめるモーセ

このようにかたくなな民に対して、激しく憤られ、怒りを表した神に対して、モーセは必死にとりなしました。聖書を読んでいて気が付くのですが、神様は、天から人間を見ておられ、人間が不信仰なことをしますと、厳しくその罪を責め、罰を下されるような方として描かれています。それに反して、モーセは、やはり人間ですから、自分自身も時には失敗もしますが、いつも人間の側に立って、弁護してくれるような立場を取っています。もちろん神の怒りをそのまま取り次いで、厳しい罰を与えることもありますが、必死に我々の側に立って弁護してくれたり、神様の怒りをなだめたりしてくれています。

実に、モーセが神をなだめ説得しているのです。それほどに、彼は同胞に対する熱い思いがありました。このモーセのとりなしは、主イエス様が、十字架の上で「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と言った言葉そのもののような気がします。また、パウロもこう言っています。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」(ローマ9:3)と言っている言葉と相通じるものがあります。

6.御言葉を信じて、祈りつつ待つ

わたしは今回の民の偶像礼拝は、目に見える指導者がいなくなった時に、その群れはどうするかという試験のような出来事ではなかったかと思います。いつまでも、目に見える指導者を頼っていくのではなく、たとえ、その人の姿が見えなくなっても、その御言葉、教え、戒めを信じて、静かに祈りつつ待つことを教えようとしたのではないかと思います。

私たちも、このイスラエルの民と同様に、心かたくなな者です。何度も何度も失敗し、神の御心を悲しませてきました。でも、そういう経験を繰り返しながら、少しずつ成長してゆきます。彼らも40年もかかりました。そして、たとえ目に見える指導者がいなくても、自分で御言葉を読んで、祈りながら神様と共に信仰の道を歩み始めることができるようになるのではないでしょうか。御言葉が、解ってくると指導者に頼らなくても、自分でしっかりと信仰を持って判断し進むことができます。

失敗と過ちの多い者です。それでも、神様に、いつもとりなしていてくださり、神の怒りをなだめてくださるお方がおられます。それは私たちのモーセである十字架のイエス、罪の宥めの供え物として来て下さった神の子羊、御子イエス・キリスト様です。

時として、指導者の姿が見えなくなることもあります。その時、人間の競争、権力争いといった生々しい争いが起こり、無力感を感じるような嵐の中を通させられる時があります。そういう嵐の中でも、いやそういう時だからこそ、小さい私たちです。鈴虫のように、嵐の中でも神のいますこと、御心のなることを信じて祈りの声をあげて行きたいと思います。ひたすら主に向かって祈りをささげ、主の御言葉のなることを信じて、忍耐と愛と希望を持って待ち続ける者でありたいと願っています。                (岡田 久)

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