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貧しき者への味方 (申命記24:10~22)

メッセージ

2011年10月30日富里キリスト教会
「貧しき者への味方」
(申命記24:10~22)
1.担保物件は夜までには返さなければならない。

「あなたが隣人に何らかの貸し付けをするときは、担保を取るために、その家に入ってはならない。外にいて、あなたが貸す相手の人が、あなたのところに担保を持って出て来るのを待ちなさい。もし、その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない。日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることができ、あなたを祝福するであろう。あなたはあなたの神、主のみ前に報いを受けるであろう。」
(申命記24:10~13)
担保といいますのは、借金をして返せない場合に補償となるものという意味です。借金のかたになるものです。この規定では、借りる人が担保物件を家から持ってくるまで待っていなさいとなっています。自分から家に入って行って値踏みをしてはルール違反だというのです。これは借りる人の立場や人権を、一個の人間として尊重した規定ではないかと思います。

さらに、お金を借りて担保物件を銀行に置いて行った場合に、その人が貧しくてその日のうちに返せない場合には、その担保物件を夕方には返してあげなさいとなっています。おそらくここでは、ベッドや寝具といった夜着なければ寒さで凍えて死んでしまいかねない場合のことを言っています。これは寝具だけのことではなくて、その貧しい人が質草に出したものがなければ死んでしまいかねない場合には、貸した人はその人にために益を図ってやりなさいということではないでしょうか。

なぜなら、どちらも神に造られた者であり、助けてもらった人が、貸した人のために祝福を祈ってあげて、そのことによって貸した人も神の祝福を受けるからであるとしています。もし、貧しい人が、着るものがなく、食べるものがなく飢えて死んでしまった場合には、たとえ貸した側に責任はないとしても、神の祝福からは漏れてしまうということを警告しています。

自分がお金を貸して豊かになるのではなく、借りた人の感謝の祈りによって、貸した人は祝福されるというのです。イエス様もこう言いました。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。(マタイ7:12)」と。これが申命記の教えの基本ではないかと思います。

イエス様もそうでした。私たちは神様に対して罪という大きな借金を負っています。罪の負債を負っています。もし神様が、その罪の担保として私たちも持っている財産、宝物、いや自分という存在そのものを要求しようとすればできるはずです。無理やり家に押し入って来て、命よりも大事なものをもって行こうとすればできるはずです。でも、イエス様は無理矢理私たちの心の中に入ってくることはせず、表で心の扉を静かにノックされています。私たちの方から、これが私の宝物です、これが私の命より大切なものですと言って、自分自身を神の前に明け渡すのを待っておられるのではないでしょうか。

3.資本家は労働者を搾取してはならない

次に貧しい雇人と主人の関係についてみてみましょう。
「同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。賃金はその日のうちに、日没前に支払われねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。」(24:14~15)

この申命記には「貧しい雇人を搾取してはならない」とあります。いま日本の企業は、労働者に支払いを還元しなければならない富を不当に蓄えています。そして次の投資のためにマネーゲームでお金を儲けることを考えています。まさに、資本が人格を持って人間を逆に支配していると言ってもいいでしょう。競争が激しくなり、どんどん資本の蓄積と力が増して行っています。そして残念ながらもはや人間がそれを止めることができないのです。今回の原発事故もそうです。命が危ない自然環境が破壊されると思っていても、誰も止められません。お金が儲かるためなら多少のことは目をつむるという社会になって来つつあります。

聖書は別に階級制を否定しているわけではありません。雇う側と雇われる側があります。しかし、雇う側に対して、労働者には労働に見合った分の賃金をきちんと支払いなさいというルールがるのです。立場の弱い労働者を搾取してはいけないとあります。

新約聖書のヤコブ書にもこういう御言葉があります。「富んでいる人たち、よく聞きなさい。・・・畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなた方は、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて殺した。その人はあなた方に抵抗していません。」(ヤコブ5:1~6、P426)

たとえ大企業でありましても、人を雇う者でありましても、賃金を未払いにして、貧しい労働者から神様に訴えられて罪を負うようなことがあったらどうするでしょうか。彼らのため込んだ資本が、やがて裁きの日には罪の決定的な証拠として取り上げられて最後の審判を受けるとあります。

今回の100億円使い込みの事件で、父親がその穴埋めをしたということもやはり日本的なところがあります。聖書では、申命記24:16にはっきりとこう書いてあります。「父は子の故に死に定められず、子は父の故に死に定められない。人は、それぞれ自分の罪の故に死に定められる。」と。お父さんは何も弁償する必要はありません。息子の犯した罪ですから、父が肩代わりできるものではないのです。息子さんが責任を取って罪を負い刑に服せばいいことではないでしょうか。50歳になってもまだ、親の影響のもとにあり、子供のような分別のない遊びに依存してしまう。社会人としてのモラルが問われています。

これは日本の社会全体が、まだ真の神を知らないが故に縛られている呪いの一つのような気がします。50歳になってもまだ、親の影に支配されているので、一人前の責任のある社会人として成人できない日本人の未熟さと幼児性があります。これはみな、本当の神様を知らないという所から来ています。先祖に縛られ、親に縛られ、土地に縛られ、家族に縛られて来た日本人の血と肉の呪いの歴史です。

しかし、親のせいでも、先祖のたたりでも、社会が悪いのでもありません。本人が悪いのです。親が事業に失敗したからといって、妻や子供や孫まで道ずれにして殺してしまうと言った一家心中の道理はどこにもありません。罪を犯した本人自身の責任です。妻や子供や自分の親には何の責任もありません。まさに「人は、それぞれ自分の罪の故に死に定められるのです。」自分の罪の故に死に定められるのです。

そして人はそれぞれ、自分の決心によって救われるのです。親が救うわけでも、妻が救うわけでもありません。牧師が救うわけでもありません。自分の意志で決断して救われるのです。これが神の前にある責任のある人間の姿ではないでしょうか。日本人が一日も早く、一人でも多く、この日本人の血の呪いから解放されて欲しいと思います。個人の自覚と自由、それに伴う責任です。まことの神の前に立つ人間、それは沈黙してただ、神に向かうのみです。ここに日本人の真の自由と解放があります。「シェマー、イスラエル(=イスラエルよ、神に聞け!)」これが、この申命記のテーマであり、ここにこそ私たちを罪と死と呪いから救う神の力の源です。

4.貧しい者への配慮

最後に貧しき者への配慮について話して終わりたいと思います。
「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質にとってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救いだして下さったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく探してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」(24:17~22)

ここでは、寄留者や孤児の権利をゆがめたり、寡婦の着物を質にとってはならないということが定められています。先ほどの寝具や着物というのは、生活になくはならないものです。パレスチナは昼は暖かいですが、夜になると急に冷え込んで凍えてしまいます。着物がないということは、貧しい者にとっては生き死にの問題です。ですからそういう社会的に立場の弱い人に対しては、最大限の便宜を図ってやることが求められています。同じように畑に麦束を忘れたら取りに行ってはならないとか、オリーブの実やぶどうを全部刈り込んでしまわないで、木に残しておきなさいというのです。それは貧しい者の食糧となるのです。

自分が奴隷であった時のことを思い起こしなさいというのです。箴言に「金持ちと貧乏人が出会う。主はそのどちらも造られた。」「貧しい人を嘲る者は、造り主を見くびる者。」(箴言22:2,17:5)という格言がありますように、神様は両方を造られたのです。そして貧富の差はあります。しかし、一方は他方を無視したり、差別したり軽蔑してはならないのです。金持ちも貧しい人も、両方神様に造られたのですから。

3.11の大震災の時も、三陸や宮城、福島にいち早く駆けつけたのは、依然大きな震災に見舞われた山形、新潟、そして阪神の人たちでした。自分たちもそういう目にあった、だから、今回のことを誰よりも自分のこととして受け止めたのではないでしょうか。主はあなたがたもかつてはエジプトで奴隷であった時のことを思い起こしなさいと言いました。

そのような人々に対する小さな思いやりです。畑に刈り入れたばかりの束を一つ残してきたら取りに戻るな。オリーブの実を全部叩き落としてはならない。ぶどうも摘み残しがあっても、そのままにしておきなさい。たわいもないことです。でも人間はそれを残らずとってしまうことがあります。ただの一個も残しません。そういう人間の心のありようをここでは言っているような気がします。

もしそういう小さなものへの思いやりがあるならば、この社会はまだお互いの絆を持つことはできます。弱い人、貧しい人、障害を持っている人、そういう人に対する小さな心遣いが求められています。ここでは、全部、平等に同じ所得にしなさいと言っているわけではないような気がします。たとえ、貧富の差があっても、そこに人間同士の思いやりの気持ちが必要ではないかということです。収入が増えたから、土地があるから人間は豊かになるというものではありません。

富める者、資本を持っている者、雇い主であっても、かつて自分が奴隷の身分であったこと、人の憐みと支えがなければ生きて行けなかった時のことを思い出しなさいということです。主イエスもこう言っております。「はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである。」と。主は私たちのために貧しくなられました。それ故に、私たちもこの恵みの故に、貧しき者、小さき者への愛の配慮を忘れることのないようにしたいものです。                 (岡田 久)

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