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誰も神の愛から引き離されない (ローマ8:31~39)

メッセージ

2013年9月15日富里キリスト教会

「誰も神の愛から引き離されない」
(ローマ8:31~39)

1.神の愛

ローマ書8:31からを読んでみましょう。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」

今まで、パウロは神様御自身の義について語り、この神の義であるイエス・キリストの十字架を信じる信仰による義について語って来ました。そして、信仰者の罪と肉との内的な葛藤と戦いについて語り、最後には御霊の法則と祈りによって、神の愛の圧倒的な勝利を述べて、ローマ書の前半部分を終わろうとしています。いわば、ここは今までの結論部分のような箇所です。特に32節の「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」という言葉です。

すべての人は、アダム以来、罪の支配の中に置かれてきました。どんな人間も、その罪の支配から逃れることはできません。しかし、人々はその罪の現実を見ようとせずに、生活しております。罪とは、神様に背を向けて生きているということです。神に造られながら、神に愛されながら、神に背を向け、自分の罪に目をつぶって生きています。しかし、誰でも自分の今までの人生や自分の行い、自分の心の中を見てみれば、神様の前に大手をふるって出ることができるような人一人もいません。それはすべての人は罪を持っているからです。ただ、その事実に気がつかないか、認めようとしないかです。

大切なことは、自分の罪を認めて、神の前に出るかどうか。自分の行っていることを悔い改めて、神を見上げること、神の方に顔を向きなおすこと、これが信仰なのです。その時に、神様は、わたしたちの罪を責めたり、訴えたり、裁いたりすることなく、無償で赦して下さるお方です。神は、ご自分の御独り子イエス・キリスト様の上に、その怒りと罰と裁きを下され、死に渡されました。そして、その御子の死を通して、私たちの罪をことごとく贖い赦して下さいました。それが、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方」なのです。ここに神様の無条件の愛が示されました。そして、私たちは皆、その愛の中に置かれ、愛の中に生きているのです。

神は、自分の愛する一人息子を、赤の他人のしかも、ご自分に対して敵対している人のためにも与えて下さったのです。しかも「惜しむことなく」とあります。ご両親だけではなく、教会の皆さんからも愛されています。その一人息子を、十字架の死に渡されたのです。惜しむことなくです。自分の子供を赤の他人に、しかも見ず知らずの罪人のために差し出す親がいるでしょうか。

しかも、聖書は「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」と言っております。神様は、ご自分の一番大事な最大の宝物をわたしたちに与えましたから、それ以上のものを与えないはずはないというのです。親にとって子どもは最大の宝物です。自分の分身のようなものです。それを与えたのですから、それ以外の物を与えることに躊躇することも惜しむこともないはずだと言っています。御子を通して、万物をこのわたしたちに与えて下さったのです。

このようにわたしたちには、計り知ることのできない神様の大きな愛によって守られています。しかも、わたしたちの罪のために十字架にかかり、三日目に甦られた御子イエス様も、今は天に帰られ、父なる神様の右の座に座ってわたしたちのために執り成していて下さるのです。34節に「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成していて下さるのです。だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」とあります。

このようにわたしたちは、父なる神の大きな愛、イエス・キリストの罪の贖いととりなしの力、そして御霊様のうめくようなとりなしの祈りによって、取り囲まれているのです。神様が味方していて下さる。神がわたしたちを選ばれ、義として下さったのです。つまり、神の御前に罪のない者として下さったのです。このようにして、わたしたちの周りも内も外も、神様の大きな愛の内に取り囲まれているので、誰もこの私達に敵対することはできないのです。わたしたちを訴えることも罪に定めることもできないのです。このキリストの愛から、誰もわたしたちを引き離すことはできないのです。

2.神の愛から引き離されない

35節から読んでみましょう。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている。』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています。」(8:35~37)

長い信仰生活の中で、すべてがすべて順調に行くわけではありません。人生山あり谷ありです。クリスチャンだからと言って、すべてがうまくゆくわけではありません。突然、想定外の予想もしなかった患難が起こって来ます。

あの旧約聖書に登場するヨブという人ほど、この世のあらゆる患難と不幸を受けた人間はありません。更にヨブは、サタンの仕業によって、頭からつま先までひどい皮膚病にかかりました。踏んだり蹴ったり、悲惨な人生を送ることになりました。彼の妻でさえ、「神を呪って死んだ方がましです。」とヨブを責めました。そういう人生の苦しみの中で、ヨブは神に向かって問いかけます。「なぜ、信仰ある者が、こんな苦難に会わなければならないのですか?」と。その神への問いかけを書いたのがヨブ記なのです。

しかし、ヨブは最後の最後まで、神に問いかけ、神に釈明を求め、生涯どこまでも神に向かい問い続けました。そして、とうとう最後に、神様御自身がヨブと出会って下さって、ついにヨブは神の前に降参します。「何故、どうして?」という訴えの答えを見出しました。それは、神は神であるということです。神様は、どこまでも正しく義なる方だということです。その神の前にわたしたちはただ、天を仰いでひれ伏すしかないということを悟りました。このような多くの試練と患難を通して、神様御自身がヨブと出会って下さったのです。神様との出会い、これこそ私たちの人生の苦難の唯一の答えなのです。

神様が存在する、神様がおられる、神様が私たちの味方である。わたしたちを決して見捨てはしないということです。神様は絶対に、私たちを見捨てられないということです。たとえ、親に裏切られても、兄弟に友人に裏切られても、あるいは恋人に裏切られても、たった一人の孤独を経験しようとも神様だけは私たちの味方なのです。人を見れば、確かに裏切られ、不信感にさいなまれるかもしれませんが、神を見上げるなら大丈夫です。

人生の様々な試練の中で、私たちは必死に祈ることを教えられます。苦しいけれども呻きながらでも、神様に寄りすがって祈ることの大切さを教えられます。そして、この祈りを通して、ますます神様がいつもそばにいて下さり、万事を益として下さるお方だということが解って来ます。御霊様もイエス様も、一緒になってわたしたちのために執り成ししていて下さいます。

ですから、たとえ患難の中で希望を失いかけるようなことがありましても、私たちには、神様からの魂の救いという確かな約束をいただいております。ですから、私たちには、この祈りを通して、信仰を通して輝かしい勝利の栄光の中に置かれているということが解るのです。「神は愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように働く。」(8:28)のです。

このように神様の愛が、今わたしたちに迫っています。神様の愛がいつも私たちの周りを取り囲んでいます。神様が私たちといつも共にいて下さいます。わたしたちの味方です。そして勝利を賜って下さいました。誰も、このイエス様を通して示された神の愛からわたしたちを引き離すものはありません。(岡田久)

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