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試みに会わせず、悪より救い出したまえ (ヤコブ1:12~18)

メッセージ

2015年3月1日富里キリスト教会

「試みに会わせず、悪より救い出したまえ」
(ヤコブ1:12~18)

1.試練は人生の常である

この世の試練として会社の倒産とか、失業、病気、離婚、家族の死とかクリスチャンではなくても人生のいろんな試練はありますが、教会の試練というのは、思いがけない時に突然起こったりします。一週間の休暇から帰って来たら、教会の雰囲気がガラッと変わってしまったとか、ある日突然、数名の信徒の方が他の教会に集団で移って行くとか、あるいは手の付けなられない人が入って来て教会の中を荒らしまわるとか、異端の教えがいつのまにか教会中に蔓延してしまうとか、いろんな目に見えない霊的な混乱とサタンの攻撃が突然起こって来ることがあります。

言えることは、試練の無い信仰生活はありませんし、試練の無い教会もないということです。試練は教会の常であり、信仰生活においても必ず起こります。
ですから、信仰生活を送る者は、そして送ろうとする者は、この試練と誘惑があるということ、そのこともセットで受け止める覚悟が必要ではないでしょうか。榎本先生もこう言っています。「今日、わたしが神を信じ、聖書の御言葉に立って生きて行こうとすると、たちどころに様々な苦しみや悩みがやってくる。これが試練である。この試練の中で最大のものは、『なぜ自分は、一生懸命信仰生活をしているのに、信仰していないものと違いがないのだろうか』と思うことである。」と。

つまり信仰に入ったら、もっと幸せな生活、喜びの生活が送れるはずなのに、なぜこんなに試練や苦しみが続くのだろうかという疑いが生じて来るのです。そして、そこに何の解決も光も見出すことができずにいることに、納得がゆかないということはないでしょうか。本当に神はいるんだろうか。いるなら、この私の現状に答えて下さいと叫びたくなります。

2.試練を喜ぶ

しかし、この世の試練と信仰者の試練との違うところは、試練には意味があるということではないでしょうか。私たちの出会う試練には、神様の意図と御計画があるということです。ですから、ヤコブの手紙の1:2~4にこう述べられています。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」また1:12でも「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」とあります。

この手紙を書いたヤコブは、イエス様の兄弟だと言われていますが、離散しているイスラエルの十二部族に宛ててこの手紙を書いています。昔も今もユダヤ人ほど、人類史上大きな試練に会った民族はないのではないでしょうか。しかし、主の兄弟ヤコブは、試練に会った時には喜びなさい、しかもこの上ない喜びと思いなさいと言っています。最高の喜びだと思いなさいということです。

そして最終的には、試練を通して私たちの心の中の不純物が溶かされて取り除かれ、純粋な信仰となるからです。箴言の言葉に次のような有名な言葉があります。「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主。」(箴言17:3)「銀から不純物を除け。そうすれば細工人は器を造ることができる。」(25:4)「かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛するものを懲らしめられる。」(3:12)と。

神様は、私たちの心の中の不純物をご覧になり、それを試練という炉をもって熱し、溶かしながら、不純物を取り除いて、純粋な材料に精錬して下さるのです。それは一点の曇りもなく主に従うという信仰です。そうしてから、御自分の手で細工を施して、主の働きの道具として整えて下さるのです。その研修期間が試練の時なのです。ですから、十分にその懲らしめを味わいなさい。特に若いうちにそのような懲らしめの時を経験しなさいと言っています。(哀歌3:28~33、40~42・旧P1290)

そして心から主の前にへりくだり、自分の罪汚れを思い知り、心から悔い改めることによって、純粋な信仰へと造り変えられてゆきます。それがクリスチャンの経験する試練の意味です。そして、真実なるお方である神様の前に立ち返って行くことです。

3.神の試練とサタンの誘惑

さらにヤコブは次のように言っています。試練と誘惑とは違うと。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:13~15)

神が人間を誘惑したり、誘惑させたりするのではありません。神はただ、サタンに人間を試すことを許されました。ヨブの場合にも財産、健康までは手を付けることを許しましたが、命に手を触れてはいけないと言いました。サタンは、その持てる悪の力を最大限用いて、人間を誘惑します。そして、神の御言葉に背かせ、最終的には人間を神から引き離してしまおうとします。サタンの誘惑です。

しかし、神はどこまでも真実な方です。私たちを愛してやまない方です。神を誘惑する悪者のように考えるべきではありません。私たちは試練を通して、ますます神の前にへりくだり、神を畏れ、神の御言葉に忠実に聞き従うものとなることを願っておられるのです。ヤコブ1:21~22にこうあります。「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」と。これが試練の意味ではないでしょうか。

ではなぜ、「試みに会わせないでください。」と祈るのでしょうか。むしろ「試みに勝利させて下さい」と祈るべきではないでしょうか。試練は人生の常なのに、それに会わないようにして下さいと祈るのは何故でしょうか。それは、皆さんも経験されていることと思いますが、正直言いまして、信仰生活の試練ほど苦しいものはありません。その試練の渦中にある時には、気が動転し、自分を失い、神をも恨み、どうしていいか分からず本当に苦しい時を過ごすからです。誰でも、そのような時をもう一度与えてくださいとは正直言って祈れないのではないでしょうか。

私たちは試みに会ったからこそ、「試みに会わせないでください」と祈るのではないでしょうか。自分の弱さをいやというほど思い知らされたからこそ、もう二度とあのようなことに合わせないでくださいと祈るのではないでしょうか。サタンの誘惑や攻撃は、熟練しています。何千年も人間を誘惑して騙してきたわけですから、どんな信仰者といえどもまともに立ち向かって勝てる相手ではないような気がします。それよりも、サタンの誘惑に遭わないように、自分の心の中に偶像礼拝や様々な欲望を抱え込まないようにすることが大事ではないでしょうか。

「人は自分自身の欲望に引かれ、唆されて誘惑に陥るからです。」ですから、常日頃から自分の心の中を点検し、告白して悔い改めるべきことがあれば直ちに悔い改めるべきです。そしてその悪から離れることです。パチンコの誘惑に負けられない人は、絶対にパチンコ屋のそばを通るべきではありません。信仰があるからと言って、わざわざその店のそばを通る必要はありません。それだけ私たちが強いとは限らないからです。誘惑の場所を避けるべきです。

この第六の祈りは、主の前に常に、罪の誘惑に対する自分の弱さを認めて、そのような場面に遭遇しないように、またそのような場面に出会わないように、細心の注意を払いつつ、絶えず主の導きと助けを求めて行く祈りではないかと思います。また、たとえ誘惑の罠に陥ってしまっても、そこから自分の罪を告白し、非を認めるならば、主は直ちに来て下さり私たちを罪から聖めて、以前の自分に戻して下さいます。

あの部下を殺し、その妻を自分のものにして大罪を犯したダビデでさえ、主の前に罪を認めて、心から悔い改めたので即座に罪が赦され、元通りに回復させていただきました。私たちはダビデよりももっと信仰の弱いものです。ですから、そのような試練に会うことが無いように、絶えず主に助けを求めて祈って参りましょう。「我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。」と。

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