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記念の十二の石 (ヨシュア記3:5~6、9~13、4:4~7)

メッセージ

2011年11月13日富里キリスト教会
「記念の十二の石」
(ヨシュア記3:5~6、9~13、4:4~7)
1.自分自身を聖別せよ

今日の聖書の個所は、いよいよイスラエルの民が、ヨシュアに率いられて約束の地カナンに攻め入ろうとしている場面です。これから戦いに臨もうとしている者にとって大事なことは、まず自分自身を聖別することです。読んでみましょう。

「ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した。三日たってから、民の役人は宿営の中を巡り、民に命じた。『あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。』ヨシュアは民に言った。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」ヨシュアが祭司たちに、『契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ』と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。」(ヨシュア3:1~6)

戦いに行く前にまず自分自身を聖別しなさい、と命じました。私たちが心の中に罪を悪意や怒りを持ったままでは、戦いに行けないというのです。自分自身を神に献げ、聖別しなければなりません。なぜなら、それはこの戦いは、私たちの戦い、イスラエルの民の戦いではなく、神の戦いだからです。私たちが戦うのではなく、神様が戦って下さるのです。

自分自身を聖別するということは、罪やどうしようもない悪習慣から離れることです。また、心の中に怒りやわだかまりを持っているならば、それを主の前に悔い改めることです。その時、聖霊様が働いて不思議なことをしてくださいます。覚悟を決め、腹をくくって相対して謝罪をしなければなりません。自分では嫌だと思っても、聖霊様がそのように働いて下さるのです。聖霊様と御言葉に逆らうことができません。これも、コリスチャンの恵みの一つです。神と自分との間の溝、自分と誰かほかの人との溝、これが、約束の地を目の前にして横たわる大きな川なのです。

私たちが主の前に悔い改めの祈りをし、聖霊様の導きをお願いするなら、不思議なことを神様はしてくださいます。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」という御言葉の通りです。

2.契約の箱が先に川を渡って行く

ヨシュアは、イスラエルの民に「契約の箱をレビ人が担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。」(3:3)と言いました。罪や汚れを持ったままでは、約束の地に攻め込むことはできません。まず、自分自身を聖別することです。そのためには、自分が攻めて行くのではなく、まず、神の契約の箱が先に進むのです。契約の箱には、モーセがシナイ山で神から受けた十戒の石板が入っています。つまり、神様の御言葉です。この神の御言葉が先に行くのです。この神の御言葉に従うかぎり、この後について行くかぎり、私たちは敵と戦うことができるのです。契約の箱の先に出てはいけません。

ヨシュア記3:9から読んでみましょう。「ヨシュアはイスラエルの人々に、『ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け』と命じ、こう言った。「生ける神があなたたちの間におられて、カナン人、ヘト人、ヒビ人、ぺリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人をあなたたちの前から完全に追い払って下さることは、次のことであ分かる。見よ、全地の主の契約の箱が、あなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。今、イスラエルの各部族から一人ずつ、計十二人を選び出せ。全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」(3:9~13)

11節のところの「見よ、全地の主の契約の箱があなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。」とあります。つまり、神の御言葉が先に進むということです。イスラエルの戦いはいつもそうです。人の戦いではない、私たちの戦いではない、神の戦いなのです。自分自身の内にある罪との戦いかも知れません。ですから、まず先に神の御言葉が先にならなければなりません。自分を聖別するということは、別な言い方をしますと、自分自身との戦いであり、神の御言葉の前に自分自身を明け渡し、降参し、委ねて従うということです。

聖書がこう言っているから、神様が語られるから渡るのであり、その神の御言葉なしには川を渡ることができません。御言葉が先に進むから、私たちはその後を行くことができるのです。しかも、契約の箱と部隊との間は二千アンマの距離を取らなければなりません。御言葉と私たちの間に二千アンマ、すなわち約900メートルの間を置いて従うことです。これは御言葉とも距離を取って、御言葉が先だということをはっきりさせるということです。時には御言葉が先になり、時には自分が先になってしまわないように、常に一定の距離を保たなければなりません。

先週の週報にも書きましたが、イエス様と一緒に航海した弟子たちは湖の途中で嵐に会い、あわてて寝ているイエス様を起こしました。すると主は「あなたたちの信仰はどこにあるのか。」とおしかりになりました。そうです。イエス様を眠らせてはいけません。いつもイエス様に祈って、イエス様が舟という教会の先頭に立って進んでくださるようにお願いしなければならないのです。(「嵐を静めるイエス」・マルコ4:35)神の救いの契約の御言葉であるイエス・キリストを、部隊の先頭に立てるのです。イエス様を眠らせてはいけません。

3.十二の石を立てる

最後に、この川を渡る時に大事なことは、教会が一つになっていることです。ヨシュアは、主から一つのことを命じられていました。それは、各部族から一人ずつ出して、ヨルダン川の川床にある石を一個ずつ拾わせ、それを川のこちら側と、川の真ん中と、川の向こう岸に立たせたことです。これは後になって子供たちが、この石は何ですかと尋ねた時に、ヨルダンの流れを主がせき止められたことを記念したものであると答えるようにされました。

これは、イスラエルの民十二の各部族が一つになるということの大切さを表しています。一つの群れが、深くて大きな川の流れを渡るということは大きな冒険でありチャレンジです。時には、命の危険が伴います。群れの中にいるのは、頑強な兵士だけではありません。女性や子供お年寄りもおります。弱い人も病人もいるかもしれません。こういう人々をかかえた群れが、この深い流れの激しい川を渡るということは、命がけのことでした。

私たちもそうです。川を渡ろうとする時には、いろんな妨害やサタンの攻撃があります。しかしその川を通らなければ向こう岸に行けないのです。そのためには、御言葉を先行させて、御言葉に従って行くということと、群れが一つになるということが大切ではないでしょうか。この十二個の石は、イスラエルの民が一つだということを意味しているのではないかと思います。十二の部族が一体となっている時に、私たちはどんな流れの激しい川でも、どんなに深い川でも、互いに力を出し合い、肩を寄せ合って一体となって行くところに、敵の攻撃をも打ち破る力があるのではないかと思います。

私たちは弱いですが、主が戦って下さる、契約の箱を担いだ祭司が川の流れの中に足を踏み入れた途端に、川の水の流れが止まって川上の方に水の流れがうずたかく盛り上がりました。そして祭司が必死に、箱を担いで川の真ん中に立っている間、流れは止まり、川底が現れ、その乾いたところを通って、イスラエルの民は全員渡り終えることができました。

このヨルダン川を渡るということは、神様は私たちに三つの一致の大切さを教えていると思います。一つは、御言葉による一致です。そして、二番目は祈りにより一致、そして聖霊の交わりによる一致、各部族の違いを乗り越えて、互いに一つとなって行くことです。これが大きな力を発揮するのではないでしょうか。人数の問題や予算の問題ではなりません。人がたくさんいればできるとか、お金があればできるということでもありません。それぞれ、異なる石がお互いの違いを乗り越えて、御言葉によって、祈りによって、御霊の交わりによって一つとなって行くこと、ここに勝利の秘訣があるような気がしてなりません。                           (岡田 久)

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