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言は肉となった (ヨハネ1:14~18)

メッセージ

2015年12月20日富里キリスト教会

「言は肉となった」
(ヨハネ1:14~18)

1.命と光の言

今月はアドベントを迎えながら、ずっとヨハネによる福音書の1章からイエス様の誕生について語ってまいりました。そして今日はそのクライマックスでもあり、聖書の中で最も大事な言葉と言われているヨハネ福音書1:14の御言葉を中心にしてクリスマスの出来事に思いをはせてみたいと思います。「言は肉となって、わたしたちの内に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)

「言」と言いますのはキリストであると学びました。このお方は、天地万物の初めからおられ、父なる神と共におられ、そして御自身も神であられ、天地万物を創造された方です。そしてこの言であるキリストの中には命と光があり、この光はすべての人を照らす真理の光であるということを学びました。しかし、人々はその行いが悪いためにこの光のもとに来ようとはしませんでした。(ヨハネ3:19~21)

初めからおられ、神と共におられ、神御自身でもあり、世界を創造された言であるキリストは、肉体を取ってこの世に来て下さったのです。神が肉体を取ってこの世に来られるということは、当時の哲学でも他の宗教でも考えられないことでした。神がこんな汚れた人間の肉体を取るはずがない。神がこんな朽ちてしまうような人間の体を取ってこの世に生れ出るなんてことは考えられないことでした。しかも、普通の女性の胎を通して10か月間の妊娠期間を経て、わたしたちと同じようにして生まれ出たのです。そしてさらに「私たちの間に宿られた」とあります。ナザレの大工ヨセフと妻マリアの長男として生まれ、この歴史の真っ只中に実在して下さったのです。そして、ナザレで神と人に愛されて、神でありながら人間として成長しました。(ルカ2:40,52)

ヨハネは「わたしたちはその栄光を見た」と言っています。そしてその栄光は「父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」と記しています。イエス・キリストは肉体を取ってわたしたちと同じような姿で、この世に生を受けました。でもその姿は父なる神の独り子としての栄光に輝いていました。その栄光の光をヨハネは見たのです。肉を取って来られた神であるキリストの光は、決して人を恐れさせたり、目を見えなくしてしまうような栄光の光とは違っていました。誰でも見ることができるのです。確かにキリストの最後の十字架の姿は、見るすべもない無残な憐れな最後でした。でも人々は、そこに神の独り子イエス・キリストの栄光の姿を見たのです。その姿は、人々の罪を悟らせ、悔い改めに導くものでしたが、決して人々を裁くものではありませんでした。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである。」(3:16)とあります。なぜなら、その栄光の光は「恵みと真理に満ちていた」からです。わたしたちのための恵みの光だったのです。

2.受肉された言は、恵みと真理に満ちていた

A)恵みの充満

恵みに満ち溢れていたとはどういうことでしょうか。16節に「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」とあります。マリヤの胎を通して、肉体を取られた神の御独り子イエス・キリストは、神の恵みと真理でいっぱいのお方でした。「恵みが満ち溢れる」と言うことは、神様からの一方的なプレゼントのようなものです。罪人のわたしたちが受けるに値しないものですが、神様の恩寵と恵みによって、最高のプレゼントを無料でいただくようなものです。プレゼント交換で、一番欲しかったものに当ったようなものです。しかも、その欲しかったプレゼントの品物のポケットの中に、更に当たりくじが入っているようなものです。これでもかこれでもかとわたしたちに贈り物が与えられることです。これが「恵みに満ちていた。」「キリストの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けた。」(1:16)と言うことです。

もう少し具体的に申しますと、どうしてこんなに一方的に与えられるのでしょうか。わたし達は今年は教会学校で旧約聖書を学んできました。イスラエルの民を率いたモーセは、指導者としての苦労をしながら、民を約束の地まで導きました。途中で人々は何度も文句を言ってリーダーのモーセを困らせます。とうとうモーセも最後は、堪忍袋の緒が切れて怒ってしまいます。そして約束の地にモーセも入れなくなってしまいました。そしてようやく立てた王国でも、彼らはまた心をかたくなして預言者に逆らいます。そして最後はとうとう、せっかく築き上げた王国も、その誇り高ぶる民の罪の故に滅ぼされてしまい、人々はバビロンへ捕囚となって連れて行かれます。

やってもやって、説得しても説得しても人々は神に逆らい続けて来ました。それがイスラエルの歴史です。旧約聖書のメッセージです。そのような不信仰の民に向けて、最後の手段として神様が取った決断と言うのが、この御子の受肉なのです。御自分の独り子であるキリストを、肉を取らせて人間と同じ姿をさせてこの世に送ったということです。そしてこのご自分の一人子を人間の罪の贖いの子羊として十字架に献げると言う決断をされました。そして御子の十字架の苦しみと死を通して、神様は今までの罪をすべて赦す決断をされたのでした。それは人間の行いによってではなく、律法の遵守によってではなく、どうしようもない人間をただただ神の恵みによって、一方的に無条件に赦すことを決断したからです。これが神様の恵みの決断です。

神様の側から和解をして下さり、神様の側から人間の犯した今までの一切の罪の代償を支払って下さったのです。この神様の恵みの赦しは、御子なるキリストが肉体を取ってくださらなければ、私たちの罪の身代わりになることができませんでした。キリストがまるで天使のような霊的な存在として、地上の肉を取らなかったら、わたしたちの肉体の中の罪の身代わりになることができたでしょうか。キリストが肉を取ってくださったからこそ、わたしたちの弱さや失敗や病いや痛みを知ることができたのではないでしょうか。キリストは私たちと同じ肉を取って、母の体を通してこの世に来て下さいました。

それはすべて肉体を持っている人々を、その肉の罪の支配から贖い出すためでした。人間の心の肉の思い、人間の体の肉の思い、社会の肉の思い、国家の肉の思い、宇宙の肉の思い、これらはすべて自分中心のこの罪の世界です。その自分中心と言う肉の罪から、わたしたちを解放するために、キリストは同じ肉体を取られたのです。肉の罪の支配からわたしたちを解放し自由にするために、同じ肉を持って来て下さり、御自分の肉の上でこの世の一切の罪を裁かれたのです。そしてわたしたちが一人残らず、神に立ち帰るようにして下さいました。

ですからイエス・キリストのもとにあるものは、もはや罪に支配されません。たとえ罪を犯すようなことがあっても、たとえ失敗や過ちを犯すようなことがあっても、子羊の血がわたし達を常に聖めて下さいます。そして罪を悔い改めるならば、いつでも新しく造りかえられ、生きる者として下さるのです。これが信仰です。恵みによって与えられた私たちの信仰です。

B)真理の御言葉

最後に神の恵みと真理は、この御子イエス・キリストを通して私たちに現されました。17節に「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父の独り子である独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:17~18)

人間はキリスト誕生の日まで、神を見ることができませんでした。神を見た者は死ななければなりませんでした。しかし、キリストが肉体を取ってこの世に来られたので、このイエス・キリストを通して初めて目に見えない神そのものを、恵みとして見ることができるようになったのです。旧約の民や預言者が長い間待ち望んでいたことでした。この世に来られた神そのものであるお方が、あのナザレのイエス・キリストでした。御子はその生涯を通して多くの御言葉と御業をなさいました。それは神御自身を、人間の目に御言葉としてはっきりと示すためでした。この神の真理を記したのが、この聖書です。この聖書は受肉した神の言葉なのです。真理が詰まっています。

その神の本音とも言われるキリストは、神の子羊として十字架に架かり、そして三日目に復活して、神の栄光を現されました。このキリストの御言葉と御業を通して神御自身を私たちに示されたのです。このイエス・キリストの業と言葉に、神の真理が余すところなくあらわされました。ですから誰でもこの聖書を読めば、神がどんなお方であるかを知ることができます。それが「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子なる神、この方が神を示されたのです。」とあります。キリストの誕生とその御言葉を通して神はご自身を、わたしたちの目の前にはっきりと示して下さいました。キリスト・イエスなしには誰も神を知ることはできません。これが神の啓示としてのキリストです。

ここに私たちが探究すべき、真理があるのです。哲学的な問い「真理とは何か?」。生物学的な問い「生命とは何か?」。物理学的な問い「光とは何か?」。宇宙的な問い「宇宙の起源は何か?」。それらの問いの答えはすべてこのイエス・キリストの中に存在するのです。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」(コロサイ1:15~17)

イエス・キリストこそ神の真理そのものであり。神の本質そのものです。そしてこの神の恵みと真理はすべて、イエス・キリストを通してわたし達に向けられたのです。1:12にこうあります。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(1:12)とあります。この恵みと真理に満ち溢れたキリストを受け入れた者には、神の子となる資格が与えられるのです。キリストを信じると言うことはまず、このお方を受け入れることです。プレゼントをいただくようにして、素直に受け止めて心の中にキリストをお迎えするだけでいいのです。これが新しく生まれ変わるということです。

そのように導いてくださるのは聖霊様の働きです。神の霊は自由に吹いて来ます。誰でも、この聖霊なる神の風に顔を向けるならば、真理を受け入れることができます。今は恵みの時、救いの日です。誰でも主の前に立ち上がるならば、主の光がその人の心の内を照らして下さり、真理を悟らせて下さいます。このクリスマスの良き日、皆様と共に主の恵みに満ちたお顔を見上げて心から賛美し礼拝をして行きたいと思います。  

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