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言が肉となった (ヨハネ1:1~18)

メッセージ

2011年12月24日富里キリスト教会イブ燭火礼拝
「言葉が肉となった」
(ヨハネ1:1~18)
1.言(キリスト)は神である

聖書の言葉を見てみましょう。ヨハネによる福音書1:1~3節までをもう一度読んでみます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1:1~3)

少し厳かな、そして難しいような文章ですが、この中にある「言」というのが、実はキリストという意味です。これはヨハネという人が、現代人に解りやすく、当時のギリシャの哲学的な言葉を使って描いたものです。もともとは、言は「ロゴス」というギリシャ語ですが、これは世界の原理とか理性、起源という意味です。ですから、ヨハネはキリストのことを哲学的に解りやすく言い換えて「言」という言葉を使いました。日本語では言(ことば)と訳されています。

ですから、この聖書の言葉を言い換えますと、「初めにキリストがあった。キリストは神と共にあった。キリストは神であった。」となるわけです。つまり「キリスト様は、天地万物の初めから存在しておられ、神様と共にいて、神様であった」というわけです。

それでは、一緒にいたこの神様とは誰のことですかとなるわけですが、このお方も神様で私たちは「父なる神様」と読んでいます。「エッ、じゃあ神様は二人おられたのですか?」とびっくりされる方もおられと思いますが、驚くなかれ、二人ではなく、三人おられるのです。よく三位一体の神と言われますが、実は神様は三人おられ、このお三方が一体だというのが、聖書の言っている神様です。

父なる神様と御子キリストなる神様、そして聖霊なる神様です。このお三方が神様です。三位一体の位というのは、位置という意味です。場所、あるいは働きを示しています。それぞれ働きが違うということです。働きは違いますが、一つであり、一体となって働かれる、絶対に離れない。これが一体ということです。父なる神様は、御座におられ、そこからキリスト様が遣わされました。それが、今から二千年前のキリスト誕生の出来事です。今まで目に見えなかった神が、肉体を取ってこの人間の現実の世界に一人の人間として来て下さったのです。このお方が、イエス・キリスト様なのです。(!:18)この時初めて、イエスという名前を父ヨセフに付けていただきました。

2.言(キリスト)が肉となった

子なる神様であるキリスト様の役目は何かと言いますと、御父の御許を離れて、この世に下り、私たちと同じ肉体を取ることでした。そして、地上での生涯の最後には、その肉体を持って全世界の罪を取り除くために、ご自身を十字架の上につけられ、私たちの罪の身代わりとして死んでくださり、この十字架の贖いという働きまっとうするためだったのです。これがキリストがこの世に肉を取って来られた理由です。

愛する我が子を地上に遣わされる父なる神様の思いは、いかばかりかとお推し申し上げます。天の父なる神様は、それだけこの世を愛され、いとおしまれたからこそわが子を手放し、罪のいけにえの犠牲として独り子をこの世に送りました。この目に見えない天のお父様の心を、この地上に現して下さり、父である神様の思いを私たちに知らせてくださったのが、独り子なるイエス・キリスト様です。この方の生涯とその最後の十字架の姿を見れば、どんなにか神がこの世を愛しているか、また私たちを救おうとされているかが解ると思います。

それが、この14節と18節の言葉です。「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

今まで、神様を見たものはまだ一人もおりませんでした。でも、この肉体を取ってこの世に来て下さった子なる神様を通して、この方の生涯、その言葉行いを見ることによって、私たちは初めて、目に見えない天の神様を見ることができるのです。この聖書に記されたイエス・キリスト様の生涯を通して、神様がどんな方であるかが解るのです。それは誰でも読めば分かるように書いております。お経のように崇高な言葉でも、哲学的に難解な言葉でもありません。

この肉を取って来て下さったイエス・キリスト様の中には、神様の恵みと真理が満ちていました。また、先ほどの4~5節には「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。この肉体を取って来られたイエス・キリスト様の内には命がありました。そしてその命は人間を照らす光でもありました。しかし、残念ながら世の人々はそのことを理解することができませんでした。

3.言(キリスト)は救いの光として来られた

2011年、今年私たちは、人類史上かつて経験したことがなかった恐ろしい災害を経験いたしました。マグニチュード9という巨大地震、そして東北地方を襲った大津波です。蓮沼公園のある九十九里の砂浜にも波が砂浜を超えてきました。私は今でも、小さな地震が起こると大地震が来るのではないかと、恐怖を覚えます。そして原発事故です。地震の後に計画停電がありました。道路の信号機の電気も消えて、このあたりが真っ暗闇になりました。ガソリンが無くなり、店頭からは食料や懐中電灯も消えました。教会にはローソクの買え置きがあるかと思ってもらいに来られた方もあります。

あんな暗闇を経験したことはありませんでした。灯りが町から無くなっただけではありません。津波の被害に会われた方、そして今なお原発事故で避難されている方。家を流され、家族を失い、仕事を失い、全くの希望をなくしてしまっておられる方々がいます。

本当に、先の見えない真っ暗闇の中に今も置かれている人々がいます。そして、私たちもこれからどうなるのか、先行きが見えないような時代を迎えました。でも、そういう暗闇の世界に、神であるイエス・キリストが肉体を取って来て下さいました。神が肉を取って、私たちと同じ苦しみや悲しみを味わって下さったのです。肉を取られた神は、天におられて静かにこの世を見下ろしておられるお方ではありません。あの十字架の上で、叫び声をあげ、苦しまれ、この世の罪のために、ご自身の肉体の苦しみを持って贖って下さったのです。ヨハネによる福音書1:4にはこのお方の中には命と光があったと記されています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1:4~5)と。

既に本当の命であり、本当の光であるお方がこの世に来て下さったのです。たとえ、大きな災害で、すべてのものを失ったとしても、この命であり光であるお方が、二千年前にこの世に来て下さったのです。この富里にも三陸にもです。そしてこの方を信じるものには、まことの命である永遠の命を約束してくださいました。

これは神様からの無償のプレゼントです。このプレゼントには、私たち人間が生きて行くための本当の命があります。生物的な命とか医学的な命ではありません。死んでからも続く永遠の命です。そしてこのキリストの内に命があり、この命は、すべての人を照らす真の光であります。聖書では、この世は暗闇だと言っています。その暗闇の中で、みんな悲しみ、苦しみ、悩み、うめきつつ悪戦苦闘して生きています。しかし、聖書はこの暗闇の中に光は輝いていると言っています。ロシアの文豪ドストエフスキーは、自分の苦しい牢獄での体験でこう言っています。「人間は、一条の光があれば生きることができる」と。

今、神のもとからこの世界に、一条のまことの光が来て下さり、ここに届いているのであれば、どんなに闇が暗くても、また先が見えずに不安が目の前をふさいたとしても、人は生きて行けるのではないでしょうか。あの計画停電の真っ暗闇の中で、たった一つのローソクの炎の明かりを見ながら、不安な夜を過ごされたのは私だけではないと思います。でもこの闇の中に輝いている、一条の光を見つめて行くならば、暗い夜も過ごすことができました。今、この光は闇の中に輝いています。

12節~13節に「しかし、言(キリスト)は、自分を受け入れたひと、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は血によってではなく、肉の欲によってでもなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

この肉体を取ってこの世に来られた言(ロゴス)である神、イエス・キリスト。この方を受け入れた人、すなわちこのお方を信じた人には、誰でも例外なく神の子となる身分を与えてくださるのです。この暗闇の世界を照らすイエス・キリストの福音(ゴスペル)を聞いて、この方を心に受け入れるならば、その罪が赦され神の子とされ、誰でも例外なく永遠の命をいただくことができると聖書は告げています。これが福音です。ゴスペルです。よい知らせ、グットニュースです。「言が肉となった」というクリスマスの出来事が、全世界のすべての人々の喜びなのです。これがクリスマスを祝う理由です。改めて皆様に、クリスマスのこの大いなる恵みのプレゼントの故に、「おめでとうございます。」と申し上げまして、終わらせていただきます。         (岡田 久) 

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