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言が肉となった (ヨハネ1:14~18)

メッセージ

2014年12月21日富里キリスト教会クリスマス礼拝

「言が肉となった」
(ヨハネ1:14~18)

1.言は、神であるキリストをさす

ヨハネによる福音書の1:14に衝撃的な言葉があります。聖書では「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」とあります。この「言」というのは、当時ヨハネが異邦人世界、特にギリシャ人に解るようにと当時の哲学用語を用いて、ユダヤ教のメシヤ、キリストという言葉を、言=ロゴスという言葉で表現したものでした。日本語では「言」となっていますが、この1章に出て来ます「言」という言葉は、全部キリストと置き換えて読むことができます。哲学では、このロゴスを「永遠の理性」とか「世界の原理」として捉え、いわば神のような存在と考えて来ました。このロゴスという言葉をヨハネは、キリストを表す言葉として用いたのでした。

ですから、このヨハネの1:1の言葉を「初めにキリストがあった。キリストは神と共にあった。キリストは神であった。」と言い変えてもいいわけです。
ヨハネはロゴスであるキリストはどういう方かということを、1:15の中で説明しています。そこには「初めからおられた方」(1:1)、「神と共におられた方」(1:1)、「神であられたお方」(1:1)ということが述べられています。また、万物を創造された方でもありました(1:3)。そしてこの言なるキリストの内には命と光があり、このお方は闇の中に輝いておられる方でした。(1:4~5)

まさに永遠に存在しておられ、この世界が造られる前からもおられ、神そのものでもあり、天地万物を創造され、命と光をもって闇に輝いておられるお方であったのです。これが、神なるキリストの姿でした。ですから皆さんに誤解していただきたくないのは、キリストは今から二千年にマリヤから生まれた時に、初めて存在されたお方ではなく、神として世の初めから天の父なる神様と共に、そばにおられたお方なのです。これを先在(世界の始まる前から先に存在しておられ、旧約の時代も天におられた方)のキリストと言います。

2.言が肉となった

この言なるキリストが肉となったのです。これがクリスマスの出来事です。あの世界の原理であり、永遠の理性であり、天地万物を創造された神であるお方が、人間と同じ肉体をとるということは考えられないことでした。どうして聖なるお方が、こんな汚れた弱い人間の肉体をとってこの世に来られたのか、そこが世の人には理解出来ませんでした。

でも聖書には、はっきりと「言は肉となった」とあります。イエス様は、人間そのものでもあられ、また神御自身でもあられたのです。(教理的には、「イエス・キリストは真の人にして、真の神である」と定義されています。私たちと同じような肉体を持ち、時には痛みを覚え感情を持ち、病いも苦しみも、悩みも悲しみもご存じのお方なのです。これが肉をとられたということなのです。

もう少し「肉」という言葉に注目して考えてみますと、肉というのは、この肉体の他に、人間の欲望や自己中心という人間の罪をも表しています。弱肉強食という言葉が示すように、強い者が勝つという競争の世界です。相手と自分を比較して、落ち込んだり、コンプレックスを持ったり、妬んだりする世界。また逆に、自分を誇り、高慢になり自分の力で何でも支配したいという権力志向です。これらを称して肉の世界とも言います。

そして人間関係においても、夫婦の問題、親子の問題、受験戦争、人間が上を目指して頑張って比較競争の世界で、狂気じみた生活をしている昨今の世界があります。美を競う、力を競う、頭脳を競う、資金を競う世界、これらを総称して肉の世界と言ってもいいのではないでしょうか。肉の欲望、お金の欲望、性の欲望、名誉の欲望、このために人間は弱肉強食の世界に迷い込んでしまっているのです。

そしてその肉の世界の根源、根っこはどこから来ているかと申しますと、私たち人間のこの肉体から来ているのです。パウロはこう言っています。「そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは自分のうちに、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(P.283 ローマ7:17~18)

これが肉の本性です。人間の肉の中には、この罪が宿っているのです。そして私たちが生きている限り、肉体をもっていますからこの肉の中に存在する罪の法則の中に置かれているのです。にっちもさっちもできないのです。わたしも皆さんも例外ではありません。その罪の巣食っている人間の肉の只中に、キリストは生まれて下さったのです。それがこの「言(キリスト)が肉となった」ということの真の意味ではないでしょうか。ですから「キリストが人間となられた」という訳よりは、原語のギリシャ語にあるように、「言は肉となった」と訳した正しいのではないかと思います。

ではなぜキリストが、神そのものであり世界を創造され方であり、命であり光でもある方が、この卑しい肉をとってこの世に来られたのでしょうか。それは、イエス・キリストの受肉の使命は、御自分の肉において全世界の人々の肉の中にある罪をすべて処分してしまうためでした。全人類、全世界の罪をこのたったお一人の肉体において、キリストの肉体の上で一網打尽にしてしまうためだったのです。そのためにキリストは肉をとってこの世に来られたのです。

ローマ8:3にこういう言葉があります。「肉の弱さの故に律法がなしえなかったことを、神はして下さったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」
この世の罪を取り除くために、キリストは肉を取ってこの世に来て下さいました。神の御独り子が、肉体を取って来て下さらなければ、わたしたちの肉の内に宿っている罪を処罰することはできません。

イエス・キリストを信じて受け入れた者は、肉の中にある罪と死の法則から解放されて、もはや人と競争したり争ったり、よく見せようとしたりする必要はないのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1)とパウロは言っております。

キリストが肉を取って来て下さったのは、肉に宿っている罪と死の法則によってがんじがらめに縛られているわたしたちを御自分の肉の苦しみによって贖い出すためだったのです。肉の世界、肉の只中に来て下さったのです。今肉の苦しみにうめき悩んでいる人いませんか。人を赦すことができないで呻いている人。自分を傷つけた人の悪夢に悩まされている人。自分の肉の中にある悪い罪の習慣に苦しんでいる人いませんか。そういう私たちの肉の世界に、そして私たちの肉の思いの只中に来て下さったのです。そしてその肉を、御自分の十字架の苦しみを通して贖って下さり、わたしたちを肉の中の罪の苦しみから解放して下さるために来て下さったのです。これが言が肉となったということの本当の意味です。クリスマスの真の意味であり喜びなのです。

3.栄光、恵み、真理の充満

14節の後半部分をもう一度読んでみましょう「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。そこに「わたしたちの間に宿られた」とあります。英語では「ターバナクル=Tabernacle=天幕を張る」という言葉と「ドゥエル=Dwell=宿る」の両方が使われています。

つまり肉をとって、わたしたちの罪を贖って下さるお方が、わたしたちの間に宿り、なおかつ私たちを翼をもって覆い隠して下さるという意味があります。この肉をとってこの世に来て下さり、その御自分の肉をもってわたしたちの罪を贖って下さったお方が、この教会の中でわたしたちの交わりの中にいて下さり、わたしたちの教会を覆い包んでいて下さるということです。

16節に「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」とあります。これでもかこれでもかとイエス様を通して神の恵みと真理が与えられるというのです。

皆さんの信仰の生涯は、このキリストで満ちあふれていますか。ますます霊的に充実し拡大しているでしょうか。わたしはクリスチャンの人で、欠乏している人を見たことがありません。たとえお金がなくとも豪華な家がなくても、財産がなくても家族がいなくてもみんな満ち足りています。イエス様から次々と祝福を押し込められるからです。おそらく家に帰って、今日もらったプレゼントを開けてみたら、そのプレゼントの中に更に隠された別なプレゼントが入っているのではないでしょうか。

前にも言いましたが、11月の教会バザー以来、神様がこの教会の中に宿っておられるような気がします。ですから怖いんです。それは神様が恐ろしいから怖いというのではなく、神を畏れる畏敬の念が与えられているという意味で怖いのです。わたしたちはもっともっと真剣に、身を正して、命がけで神様に仕える生活態度が必要なのではないでしょうか。中途半端な教会生活や見せかけの表面的な信仰生活はもうやめましょう。人を見ないで、神を見るのです。肉を取って来て下さり、わたしたちの肉の中にある罪を滅ぼして下さったキリストだけを見上げて生きるのです。すべては「主のために」するのです。ただ「主のために」です。

キリスト・イエスにある者、彼を信じる者はすでに罪赦され、決して裁かれることはありません。また、このお方の前には何も隠せるものはありません。子供が無条件にクリスマスを喜ぶように、わたしたちも肉を取ってこの世に来て下さったイエス様を素直に喜んで受け入れましょう。肉を取って来られたイエス・キリストという神様の恵みのプレゼントを、肉をもったままで、罪のあるままで素直に受け入れる者となりましょう。 

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