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見捨てられない神(背信の時代) (士師記2:6~18)

メッセージ
2017年9月4日富里キリスト教会

「見捨てられない神(背信の時代)」
(士師記2:6~18)

1.主に背く時代

「わたしはあなたたちをエジプトから導き上り、あなたたちの先祖に与えると誓った土地に入らせ、こう告げた。わたしはあなたたちと交わしたわたしの契約を、決して破棄しない、あなたたちもこの地の住民と契約を結んではならない、住民の祭壇は取り壊さなければならない、と。しかしあなたたちはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。わたしもこう言わざるを得ない。わたしは彼らを追い払って、あなたたちの前から去らせることはしない。彼らはあなたたちと隣り合わせとなり、彼らの神々はあなたたちの罠となろう。」(2:1~3)

このような状況を私達の教会に当てはめて考えてみますと、こうなるのではないでしょうか。この富里の地に最初にバプテスト教会がたてられました。東京連合、東ブロックの中でも最も東の最前線です。これから先はバプテスト教会はありません。そして教会の周りには、成田市、佐倉市、八街市、八千代市、北には銚子、香取、神栖、潮来とバプテスト教会のない大きな町々が広がっています。神様は、「さあ、北の北総大地、東の東総の大地に向かってあなたの嗣業の地を奪い取りなさい。」と言ったと考えてみてください。この富里教会が伝道の拠点でもあり、最前線でもあるのです。神様は、「わたしが共にいるから、あなたがたは必ずそれを奪い取ることができる」と言ったのです。

ところが、早やこの富里の地に拠点を築いてから、30年以上の月日が経ちました。一番最初の礼拝が1984年12月2日に行われました。説教は「ホサナ、主をほめよ!」、説教者は中條儀助先生です。礼拝出席は男3名、女9名の12名でスタートしました。そして一時は富里教会も30名40名とたくさんの方々が集いましたが、またいろんな問題が起こって、現在も20名前後の礼拝をコンスタントに守っています。

コンスタントに守っていると言いますと聞こえはいいのですが、神様から言わせると、「まだ約束の地を奪い取っていないのか。いつまでももたもたしているのか。早く行って、敵を滅ぼし、偶像礼拝の祭壇を破壊して、真の神を礼拝させるようにしなさい。」と言っているような気がしてなりません。そういうお叱りの声が聞こえてくるような気がします。異教の神々をその地から追い出すことができず、彼らと契約を結び、同居の道を選んでいたのではないかと言わんばかりです。

一見、平和交渉のように見ますが、この残された異教の神々は後で、イスラエルに災いを招いて、真の神から離れさせてしまうという事態になってしまうのでした。例えば結婚を通して異教の神がイスラエルの家庭にも入って来ます。そして両方の神を礼拝するうちに、全く別な宗教が出来上がってしまったりするのです。クリスチャンも日曜日には教会に行きますが、時には成田山新勝寺にお参りに行ったり、一種の混淆宗教になってしまう危険性があったのです。よく聞く言葉ですが、「うちのおばあちゃんは、教会もお寺もどっちでもいいと言っている」とか「神様も仏様も同じように拝んでいる。」という言葉です。

つまり神様がここで問題にしているのは妥協的な信仰です。妥協しているうちはいいとしてもやがて、イスラエルの民はまことの神を捨ててしまうのです。
2:12にこうあります。「彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。」(2:12~14)とあります。

彼らが約束の地を手にすることができないのは、神様が悪いからではないのです。イスラエル自身の中に罪が残っていたのです。それは妥協的な信仰、偶像も真の神も一緒にしてしまうあいまいさ、中途半端な信仰、生ぬるい信仰、どっちつかずの信仰だったからです。この世に対する関心が強いのです。バアルの神といいますのは、豊穣の神です。アシュトレトは、多産と愛と快楽の神です。家内安全、商売繁盛の神様です。美と快楽を追及する神です。クリスチャンでもそっちの方に関心が行ってしまうことがあります。つまり自分の罪を認めて深く神の前にへりくだり、砕かれた信仰を持って徹底的に神に従うという信仰ではなくなっていたのです。

2.信仰の試練

今日の士師記2章を読んでみますと、一つのパターンがあることに気がつきます。先ほどの2:11~16を見ても解りますが、まず最初に、「民の背信」が起こります。そして次に「神の怒り」によって苦しめられます。そしてその苦難の中から「神に助けを求めて叫びます」。すると「神が士師を送って民を救われます」。この「背信」⇒「神の怒り」⇒「民の叫び」⇒「士師による救い」という、この四つのパターンが何度も何度も、繰り返し繰り返し起こって来るのです。

いかに人間の罪が大きく、そして頑固なものであるかが分かります。一回だけでは済まないのです。何度も何度も神様から頭をガツンとたたかれなければ、成長して行かないわたしたちの姿がそこになるのではないでしょうか。なかなか神に素直に従うことのできない人間です。洗っても、洗っても、汚れが落ちないしつこい罪のしみを持っています。学校の教師だったら、あるいはカウンセラーだったら、もうあなたなんか勝手にしなさい、自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならないと言ってさじを投げてしまいます。

そういう未熟で幼稚なイスラエルの民を、神様は200年間も忍耐と寛容を持って、彼らの叫び声につきあって来られたのです。この2章にも、先ほどの四つのパターンが、三回繰り返して述べられています。11~16節までと、17節~18節まで、そして19~23節まで、三回も繰り返し、繰り返し、民の不信仰と神の憐みの救いが述べられています。なぜ神様は、こんなにしてまでイスラエルの民を見捨てないのでしょうか。そして不信仰な私たちを、問題の多い教会をいい加減見放さないのでしょうか。

それはあのノアの虹の契約がまだ生きているからなのです。ノアに対して神様は、「水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現われると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた永遠の契約を心に留める。」(創世記9:15~16)と言われました。あの虹を見て、神は怒りを宥めて下さったのです。それがこの指導者ヨシュアの亡き後のカナン攻略の時代にまで生きていたのです。

ヨシュアに対しても主はこう言いました。「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らの故にうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。・・・主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」(申命記31:6,8)と。

主は決して私たちを見放す方ではありません。また見捨てる方でもありません。いつもそばにいて下さるお方です。叫び声に応えて下さるお方です。神の懲らしめを受けて、外敵が攻めて来た時に、にっちもさっちも行かなくなって、必死に「神様、助けて下さい!」と叫ぶ愚かな民です。こういうイスラエルの民は、だらしがないでしょうか。いい時はいいけど、何か災難が起こったり、苦難が起こるとすぐに弱音を吐いて助けを求める人はかっこが悪いでしょうか。

ここに記されている記録は、私たちは皆弱い人間です。だらしのないクリスチャンです。口ほどもない信徒です。何か試練や苦難が来るとすぐに、神様に泣きついてしまいます。そしてのど元過ぎるとすぐにまた神様の救いを忘れて、傲慢になったり、自分を誇ったりしてしまう者です。それでも、神様は私達のわがままな叫び声に、いつも耳を傾けて下さるお方なのです。絶対に、「もうお前を見放した。何度言ったらわかるのだ。後はお前の自己責任だから、私はもうかかわりたくない。」と言われるお方ではないのです。

3.主の憐れみ

私達はよくクリスチャンになってから、なぜ自分は信仰に入ったのに、こんなに苦しみがあるのだろうかと思うことがあります。またなぜ教会はいつも嵐の中にあるのだろうか、いつも問題だらけだと思う時があります。自分としては、幸福な生活を送るために信仰に入ったのにと思うことないでしょうか。でも、真の幸福な人と言いますのは、不幸がないとか辛いことがないという人生ではなく、不幸なことがあってもまた辛いことがあっても、それに立ち向かって行くことのできる人ではないでしょうか。そういう意味で、わたしたちはクリスチャンなのです。不幸のない生活ではなく、不幸の中でも生きて行く力と希望をいただいている者なのです。

何でイスラエルの民が、せっかく約束の地カナンに入ったのに、こんなに苦労するのかと言いますと、聖書はこう教えています。「ヨシュアが死んだときに残した(他の)諸国の民を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである。・・・そうされたのは、ただ以前に戦いを知ることがなかったと言うことで、そのイスラエルの人々の世代に戦いを学ばせるために他ならなかった。」(士師記2:21~22、3:2)とあります。

イスラエルの苦難というのは、信仰の戦いと試練を学び真の戦い方を知るための訓練だったのです。その訓練を経て、私達も、そして教会も嗣業の地を手にする術を教えていただくのです。「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」(黙示録3:19)「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。」(箴言3:11~12)訓練されないクリスチャンはいません。神に懲らしめられない人は、逆に不幸な人です。

主のわたし達に対する懲らしめは、わたしたちを愛するが故の懲らしめなのです。愛するからこそ様々な試練や苦難に出会わされるのです。でも、神様はわたしたちを懲らしめ放しにしたり、滅ぼしてしまおうと考えているのではありません。私たちを見放したり、見捨てたりするお方ではありません。いつもあの虹を見ているのです。そしてあの虹を見て心を宥めたように、主はご自身の御独り子イエス・キリストの十字架の姿を見て、私たちへの怒りを宥めて下さっているのです。

なぜなら、神様は、私たちを見放したり見捨てたりする代わりに、御自分の独り子イエス・キリストを十字架につけて、見捨てられたからです。御子が「お父様、なぜわたしを見捨てたのですか!」と十字架の上で叫ばれたにもかかわらず、父は御自分の息子を見捨てられました。それは御子の贖いの血潮によって、わたしたちの罪を赦すことを決心したからです。わたしたちを愛するが故に、自分の子供を見捨てたのです。

あの御子の姿、御子の十字架の贖いの血潮によって、怒りを宥め、罪人のわたしたちをどこまでも見捨てることなく、愛を持って赦してくださっているのです。それほどに神はこの世を、そしてわたしたち一人一人を心から愛しておられます。決して見捨てられるお方ではありません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)その神様の永遠の契約を思い起すために、私たちは毎月主の晩餐式を持っています。

私たちは本当に弱い人間です。信仰の未熟なものです。何度も失敗し、つまづきます。ですからこそ、格好悪いですが、主に寄りすがって行くしかないのです。苦難がのど元過ぎれば、すぐに主の恵みを忘れてしまうかもしれません。ですからこそ、必死に、この弱い私たち、不信仰な私たち、すぐに背を向けてしまうわたしたちですから、助けを求めることしかできないのではないでしょうか。弱いからこそ祈るのです。不信仰だからこそ、助けを求めて祈るのです。

何度も何度も、失敗を繰り返しても、また祈るのです。このようなやり取りが200年間も続きました。しかし憐れみ深い主は、見捨てることなく、何度でも私たちの祈りに耳を傾けていて下さいます。200年どころか2,000年間も忍耐して、一人でも罪人が主のもとに帰って来ることを待ち望んでおります。今日も自分の罪と不信仰を悔い改めて、祈りましょう。そして主と共に新しく生きるための第一歩としましょう。      

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