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見失った一匹の羊 (ルカ15:1~10)

メッセージ

2012年1月29日富里キリスト教会

「見失った一匹の羊<悔い改めることの大切さ>」
(ルカ15:1~7)

1.羊飼いの仕事

昔から、羊飼いと羊の関係は、神とイスラエルの民との関係にたとえられてきました。有名な詩編23篇の「主はわたしの羊飼いであって、私には乏しいことはない。」という御言葉に歌われている通りです。そして新約聖書では、イエス・キリストが良き牧者として描かれています。ヨハネ10章には「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:10~11)とあります。

ジョージ・アダム・スミスという人が、当時の羊飼いの生活についてこう書いておりました。「羊飼いは、オオカミやハイエナの遠吠えがする荒野に立っている。彼はまどろむことなく、眠ることなく、眼光鋭く、雨風にさらされながらも杖にもたれて、野原に点在する羊の群れに目を注いでいる。そして、彼はその一匹一匹の顔と名前を覚えている。羊の群れは、当時は羊飼い個人のものではなく、村全体の財産であった。二、三人の羊飼いがその群れを管理し養う仕事を任されていた。

羊飼いたちは、時間通りに荒れ野から羊の群れを村に連れ帰ることもあれば、時には、まだ一人の羊飼いが迷子の羊を探して山にいるというニュースをもってくることもあった。そうすると、村人全員が迷った羊を抱えた羊飼いが、荒野の向こうから帰ってくるのを待つことがあった。薄暗くなりかけた荒野の向こうから、迷子になった羊を肩にした羊飼いが帰ってくるのを認めると、村中から喜びの大歓声がわき起こった。」と記しております。今日の見失った一匹の羊のたとえ話は、おそらくこういうイスラエルの生活風景を思い出しながら、誰でも覚えている情景としてイエス様が話したのではないでしょうか。

このような生活の一場面を通して、神とイスラエルの関係、そして神がどんな思いでイスラエルの民を愛し、案じているかを示されました。ところが、イスラエルの宗教的な指導者たちが、自分たちが罪人だと思っている人々と交際し食事さえしているということに憤慨し、神の教えに反するとしてイエスを非難し始めました。主イエスは、徴税人や罪人と言われる人と一緒に食事をしたり、彼らに説教をしていたからです。

2.見失った羊

ルカによる福音書の15:4から読んでみます。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(15:4~7)

この百匹の羊のうち、いなくなった一匹の羊は、もともと一つの群れの中にいた羊でした。「見失われた羊」とか、「失われた者」という言葉を聖書では使いますが、ギリシャ語では「アポリューミ」という言葉ですが、「失われる」という意味の他に「滅びる」という意味もあります。なぜ滅びるのかと言いますと、もともと本人がいた場所から外れてしまっているということなのです。これが、滅びの道を歩んでいる者であり、道を踏み外して迷子になってしまったということなのです。

そうしますと、救われるということは、本来の自分がいた場所に戻るということにもなります。この見失った羊のたとえの次に、なくした一枚の銀貨のたとえが出てきます。銀貨が十枚あって初めて女性が身に着ける飾り物になるのですが、一枚足らないとそれはアクセサリーにならないのです。ですから、見失った一枚の銀貨を女性が必死になって探すというお話が出て来ています。一枚が見つかって、本来ある場所に戻る時、初めてきれいな完成した一つのアクセサリーになるのです。ですから女性は必死になって失くした一枚の銀貨を探しました。この一匹が大事なのです。この一個の銀貨が大事なのです。

また、その後に出てきます放蕩息子のお話では、家出をした弟が、放蕩三昧をした挙句やっと悔い改めて家に帰ってくるお話です。本来自分がいるべきところに戻ってくること、これが神様の救いであるのです。そして変えるべきところに帰って、神様の前で神と共に生きることが人間の本来の姿であり、ここに立ち返ることが悔い改めの信仰でもあったのです。自分が本来いる場所に戻ることです。羊でしたら羊飼いのふところに帰ること、息子でしたら自分を産んで育ててくれた、自分の父の家に戻ることです。

主はたとえ九十九匹を野原に残しておいても、真に心から悔い改める羊を探し求めているのです。悔い改める必要のない九十九匹の羊よりは、たった一匹でも食い改める人が与えられることの方が大きな喜びだと言っています。

3.悔い改めることの大切さ

人間はなかなか悔い改めるということができないようです。一言に悔い改めると言っても、自分の非を認める、自分の罪を認めるということは大きな決断がいるかもしれません。よっぽど、追い込まれて死を目の前にしない限り、悔い改める気持ちにはなれないのではないでしょうか。放蕩息子のところでも、自分の貯金を使い尽くし、豚に残飯をやるというどん底の生活にまで落ち込んで、いっそのこと死んでしまった方がいいと思うところまで落ち込まないと、心底人生の方向転換をすることができないのではないでしょうか。

悔い改めるということは方向転換です。何度も申していますが、「悔い改め」はギリシャ語では、「メタノイア」すなわち、「メタ」は変える、「ノイア」は心です。心の方向を変えるということです。今までは自分中心、自分が目的でした。それを神中心、神に的を絞って身も心もまっすぐに向けるということです。口で言うほど簡単なことではないようです。

人間は、ぎりぎりまで、どん底まで落ちて、死を覚悟するところまでいかないと本当に神様に顔を向けて、罪深い私をお赦しください。どうか、こんな私をも救って下さいと叫び声をあげないのではないでしょうか。おそらく、見失った一匹の羊は、自分の死を覚悟するところまで落ち込んでいったのではないでしょうか。そこで初めて、「神様助けてください!」と叫んだのではないかと思います。自分で自分を救うことができないのです。でも、その落ち込んだ穴の中で、迷い込んでしまった暗闇の中で、「イエス様!助けてください。」と叫ぶなら、必ず主はすみやかに救いの手を差し伸べてくださるお方です。

クリスチャンというのは、間違わない、失敗しない、道を踏み外さないということではなく、たとえ道を踏み外しても、いつでも自分の罪を認め、罪を告白して悔い改めるならば、救われて罪赦され、もう一度真理の道に立ち返ることが赦されている者という意味です。

4.見失った羊を担いでくださる主

羊飼いは、今もいなくなった一匹の羊を探し求めて歩き回っています。聖書には「見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないであろうか。」とあります。羊飼いは自分の命の危険も顧みず、命がけで捜し出して下さいます。一人の人の名前を呼び、どんな危険なところでも足を踏み入れて捜し出して下さいます。

良き羊飼いであるイエス様の目と手が届かないところはありません。私たちが、目を天に向けるだけで、心の中で「神様!」と叫ぶだけで、主は答えてくださいます。そして動けない私たちの手を取って抱き起して下さいます。そしてがっしりと背中に担いでくださいます。決して小言も文句も言いません。ただただ、良かったと言って喜んでくださるのです。

そして、肩に担いで、岩山や川ややぶの中をもとの道へと引き返して下さいます。一匹の羊を肩に背負って立つ羊飼い、これがかつてのイスラエルのシンボルでした。そして、野原に残されていた九十九匹の羊たちも、その有様を見て一緒に喜ぶのではないでしょうか。誰も、あの一匹だけをイエス様は愛して我々は野原に放って置かれたとふてくされる羊はないと思います。一匹が助け出されるその様子を見て、その主の大きな愛の姿を見て、残りの九十九匹も一緒に喜ぶのではないかと思います。ああ、自分たちも、もし道に迷ったりすることがあったら、あのように探し出してくれるんだと思って安心したのではないでしょうか。

今は救いの日、恵みの日です。今日は悔い改めの日です。主は決して裁かれるお方ではありません。誰でも自分の罪を認めて悔い改めるならば、喜んで迎えてくださるお方です。信仰とは、罪を悔い改めて本来自分がいるべきところに帰るということです。私たちの罪の贖い主であり、神の子羊である主の名を呼ぶことです。今日、私たちの羊飼いであり、永遠の牧者であるお方のもとに立ち返ろうではありませんか。                (岡田 久)

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