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裏切りの接吻 (マルコ14:43~52)

メッセージ
2018年富里キリスト教会
「裏切りの接吻」
(マルコ14:43~52)
1.ユダの裏切り

今朝は、受難週の中でも暗い場面の一つでもありますイエス様の逮捕の個所です。「さて、イエスがまだ話しておられると、12人の一人であるユダが進み寄ってきた。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒をもって一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け』と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけてとらえた。」(マルコ14:43~46)

今日の聖書に出てきますユダと言う人物ですが、彼はイエス様によって弟子の一人として選ばれた人間です。この3年間一緒に伝道旅行についてきました。イエス様からは一行の会計係の役目をいただいていました。しかし、この大切な会計をごまかして、お金を自分の懐に入れていました。そのくせ、貧しい人々に慈善活動をしなければならにと言ってうわべを飾っていたのです。(ヨハネ12:6)

最後の晩餐の席でイエス様が、突然、この弟子の中にわたしを裏切るものがいると言ったときに、「先生、まさかわたしでは・・」と言ってしらばっくれています。その時ユダはすでに、イエスを銀貨30枚で売る約束をしていたのです。(マタイ26:25、14)そのようにしてどこまでも悔い改めることなく、自分の心を隠してついて来たユダでしたが、ついにそういう男の心にサタンが入りました。そしてどんどんと罪と死の道へと突き進んでいっています。

ヨハネの13:21以降にイエスとユダのやり取りが克明に記されています。
「『はっきり言っておく。あなたがのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』・・イエスは『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ。』と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。・・・ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった。」(ヨハネ13:21~30)

イエスはこのどこまでも悔い改めることをしないで、自分の道を突っ走って行く弟子に対して、「人の子を裏切るものは不幸だ。生まれなかった方がその人のために良かった。」(マルコ14:21)と言っています。イエス様から生まれなかった方がよかったと言われるということほど、悲しいことはありません。
この後ユダは、群衆の手引きをしてイエスを逮捕するためにゲッセマネの園に行きます。そして裏切りのしるしとなった接吻をもってイエスを捕まえます。

接吻と言うのは普通、親しい者同士の挨拶です。中東では、男同士でも頬に接吻をします。その親しさと愛をこめて行う挨拶を、彼は逮捕の合図にしたのです。ユダが、イエスを単なる物として、人間としてみていたのかと言うことです。キリストでも自分の先生でもなく、取引の材料なのです。そこまで人間は、手のひらを返したようにあくどくなれるものでしょうか。二重、三重の虚偽が、この接吻と言う行為の中に含まれています。

その後ユダは、イエスが死刑判決を受けたのを知って後悔し、銀貨を神殿に投げ返していますが、最後には首を吊って自殺してしまいます。ところが彼が首を吊った木の枝が折れて、自分が会計をごまかして買っておいた土地の地面に真っ逆さまに落ちてしまい、体が裂けて内臓が地面に流れ出てしまうという悲惨な最期を遂げています。(マタイ27:5、使徒言行録1:18)

Judas was one of the disciples loved by Jesus. But he was cheating money as keeper of money bag. And he betrayed Jesus to hand him to the chief priest and the teacher of law by 30 silver coins. After Judas went out from the house of the last supper, Jesus said about him that it would be better for him if he had not been born.

せっかくイエス様に弟子として選ばれ、三年間も伝道旅行についてきていながら、どうして彼はこのような運命をたどってしまったのでしょうか。わたしはその理由として、あまりにも自分の理想、自分の信念が強くイエス様の目的が理解できなかったからではないかと思います。その自分の理想、自分の信念と共通している限りにおいて、イエスと行動は共にしますが、その目的や方向性にずれが出てきますと、ついて行く意味がなくなるわけです。そうすると、逆にもはや何の魅力も尊敬もなくなってしまって、30枚で売ってもなんとも思わなくなってしまうのではないでしょうか。

ユダの生涯の中で、悔い改めるチャンスはありましたが、ユダ自身が悔い改めなかったのです。イエス様に悪いことをした、自分が間違った行動をとったという反省はあったようです。そして銀貨を投げ返してはいますが、それは後悔であって悔い改めではなかったのです。どこまでも自分の罪を認めませんでした。彼は何事も自分で解決して、最後は自分で自分の命を取ってしまいました。どこまでも我、我、自分、自分なのです。

悔い改めるということは、この我、自分から目を離して、主に目を向けるということです。そこに解決があります。そこに十字架の赦しがあるのです。恐がる必要はありません。たとえ、「〇〇大臣の命令で書き換えました」と証言しても、何も恐れることはないのです。真実を話すならば、そこに赦しと平安がすぐに来ます。人間を恐れるのではなく、すべてをご存知の神を恐れることです。そこに救いがあり、命があるのです。

Judas was elected to be an honorable disciple of Jesus and have followed to Him for three years. But why did he betray Jesus ? I thought there were a little difference between Judas’s ideal and Jesus’s purpose and the difference became bigger more and more for three years. Judas had followed Jesus as far as they are consistent.
But as he understood the decisive difference, he left Jesus and admitted no worthy to Jesus and betrayed him and sold him by only 30 silver coins. Judas did not admit Jesus with any value. There were many chance for Judas to repent his sins to Jesus. But he never repented his own sins to Jesus. He did solve all failures and his sins by his own responsibility. He took his own life by himself. He insisted always I and I and myself and myself. He never confessed his own sins to Jesus and never surrender himself to Jesus and he never broke down with tears like Peter. And then other disciples ran away from Jesus too.

2.皆、見捨てて逃げてしまった

このユダの話を聞くたびに、なんという人間だ、弟子の風上にも置けない、クリスチャンの面汚しだと憤慨する人も少なくありません。確かに会計をごまかし、それで土地売買に手を染め、挙句の果てにはイエス様を銀貨30枚(奴隷一人分の値段)で売り渡してしまうなんて考えられないと思う人もいると思います。でも、わたしたちは大丈夫なのかと言うことです。聖書には次のように記されています。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ出してしまった。一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」(14:50~52)

この時、イエス様は自分を逮捕してもいいが、弟子たちはそのまま去らせるようにと言っています。(ヨハネ18:8)その結果、弟子たちはだれも逮捕されずに、イエスだけが逮捕されました。また、主を守るために剣を抜いて、切りかかったペテロに対しても「剣をさやに納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる。」(マタイ26:52)と言って報復攻撃をすることを禁じています。ここからも、キリスト者は、そしてキリストの教えは決して武力による報復や攻撃を赦してはいないということです。武力によるいかなる攻撃も報復も、聖書では禁じていると言っていいと思います。

一応、剣をもって戦った者はいましたが、結果的には全員が雲の子を散らすようにして逃げて行ってしまいました。そしてこのマルコ伝だけにしかありませんが、51節に一人の若者が、着ていた亜麻布を投げ捨てて逃げて行ったという記事が載っています。これは、この福音書の記者であるマルコの姿を挿入したのではないかと言われています。マルコも、まだこの時は青年にすぎませんでしたが、一行の後をついてゲッセマネの園まで来ていました。そして逮捕の一部始終を目撃していました。しかし、自分も逮捕されそうになると、上着を捨てて一目散に逃げ帰ったのです。

この後、ペテロは弟子たちのリーダーでしたから、イエス様のことが気になって、こっそりと後をついて行きます。そして、この後大祭司の屋敷で緊急のユダヤ議会が開かれて、イエスを死刑にしようという裁判が行われます。その時、ペテロは自分がイエスの弟子ではないということをみんなの前で、三回も公言してしまいました。その時、大祭司の家から移送されてゆくイエス様とペテロが、偶然、目と目が会いました。そこでペテロは自分が三回もイエスを否定したことを、悔やんで表に行って男泣きに泣いたと書かれてあります。

人間だれでも恐怖心が起こると、自然と自己保身が働きます。心では決して裏切っていなくても、恐怖のあまり口からは「わたしはイエスなんか知らない。」と。(マルコ14:72)否定の言葉が出てくるのです。この裸で逃げだした青年もそうです。今まで体を覆っていた亜麻布を投げ捨てて、裸のまま逃げて行きました。この亜麻布と言いますは、これはイエス・キリストのことを指しています。信仰とはこの裸の体に、キリストを着ることだからです。つまり亜麻布を投げ捨てて逃げて行ったということは、信仰を捨ててイエス・キリストを脱ぎ捨てて、裸の罪のままで逃げて行ったということです。

そしてこの裸で逃げて行っただらしのない青年は、この福音書を書いたマルコのことではないかと言われています。と言うことは、マルコ自身もあの現場にいたということを証明しているのです。わたしもあの時、あそこにいて弟子たちと同じように逃げ出していましたと言うことを証明しているのが、この短い文なのです。そしていわば、マルコだけではなく、この福音書を読んでいる私達も、同じように逃げ出してしまったということではないかと思います。人間だれでも口ではいいことを言っていても、いざ事が起こった時には、自分が大事です。われ先に逃げ出してしまう者です。そしてまた、あの裏切り者のユダのようになってしまわないとも限りません。

We used to remember that Judas was an only betrayal disciple. But was only Judas a betrayer? Other disciples also abandoned Jesus and ran away. And a young man being considered Mark who wrote this Gospel fled naked leaving his garment behind. After all everyone who belong to Jesus fled away. This is the reason why Mark inserted his own record in this place. The writer Mark want to say that I have been there fleeing from Jesus too and I have been a betrayer too. After that Peter rejected Jesus three times publicly. But Peter broke down with tears and cried trembling his body afterwards. Do you repent your own sins like Peter ? Do you feel and notice your own weakness and selfishness and unfaithfulness and self-protection and your sins.
Jesus said to Peter“Unless I wash your feet ,you have no part with me.”(John 13:8) This is the only and eternal point of contact between Jesus and us. Even if we fled from Jesus , His calling never stops and His love on cross always sheds upon us wherever we are and we go. Please look at Jesus on the cross, only there we can find peace and grace from Jesus.

3.イエスと私を繋ぐもの

ユダと言えば、すぐに「裏切り者」と言う言葉が出てきますが、果たしてユダだけでしょうか。わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは悔い改めているでしょうか。ペテロは、イエスを三度否定した後で、自分のふがいなさ、自分の罪、自分の不信仰を嘆いて男泣きに泣き出しています。(マルコ14:72)
わたしたちもあのペテロのように、心から悔い改めて、泣き崩れているでしょうか。どうしようもない自分の弱さ、自己中心、自己保身の塊のような自分の罪の姿を見せつけられることはないでしょうか。

最後の晩、イエス様は弟子たちの足を洗いながらこう言いました。「もしわたしがあなたの足を洗わなければ、私とあなたは何のかかわりもない。」(ヨハネ13:8)と。つまり何度も言いますが、イエス様と私たちと結ぶのはこの一点です。つまり、イエス様が今でも永遠にわたしの足を洗っていてくださるということです。この意識のないクリスチャンは偽物です。まだ自分の罪が解かっていません。と言うことはイエスの十字架の意味も解っていないのです。毎月の主の晩餐の意味も解っていません。

まだ悔い改めていない人です。ペテロのように自分の罪と弱さに涙流したことのない人です。そしてユダのように、自分と言うものがまだ砕かれていない人です。イエス様はわたしたちの罪を赦すお方なのです。そういう関係を求めているのです。今もなお一人一人の足を洗っておられるのです。わたしたちがイエス様に、自分の足を洗っていただいているかということを自覚しているかどうかです。今も自分の罪のために十字架の上でとりなしてくださっていることを知っているかどうかです。

でもイエス様はそういう私たちの上に、今もなお十字架の愛を注いでくださっているのです。たとえ私たちが自分中心であり、自己保身的であっても、主は最後の最後まで、わたしたちのために罪をとりなしてくださっているのです。あとはわたしたちが、主に顔を向けて十字架の主を見上げるかどうかです。わたしたちの罪を赦し、贖い続けておられるお方を見上げることです。これが、キリストを着ることです。信じることです。そこに私たちの救いがあり、命があります。そこに神様の愛があります。主はわたしたちの罪を赦すために十字架に架かってくださいました。

裏切っても、ごまかしていても、失敗しても、間違っても、逃げて行ってしまっても、主に顔を向けるならそこに自由があり赦しと平安が待っています。どんなにか、背を向けて逃げてゆくユダに対して、そしてペテロに対して、マルコに対して主が呼び掛けておられたことでしょう。「私はお前を愛している。わたしを見上げて自由を得なさい。」と。この主の愛の前に立ちましょう。その主の愛の十字架の眼差しを覚えながら、今週も過ごしてまいりたいと願っています。

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