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落ち穂を拾う女 (ルツ2:1~23)

メッセージ
2019年9月15日富里キリスト教会
「落ち穂を拾う女」
(ルツ記2:1~23)
1.神の偶然

「ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。モアブの女ルツがナオミに、『畑に行ってみます。誰か好意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます。』と言うと、ナオミは、『わたしの娘よ、行っておいで』と言った。ルツは出かけて行き、借り入れをする農夫たちの後について、畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」」(ルツ2:1~3)

二人の未亡人にとって、女性の生活手段のない当時の社会は、本当に厳しいものがありました。その当時の女性の仕事と言いますか、アルバイトは誰か親切な人の畑で、収穫の後の麦の落ち穂を拾い集める仕事でした。ここに麦ではありませんが、お米のもみ殻があります。おそらく畑に落ちている麦のもみ殻を一個一個拾い集めて、それを生活の糧にしていたと思います。一個のものもあれば、穂がついたものもあったと思います。これを拾い集めてその日の糧にするのですから、大変な労力です。

腰が痛くなる仕事です。その割にはどれだけの穂を集めることができるでしょうか。1時間かけてコップ一杯くらい集まるでしょうか。レビ記19:9にこういう御言葉があります。「穀物の収穫をする時は、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記19:9~10)

ですから、イスラエルではあえて収穫物の残り物に手を出さないで、貧しい人々のために残しておく習慣がありました。とはいってもルツは未亡人であり、外国人です。ユダヤ人から見ますと、異邦人であり神から見放された人々ですから、差別や偏見の対象になりかねませんでした。同じ仕事をしている女性からは白い目で見られたでしょうし、下手をすると、いじめに遭ってつらい経験をさせられたかもしれません。

でもルツが出かけて行って、たまたま見つけた畑で落穂ひろいをさせてもらったところが、実は、ナオミの親戚に当たるボアズという人の土地でした。ボアズはその地のお金持ちの有力な人物でした。信仰もありました。神様は、ルツが人々の偏見や差別やいじめに遭わないように、いやそれよりもナオミの家族にとって最高の朗報となる出来事のために、あえてボアズの畑へとルツを導いたのでした。

わたしたちにとっては、たまたまそうだったということがありますが、実は神様が最初からそうなるようにご計画しておられたのです。神様の「たまたま」であり、神様の偶然がそこにはあったのです。つまりどんなつらい時でも、苦しい時でも、神様を第一として歩む時に、そこに必ず主の御手が働いて最善の道が開かれてくるのです。

相嫁のオルパは、再婚するために自分の実家へ帰って行きました。おそらくそこで彼女は幸せな生活を送ったかもしれません。でもルツはナオミの信じている神様を選んで、姑についてきました。ルツが寄りすがったのは、ナオミの信じているイスラエルの神様御自身でした。オルパの新しい結婚生活に勝る、神様の霊的な祝福をはるか遠くに見て信じていたのです。そのような信仰のある所に神様の祝福が待っているのです。不確かな道、暗い道、厳しい道、不毛な道でありましても、主を信じて一歩踏み出すならば、そこに道が開けてくるのではないでしょうか。大切なことは、いつでも、どんな時でも主が共にいて下さるということです。

イエス様も言いました。「『何を食べようか』「何を飲もうか」『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことはご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31~34)ルツは衣食住を心配する異邦人ではありませんでした。もはや信仰のイスラエル人そのものです。生活よりも神の国と神の義を求め選んだ女性でした。そしてそこには必ず、神様の偶然の出来事が起こるのです。主は彼女をボアズの畑に導いて行ったのです。

2.神の御翼の陰に

するとたまたま畑に来たボアズが、異邦人の女ルツに目を留めます。そして彼女の素性を召使から教えてもらいました。夫に死に別れてもなお、自分のしゅうとめに信仰をもってついて来た外国の女、ボアズは彼女の今までのことを聞くと、その行いのゆえに、ルツに対して大きな便宜を図ってやりました。それはまず自分の畑で、落ち穂を拾いなさい。他の畑に行くといじめられるかもしれないからです。またルツには水も飲ませました。皆さんも水の貴重さを経験したと思います。一杯の水がどんなに大事な物であるかを。更にパンも与え、入り麦も与えました。また畑のものに、畑ではなく、刈り取った束の間でも拾うことを許してくださり、なおかつ召使にルツが拾えるように穂を抜いて落としておくようにと命じました。その時の会話がこうです。

「ボアズは答えた。『主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いて下さるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れてきたあなたに十分に報いて下さるように。』ルツは言った。『わたしの主よ、どうぞこれからも好意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。』」(ルツ2:11~13)

ボアズはルツの信仰ある態度と行動にいたく感銘して、驚くほどの便宜を図ってやりました。ルツに身の安全を保障し、多くの食物さえ保証してくれたのです。しかも、特別扱いをしていることで、周りからいじめられないように、こっそりと便宜を図ってあげました。外国から日本に来て、生活してゆくのは本当に大変です。そんなにいい仕事はありません。みな日当です。給料とかボーナス、諸手当などありません。時給で生活を支えて行かなければなりません。しかも低い賃金で、仕事はきついです。

成功している外国人はごくごくわずかです。しかも今は日本人でさえ、厳しい労働条件で仕事をしなければならない時代です。逆に言いますと、信仰よりも生活が先です。生活、生活、仕事、仕事に明け暮れる毎日です。そうでなければ、家賃を払ったり、車をもって通勤したり、医療費、教育費、食糧費にどうしてお金が間に合うでしょうか。普通の男手のある家族でも生きて行くことが大変なのに、未亡人の女が二人でどうして食って行けるでしょうか。

でもルツとナオミには信仰がありました。たとえ生活が苦しくとも、信仰の道を選んで出て来たのです。ボアズは三つの点でルツを誉めました。夫が死んだ後も、自分の姑に尽くしてきたことです。普通でしたら、お母さんお世話になりました。お暇して新しい生活を自分で切り開きますというところです。その姑を見捨てることなく、しゅうとめに生涯尽くすつもりで家を捨ててきました。

二番目は、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らない国へと出て来たことです。自分の両親、自分の故郷を捨てて来たのです。なかなかできるとこではありません。年を取ればとるほど、望郷の念が湧いてきます。ルツは自分の民と自分の神を捨てて、ルツの信じている神に寄りすがってついて来たわけです。依恵ちゃんという名前もそうです。主の恵みに依りすがって生きるという意味です。そういうルツの信仰をボアズは伝え聞いて、主が豊かにその信仰に報いて下さるようにと祝福を祈りました。それはあたかもひな鳥が親の翼の陰の中に入ってかくまってもらうような祝福です。ルツは主のみ翼の陰に逃れてきたのです。

仕事、仕事、家族、家族、生活、生活に追われる生活から、唯一の主なる神のもとへと逃れてきたのです。そしてその御翼のもとにかくまってもらったのです。ともすると仕事や生活が先になってしまうわたしたちですが、ボアズはルツの中にしっかりとした信仰の確かさを見ていたのです。それはひな鳥のように、親の庇護を求めてその翼の中に走りこんで難を避けるようなものです。

「神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きをいやす。命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」(詩編36:8~10)
信仰とは主のみ翼の中に逃げ込むことです。何か偉大なことをするのではなく、わたしたちの信仰とは主の御許に駆け込むこと、主の許に言って声をあげて助けを求めること、主の許に行ってその中へと自分を覆い隠すことです。

本当に先週は光を求めて一本のろうそくのもとに集まりました。水を求めて給水車の周りに集まりました。電源を求めて、コンセントのもとに行きました。ガソリンを求めてスタンドに行列を作りました。生活に必要なものです。それがなければ命をつなげて行くことができません。なくなってみて初めてその大切さがわかりました。でも今は、電気が来ましたので元の生活に戻りました。求めない生活、大切な物を見失っている生活です。

わたしたちを永遠に生かす命の水を、普段から求めているでしょうか。真の光であるイエス・キリストの命の光を求めているでしょうか。目に見えないもの、わたしたちの生活の上にある物、根本的な平安、安心を求めているでしょうか。水や電気がつけばそれらはもう必要ないのでしょうか。真に人と人をつなぎ、生かす命の言葉を求めることはないでしょうか。

わたしたちの生活に優先し、生活を真に成り立たせる力の源を求めているでしょうか。なくてならぬ命の水、真理の糧を日々に真剣に、並んでも必要としているでしょうか。この場がその生きる命の配給所です。日曜日の教会の礼拝こそ、わたしたちの生活の命の源ではないでしょうか。この場に、この恵みの場に、御翼の陰に毎週、毎週逃れて来ましょう。主のおられるところなら、皆さん方の家庭にもあります。家での祈りの座、御言葉を読む部屋、そこがわたしたちの神の御翼の陰なのです。そこから神様の祝福の生活が始まってゆきます。

神様は決して、逃れて助けを求めてくるものを見捨てるお方ではありません。どんなに落ち込んでも、人生のどん底にあって、暗闇の中を歩いていると思える時でも、決して見捨てるお方ではありません。主の許に逃げ込みましょう。祈りの場に、主を覚えて礼拝する場所にです。そこに主は必ずいて下さいます。小さな私たち、見捨てられたようなものでありまして、主は必ず目を留めて引き上げてくださいます。

それはルツが、地面に落ちている箸にも棒にもかからないような小さな存在である麦の一粒でも、決して見捨てはしないということです。必ず拾い上げて神様の御翼の陰に隠して守ってくださいます。あの落ち穂を拾う一人の女のように、孤独の中で、見捨てられてしまったような自分でも、主は必ず拾い上げて下さるのです。御翼のもとに守って下さる神様、そして生きている者にも死んだも同然のような無価値な者にも、大きな慈しみと愛をもって祝福して下さるお方です。
この主の愛と慈しみを信じ、主に寄りすがってゆきたいと願っています。(岡田)

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