ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

荒野の誘惑 (マタイ4:1~11)

メッセージ
2021/1/10
富里キリスト教会礼拝説教
「荒野の誘惑」
(マタイ福音書4:1〜11)

①サタンの誘惑、神の試練
先週は、神であり、人であるイエス様が、罪もなく、悔い改める必要もない中、謙遜にへりくだられ、あえてバプテスマを受けられた。そして、そのへりくだりは、神のみこころに沿うものとして、主は大変喜ばれ、天から「これは私の愛する子」と改めてイエス様がただの人ではなく、神の子であるメシア、救い主であることを宣言しました。ヘリくだったさきには素晴らしい神の祝福によって引き上げられた主イエスの姿がありました。
素晴らしいシーンですね。もし、私にこのような出来事が起こったらもう、有頂天も有頂天。ああ、これからの私の人生はハッピー、バラ色だと思ったかもしれません。しかしここで場面はガラッと変わり、イエス様は荒野で厳しい試練、誘惑を受けることになるのです。ピークに達したと思いきや一気にどん底。この落差たるや。想像するだけでゾッとします。
しかし、これは私たちクリスチャンの人生にもとても重なるように思います。バプテスマを受け、クリスチャンとして生きていく。そこには喜びもありますし、とても祝福された人生が待っていますが、そこには苦難も伴ってきます。クリスチャンの人生は決して絵に書いたようなバラ色の人生が待っているわけではないのです。必ず人生の荒野を通る時があるのです。
この荒野でイエス様はサタンから誘惑を受けることになります。しかしこれは、サタンによる神の国の建設を阻止する攻撃でありながらも神様から与えられた試練でもありました。「霊に導かれて荒野に行かれた」という言葉からこの荒野での出来事は神のみこころであったことが窺えられます。ここで誘惑と訳されている言葉はギリシャ語でペイラゾーといいますが、この語はもっとも古いギリシャ語文献では「証明する」という意味で使われており、主要な意味は「試験する、実証する」といったもので、時に試練、神の試みという意味で用いられこともあります。
神様は時に、私たちを試す、試練を与えることがあります。「試みに合わせず悪より救い出したまえ。」人間誰しも苦難や試練にあいたくはないものです。しかし、神様から見て私たちにその試練が必要なときもあるようです。決して、苦しめたいわけではありません。神様が私たちになさることはすべて、その愛ゆえになされることです。その苦難、試練の時は辛くともその機会を通して、私たちは神さまへの信頼をより確かなものとし、神様と自分の距離をとても近づけることにもなっていきます。試練を乗り越えた先には神の祝福が待っていることは本日の箇所からもよく表されています。また、主は憐れみ深いお方でもあります。私たちの弱さも重々知っており、決して超えられない試練はお与えにはなりません。逃れの道すら用意してくださっているのです。

Ⅰコリント10:13
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

②空腹への欲望
イエス様はこの荒野でサタンから主に3つの誘惑を受けることになりました。一つはパン、食つまり物質的必要、二つに安心、三つに権力、つまり人間の欲望そのものにサタンは訴えかけ、誘惑していきます。まずは食についてです。イエス様は荒野で40日間、昼も夜も断食し、空腹の極みにいました。そんな中、サタンは甘く囁きます。
「イエスよ、腹減っているだろ?神の子なんだったらこの石をパンに変えて食べたらどうだ。」確かにイエス様は神様でもありますからそんなことやろうと思えばすぐにできたことでしょう。しかし、主は決してご自分のために神の権威、力を用いたりはしませんでした。その力は私たちを救いへと導くためにのみお用いになられたのです。ここに主イエスの神、みこころへの従順な姿がみえます。そしてイエス様はみことばをもってサタンと戦います。

マタイ4:4
「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』と書いてある。」

この言葉は申命記8:3からの引用です。元々この言葉は荒野でいたイスラエルの民に語られたものです。荒野の40年を思い出せ。その時民は、確かに試みを受け、飢え、苦しんだ。しかし、それは、人はパンだけでなく神の言葉によって生きることを知るためだったのだ。なぜならその40年、お前たちの服はすりきれず足も腫れなかった。こういう言葉です。
普通40年、荒野でさまよえば服もボロボロですよ。体も同じくでしょう。しかし足は腫れなかった。健やかだったということです。神の守りがあったのです。食事も大事だが、何より大事なのは神の言葉。まずこれによって人は生きることを知るための訓練がイスラエルの民の荒野の40年だったのです。
その訓練をまさに今私は受けているのだ。パンを出すことは簡単だ。しかし、腹ではなく、全てを満たし続けるのは神のみことばのみなのだ。それを知るための空腹なのだ。主に信頼すれば必ず、守られる。決して着物は擦り切れない。この苦しみを通ってこそみことばへの確信が生まれるのだ。私は人間が通る苦しみ、訓練を今、受けているのだ。サタンよ、邪魔をするな!!そのようにイエス様は言われているのではないでしょうか。

③不安への誘惑―神を試してはならない
みことばによってイエス様はサタンの誘惑に打ち勝ちました。しかし、こりずにまたサタンは誘惑してきます。

マタイ4:6
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」

この言葉は詩編91:11−12からの引用です。今度はアプローチを変えてみことばを使ってもっともらしく説得してきます。これがサタンの狡猾さです。私たちもこの狡猾さに気をつけなければなりません、「悪魔の道具は神の言葉、信仰深さ、文化、宗教、奇跡である」というルターの言葉がありますが、言い得て妙です。さらには、サタンは光の天使を装うことすらあると2コリント書には書かれています。
ここでサタンは神の子ならば、みことばどおり助けてくれるだろ。試して見せてみろよ。神の子かどうか証明してみろよ。そのように迫ってきます。本当に神はお前を守るのか。助けるのか。確かめてみないとわからないじゃん。そういってサタンは不安を煽るのです。そうやって私たちの信仰を揺さぶり、鈍らせ、目に見えるものに頼らせようとするのです。このサタンの誘惑に対しイエス様はここでも、みことばをもって戦われます。

マタイ4:7
「イエスは『あなたの神である主を試してはならない。』とも書いてある。と言われた」

このみことばは申命記6:16の引用です。これもまた、イスラエルの民が荒野で過ごしていた時の場面のことで、荒野の旅で飲み水に欠いたイスラエルがモーセに食ってかかり主を試み、のちに神はこの事件を指摘しモーセより主を試みてはならないことが語られました。
時に神様は私たちを試されることがあります。この試練は訓練であり、私たちにとって喜ばしく思えないことも多いですが必要なことでもあります。神が私たちを愛するがゆえになされることです。決して石や蛇を与えているのではありません。
しかし、人が神を試す。少し厳しい言い方ですがこれは愛ではなく、不信仰によるものです。目で見て、論証して、結果が出たら信じます。水を出してくれたら信じます。これは神への不信です。疑っているのです。信頼とは真逆です。疑いは神様から私たちを最も遠ざけてしまうものといってよいでしょう。
私たちが神さまを試す必要は全くありません。疑い深い私たちに主は、ご自身から完全な愛を見せてくださいました。それがイエス・キリストの十字架です。私たちを救い出すために自らが全てをささげてくださった。これ以上の信頼に足る証があるでしょうか。いや、ないでしょう。私たちは神様を試みてもならないし、その必要もないのです。

④何を礼拝する者として生きるか
イエス様はまたもや、みことばをもってサタンの誘惑に打ち勝ちました。しかし、それでもまだなお、サタンは誘惑していきます。サタンは本当にどこまでもしつこいです。終わったと思いきや、すかさず攻撃をしてきます。全く油断ならないものです。
今度はサタンはこの世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せ、もしひれ伏し私を拝むならこの全てを与えようと囁きます。権力、権威、全てを手に入れたい。支配者として生きたい。誰にも支配されたくない。人間にとって最大の誘惑は自分が全世界を手中に入れ、支配者となって全ての者を自分の意のままに動かすことかもしれません。それは国家にとどまらず、企業、組織、家庭にまで及ぶものといえます。要するに自分が一番偉くなりたい。自分の思い通りに生きたいということです。人間の罪の根源にある「自己中心」という弱点をサタンはついてきたのです。これは人間の欲望そのものに訴えかけてきたとも言えるでしょう。
「お前の欲しいものをすべてやろう。だから私を拝め。」サタンはそう囁いてきます。悪魔礼拝とは何か物々しい儀式をすることではありません。欲望に魂を売るということです。つまり自己中心に生きることを意味します。人にも神にも支配されたくない。自分の欲しいものを追い求め、自分の生きたいように生きるのだ。これは、自己礼拝でありながら、もはや悪魔礼拝とも言えるのではないでしょうか。
私を拝むだけで全てが手に入るのだぞ。こんな簡単なことないだろう。これくらいいじゃないか。サタンは囁きます。確かに頭をさげるぐらい簡単なことかもしれません。しかし、その小さな妥協とも思えることが人生を大きく変えてしまうことになります。自分を取るのか、それとも神を取るのか。これは大変大きな選択なのです。
そんなサタンに対して主イエスは「退け、サタン!!」と非常に厳しい言葉を放たれます。私たちへの誘惑を消すにはこの主イエスのような毅然とした態度と言葉が必要でしょう。絶対的な悪に対しては毅然と、きっぱりとNOと。妥協はしない。そういった姿勢です。そしてイエス様はサタン、自分ではなくただ主なる神を礼拝する者として人は生きるべきなのだとみことばをもって語ります。

『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。』

自分の欲や願望ではなく、神のみこころを求めて私は生きるのだ。イエス様はそう言いたかったのではないでしょうか。そしてその神のみこころは十字架でした。イエス様は全てを手に入れることを拒否し、全てを捨てることを選ばれたのです。それは、神への従順のゆえであり、私たちへの愛ゆえにでした。このみこころを求めた揺るがない決断をされる主イエスに私たちもならいたいものです。どんなときも自分の欲望ではなく神を礼拝する者として生きていきたいものです。そこにこそまことの満たしと祝福があるのです。
イエス様の厳しい言葉を受けてとうとう、サタンは離れ去っていきます。そして今度は天使が現れ、イエス様に仕えるようになりました。主イエスはサタンの誘惑に打ち勝ち、神の子、メシアであることがここで改めて明らかにされたのです。人生の中で誘惑、試練が時にありますが、みことばで戦うその先には勝利と栄光が待っていることがここでよく表されているように思います。

○結ー2つのメッセージ
最後にこの荒野の誘惑、試みを今一度振り返ってみましょう。サタンはあらゆる人間の欲求に訴えてきました。その誘惑に対しイエス様は真正面から向き合い、見事勝利をされました。そのイエス様の向き合い方から二つのメッセージに気付かされます。
一つは主は、あえて神の力を使われなかったということです。この荒野の誘惑の中でイエス様にとって最も大きな誘惑は神の力を使うということだったでしょう。しかしイエス様は、あえて、決してその力をご自分のためにはお用いにはなられませんでした。神の権威は私たちの救いのためにのみお用いになられたのです。できるけどしなかったのです。人としてこの地に来られたことの意味をよくわかっておられたのです。
十字架上でもイエス様は天の軍勢を呼んだりはしませんでした。人としての苦しみをどこまでも受けて死なれたのです。私たち人間の苦しみをあえて、知ることを主は望まれたのです。腹を空かせ、苦しみながらも神の力を使わずにサタンと戦うこの主の姿にどれほど私たちが励まされることでしょう。私たちが苦しみの最中にあるとき、主はその苦しみを誰よりも理解してくださっているのです。

ヘブル2:17−18
「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

そして、このイエス様の姿から語られるもう一つのメッセージはみことばをもってサタンと戦うということです。主イエスは、ここで私たちにその戦い方を実践してくださったのです。苦難の乗り越え方を教えてくださったのです。私たち人間には神様のような力はありません。弱く非力なものです。ですからイエス様はあえてその私たちと同じ立場をとられることによって、試練の乗り越え方、サタンの誘惑への戦い方を教えてくださったのです。試練、誘惑に対して私たちはみことばをもって戦うことによって、守られ、養われていくのです。健全にみことばを受け止め、心に蓄えていればいるほど私たちは甘い誘惑に負けることなく踏みとどまることができるのです。みことばが守ってくれるのです。
そして、その先にあるものは勝利です。主イエスはここでの誘惑にも勝利しましたし、なによりすでに世に勝利されたお方です。その主の恵みにあずかっている私たちもすでに勝利者なのです。

ローマ8:37
「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」

試みの中にいる私たちの苦しみの全てを知っておられる主イエスから慰めを受けつつ、みことばに養われてまいりましょう。みことばに生きる。それこそが、サタンでも自分の欲望でもなく、神を礼拝する者としての生き方であり、そこにこそまことの幸いがあります。そして、それこそがあなた自身をどのような攻撃からも守ってくれるのです。

武井誠司

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional