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苦難の意味 (ルツ1:1~7)

メッセージ
2019年9月1日富里キリスト教会
「苦難の意味」
(ルツ記1:1~7)
1.不幸の連続

「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。その人の名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族のものであった。彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ。夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツと言った。十年ほどそこに暮らしたが、マフロンとキルヨンも死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された。」(ルツ記1:1~5)

ベツレヘムからモアブまでは約60キロ位でしょうか。ちょうど死海を挟んで、反対側の地がモアブです。当時、ユダのベツレヘムでは飢饉が起こり、食料が無くなってきました。また士師が国を治めてはいましたが、あのエジプトのヨセフのようには統率して飢饉対策ができていなかったのでしょう。ユダの人々は食べ物に事欠き、外国へ出稼ぎに出かけることになりました。その一つの家族がエリメレクの家族だったのです。

この家族は、ユダのベツレヘム出身エフラタ族のものでした。ところがモアブに来て間もなく、夫エリメレクは妻と二人の息子を残して死んでしまいます。父親の死を乗り超えるために、二人の息子マフロンとキルヨンは、それぞれモアブの娘をめとって結婚しました。この二人の息子の結婚によって、父親の死後、少しはこの家族にも笑顔が戻って来ました。十年ぐらい一家に幸せが訪れて、暮らしていました。しかし、聖書にはこの後、二人の息子も死んでしまったと記されています。何で死んだのか、どうして死んでしまったのか、聖書は何も書いていません。ただ死んだという事実だけを記しています。

このベツレヘムから来たエリメレクの家族の場合はどうだったでしょうか。この場合は、明らかに失敗した例ですね。どういうわけか大黒柱の父親エリメレクは、家族を残して間もなく死んでしまいました。そして、家族を立て直すために現地の女性と結婚した二人の息子たちも、十年くらいしてから死んでしまいました。結局、一家の男手、三人が亡くなってしまったわけです。

いったいこれはどうしたことでしょうか。母ナオミは後でこう言っています。
「主の御手がわたしに下されたのですから。」「主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのだ。」(ルツ1:13、21)と言っています。つまりこんなにも夫息子と死別してしまうという不幸は、神様の罰なのだということです。神様が信仰の故郷ベツレヘムを捨てて、海外に出て行ってしまったわたしたち苦しめたのだと告白しています。まさに信仰を持ちながらも、神から離れてしまった家族の悲しい姿があります。

そして現に今、海外から来られて、何で自分はこんなひどい生活を強いられているのだろうかと思っている人は他にもおられると思います。一体、何が違っていたのか、なぜ神はわたしに対してこんなひどいこと、不条理なこと、苦しみに会わせられるのだろうかと考えている方は少なくありません。世間もそう見ています。でも問題は果たしてそうでしょうか。その人が罪を犯したからでしょうか。その人に神の怒りが降ったのでしょうか。

Bible said “In the days when the judges ruled, there was a famine in the land, and a man from Bethlehem in Judea, together with his wife and two sons, went to live for a while in the country Moab. The man’s name was Elimelech, his wife’s name was Naomi, and the names of his two sons were Mahlon and Kilion. ・・Now Elimelech, Naomi’s husband, died, and she was left with her two sons. They married Moabite women, one named Orpah and the other Ruth. After they had lived there about ten years, both Mahlon and Kilion also died, and Naomi was left without her two sons and her husband.” (Ruth1:
1-5)
A big tragedy struck Naomi’s family. She was thrown to the bottom of her life without no reason. What shall we explain her tragedy on her life? What shall we explain if the same tragedy struck upon Sanka’s family? Naomi explained this tragedy “the Lord’s hand has gone out against me and the Almighty has brought misfortune upon me.” (1:13,21) Naomi repented her decision and mistake to came out from her homeland for food to the Lord. Her homeland Bethlehem means the house of bread. She may have forgotten the word of life coming from God.

わたしたちは先月もそのような不条理について学びました。なぜ自分だけが兄弟たちからひどい仕打ちを受けるのだろうか。なぜ自分だけが苦しめられるのだろうか。神は果たしているのだろうかという一人の若いヘブライ人の苦難を学びました。そして最後には彼はこう言いました。「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先に(この地に)お遣わしになったのです。」(創世記45:8、7)すべての苦難には意味があるのです。苦しませることを喜ぶ神ではありません。苦難を通して神様は何かをわたしたちに教えているのです。それは最終的には神の救いの御計画の為なのです。

2.苦難の意味と目的

苦しみを受けたヨセフにとって、あの苦しみの地であるエジプトが彼の栄光の輝く出る地となったのです。正しい人間の苦しみを通して実現する神様の大いなる救いの業が、そこにはあったのです。またヨブ記のエリフの言葉に、こういう言葉があります。「神は正しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いて下さる。神はあなたにも苦難から出ようとする気持ちを与え、苦難に変えて広いところでくつろがせ、あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を当てて下さるのだ。あなたが罪人の受ける刑に服するなら、裁きの正しさが保たれるだろう。・・・苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役に立たない。」(ヨブ記36:15~17、19)

当事者には想像もできない、想定をこえた神の救いの業が、そこに計画されていたという事実を思い出すことないでしょうか。もしこのことをルツに当てはめてみますならば、ナオミの家族をモアブの地に遣わしたのは、神ご自身だったのです。神様はあらかじめ、イスラエルを救うために、この名もない小さな一つの信仰の家族を、モアブの地に遣わされたのです。そこで苦難を通して、一人の異邦人の女性をベツレヘムに連れてくるためだったのではないでしょうか。

そこでナオミの信仰は徹底的に打ち砕かれました。食料のためにベツレヘムを後にして、外国に来てしまった自分の罪を悔い改めたのです。ベツレヘムという名前の意味は、文字通りベイト(家)とレへム(パン)からできています。まさにベツレヘムはもともと「パンの家」なのです。神様はイスラエルの民をなくてならない神の御言葉という永遠の命のパンで養ってくださるという町です。そこを見捨てて来たのです。あるいは食糧だけではなく、士師記時代の混沌とした無秩序の国を見捨てて、外国に来たのかもしれません。ナオミはそのことを神の前に悔い改めました。「主の御手がわたしに降されて、全能者がわたしを不幸に落とされた。」と告白しました。この不幸は神からのものだと言ったのです。

そして彼女は、再び自分の恥も体裁も家の名誉も、一切をかなぐり捨てて、故郷ベツレヘムへ帰る決心をしました。「ナオミは、モアブの野を去って国に帰ることにし、嫁たちも従った。主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということをモアブの野で聞いたのである。ナオミは住み慣れた場所を後にし、二人の嫁もついて行った。」(ルツ1:6~7)

ナオミは十年以上前に、家族四人で出て来た故郷ベツレヘムに戻ろうと決心しました。かつて一家4人で、故郷を捨てて出て来て、外国で一旗揚げよう、財産を築いてからまた帰ってこようと考えていたナオミでした。しかし、実際は、モアブの地で夫を亡くし、最愛の二人の息子にも先立たれて、まるで神から見放されたかのような惨めな結果となってしまったのです。ふつうでしたら、どんな顔をして帰ればいいのだろうかと考えてしまいます。恥ずかしいです。体裁もあります。プライドも誇りもあったでしょう。

でも今彼女は、そういう見せかけのことはすべて忘れて、恥を忍んで、一人寂しく孤独と失敗と悲しみの服を着て帰るしかありませんでした。おそらく、世間からなんと言われても言い、「そら見たことか。行かない方がいいと何度も言ったでしょうに。」と言った親戚や町の人々の非難の声を覚悟していました。まるでその様子は、あの放蕩息子が、食うに困ってボロボロになって、乞食同様に落ちぶれて、自分の父親の家に帰って行くような思いだったのではないでしょうか。

Bible said “When she heard in Moab that the Lord had come to the aid of his people by providing food for them, Nomi and her daughters-in-law prepared to return home from there.” (1:6)
Naomi’s family that came from her homeland want to build a wealth of money abroad. But she lost her husband and two sons. She was broken her desires and pride. She made walk through the dark and bottom of her life. Through the darkness of her life she repented her decision of life to get a wealth. She lost nothing, like a prodigal son, decided to go back her homeland Bethlehem. She depended upon the grace and mercy of God. This will become the central theme of Samuel and Kings. This is the one thing that we cannot get without hardship.

もはや、彼女の心には一抹のプライドも恥もありませんでした。わたしは神に対して罪を犯しました。もうベツレヘムの人と呼ばれる資格はありませんが、どうかもう一度、あなたたちの仲間にして下さい。神の家族として身分を回復させてください。何でもします。今はただ全能の神様の憐れにすがるほかありません。どうぞこの哀れな寡婦に神のお恵みを賜ってくださいという思いで帰って行ったのではないでしょうか。自分の恥もプライドも捨てて、一人の憐れな落ちぶれた放蕩息子として、神の家族のもとへと帰って行ったのではないでしょうか。

そういうナオミの信仰を見ていた、ひとりのモアブ人の嫁ルツも、しゅうとめと一緒に帰って行く決心をいたしました。この哀れな異邦人の嫁と失敗した姑の信仰から、あの偉大なイスラエル、ダビデ王国が起こされてゆきます。この信仰がダビデ王国建設の大きな信仰の核となって行ったのです。ここにダビデ王国の原点があるのです。苦難を経なければ、真に手に入れることができないものです。それはへりくだって神の前に出ること、そして自分の罪を告白して神の裁きに服する覚悟をすること。その時に、神は大いなる愛と憐れみをもってその人の罪を赦し、救いの祝福の内に置いて下さるのです。そのことをこのルツ物語は教えているような気がします。

わたしたちもたとえ人生に失敗しても、あるいは信仰の旅路にあって迷い出るようなことがあっても、それも神様の救いの御計画の一つだということです。そのような苦難や失敗や挫折を経験してみなければ分からない世界があるのです。
神様は異邦人の女ルツを、このイスラエルの信仰の系図に加えるために、あえてナオミ一家をモアブの地へと遣わしたのではないでしょうか。それは、ひとえに神様の憐れみと恵みに依りすがって生きるという信仰の人を探すためでもありました。この異邦人ルツの信仰が、サムエル、ダビデ、ソロモンへと続くイスラエルの信仰の系譜となって行ったのです。そのような思いで、この短い信仰の物語を学んでまいりましょう。(岡田 久)

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