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苦難の意味 (ヨブ36:15~21)

メッセージ

2016年2月7日富里キリスト教会

「苦難の意味」
(ヨブ記36:15~21)

1.苦難の人ヨブ

この書の主人公のヨブは本当に信仰深く、まじめで敬虔な生活をしておりました。そして神様からも祝福されていたのです。(ヨブ記1:1~3)神様も自慢するほどの信仰者でした。するとそこにサタンがやって来て、こう言いました。「彼が信仰を持っているのは、あなたが祝福して財産を守っているからだ。もし、彼が全財産を失い、家族を失い、自分も病気になってしまったら、すぐにあなたを呪って信仰なんか捨ててしまいますよ。」(1:9~11)と。「じゃあ、ヨブの財産も家族もなくしてみなさい、また彼がたとえひどい病気になっても、ヨブは信仰を捨てることはない。ただし、命だけは取ってはならない。」と神は言いました。その結果ヨブは、財産を奪われ、子供たちも殺され、最後は全身を皮膚病におかされました。誰も近づこうとしないほど、見るも無残な姿になりました。

確かにヨブのような人生を送った人は他にもいるのではないでしょうか。突然の自然災害、津波や土砂崩れ、河川の氾濫、原発事故、何も悪いことをしていないのに、なぜ神はこんな目に遭わせるのだろうか。家族の死、病気、倒産など、本当に突然の不幸が善良な人々を次々と襲うというケースが、近年増えて来ています。「なぜ?」「どうして?」「神はいるんだろうか?」「何も悪いことをしていないのに、むしろ正しい生き方をしてきたのに、何でこんなひどいことを神はするのだろうか。」そういう正しい人、義人の苦しみについて論じたのがこのヨブ記です。

ヨブの妻は言いました。「いつまで神を信じているのですか、いい加減神を呪って死んだ方がましでしょう。」(2:9)と。それでもヨブは、言葉をもって罪を犯すことがなくこう言いました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(1:21,2:10)と。

しかし、やがてヨブは自分の生涯を呪い、命を呪って、神に向かってあらん限りの自分の考えをぶちまけます。それがこのヨブ記の長い文章になっています。それを聞いた三人の友人が、ヨブに対してなぜあなたはそんなにまで苦しみを受けなければならないのかということについて説明し、説得を試みます。しかし、この三人の友人の言わんとしている所は、人間がそれほどの苦難を背負うのは、その人の罪によるものであり、ヨブの苦しみは神からの罰なのだということでした。しかし四人目の友人エリフは違いました。

2.苦難は自分の罪を悔い改めて、
耳を開いてもらうためのもの

青年エリフはこう答えています。「あなたは神を見ることはできないというが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ。・・・捕らわれの身となって足枷をはめられ、苦悩の縄に縛られている人があれば、その行いを指摘し、その罪の重さを指し示される。その耳を開いて戒め、悪い行いを改めるように諭される。もしこれに耳を傾けて従うなら、彼らはその日々を幸いの内に、年月を恵みの内にまっとうすることができる。しかし、これに耳を傾けなければ、死の川を渡り、愚か者のまま息絶える。神を無視する心をもつものは、鎖につながれていても、怒りに燃え、助けを求めようとしない。彼らの魂は若いうちに死を迎え、命は神殿男娼のように短い。」
(35:14,36:8~14)

神様は、正しい者も正しくない者も、苦しみを通して苦悩の鎖に閉じ込めることがあるというのです。苦難が襲うのは、善人、悪人の区別なく誰にでも起こることなのです。信仰者でも起こります。ただ、そこで試されるのは、神を信じる者は、その苦しみの中で、自分の罪を認め、それを悔い改めて立ち上がろうとするというのです。つまり真の信仰者というのは、苦難を通して自分の非、過ち、自分の罪を認めて、主の前に悔い改めて、今度はみ言葉に従おうとする生き方を始めようとするもののことです。人生万事祝福の内に順風満帆で行く人はいません。そういう人は、ある意味では神に愛されていない人かも知れません。神は本当に愛する者を、突然の苦難と苦しみのどん底に突き落とされます。挫折と絶望へと突然、理由なく突き落すことがあります。(皆さん用心しましょう。)そしてそこで、その人の信仰を試されるのです。

家族が祝福され、財産が与えられ、信仰を持って日々に神に礼拝を捧げていることが幸いなことではなく、一番大切なことは、逆境を通して神の御言葉を聞く耳が開かれるということなのです。「(神は)その耳を開いて戒め、悪い行いを改めるように諭される。もし、これに耳を傾けて従うならば、彼らはその日々を幸いの内に、年月を恵みの内にまっとうすることができる。」(36:10~11)また15節でも「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。」のです。この人生の苦難や試練を通して砕かれた後の平安と祝福の内に生きることが、本当の意味での恵みの人生です。

わたしたちが人生で出会う苦難の意味は何か。それは、その苦難を通して神様が私たちの罪を示されるということと、そこから自分の罪を認めて悔い改めることです。そして神の御言葉を聞く耳が与えられることが人生の最高の幸せだというのです。「耳が開かれる」ことです。エリフは何度のそのことを言っています。「聞く耳が開かれるために」、神は私たちを苦しめに会わせられるのです。
人間は痛い目を見なければ、苦しまなければ、なかなか神様の真実が分からないということです。36:18の御言葉を見て下さい。「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役に立たない。」とあります。苦難はわたしたちの真実の心を鍛えるための溶鉱炉のようなものです。

3.苦難は最高の教師

この世の富とか地位、名誉とかと言ったものに頼ってはいけないと、エリフはさらに警告しています。神は、そのようなこの世のものを誇り、それに頼ることのないようにさせるために、人を苦難のどん底に突き落とすのです。そのような苦難を通して見て、初めて自分の人生というものが見えてくるのではないでしょうか。人生は苦労してみなければ、苦しんで働いてみなければ、一円の価値も解りません。

「だから注意せよ。富の力に惑わされないように。身代金が十分あるからと言って道を誤らないように。苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役に立たない。夜をあえぎ求めるな。人々がその場で消え去らねばならない夜を。警戒せよ、悪い行いに顔を向けないように。苦悩によって試されているのは、まさにこのためなのだ。」(36:18~21)

富の力、お金の力に惑わされるな。金さえあれば何度もできる世の中ですが、それは道を見誤ってしまいます。自分の罪の後始末をする身代金、補償金でしょうか、それをいっぱいかけているからと言って危ないことに手を出してはいけないということです。株などのマネーゲームで稼いだお金は、手元に残りません。苦難を経ないで手に入れたお金は、湯水のようにみんな使ってしまいます。「警戒せよ。悪い行いに顔を向けないように。苦悩によって試されているのは、まさにこのためなのだ。」(36:21)ですから苦難は、わたしたちにとって人生のテストであり、最高の教師であり、コーチなのです。

ここに苦難の二つ目の意味があります。それは人生の最高の教師でありコーチだということです。ですから22節以降にこう言っています「まことに神は力に秀でている。神のような教師があるだろうか。誰が神の道を見張り、『あなたのすることは悪い』と言えようか。世の人は神の御業に賛美して歌う。あなたも心してほめたたえよ。」(36:22~24)神のような教師があるだろうか、神こそ最高の教師であり、コーチなのです。

ですから私たちは、真剣に神を礼拝しなければなりません。どんなことでも、手を抜かずに、真剣に真面目に、どんな小さなことにおいても神を信じて、見えない神に仕えているものとして歩まなければならないのです。24節の「あなたも心して、ほめたたえよ。」と言っています。「心して」ということは注意して、真剣に、誠心誠意手を抜かずにやりなさいということです。賛美をするにしてもです。心して讃美しなければなりません。

苦難の意味、それは神様が私たちを訓練し教育をし、わたしたちを砕いてへり下らせて、真剣に神に仕えるものとして下さるための愛の方法です。そして、自分の義を立てるのではなく、自分の罪を認めて主の前に悔い改めて、御言葉に従う者となるための愛の鞭です。パウロも「わたしは艱難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。」(ローマ5:3~4)人生のどんな苦難も、神の深い愛の御計画のもとになされたのであるということを覚えたいと思います。そして苦難を避けるのではなく、苦難をも喜んで受け止めて行くことのできる者になりたいと願っています。

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