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苦難の僕 (イザヤ53:3~10)

メッセージ

2014年11月9日富里キリスト教会

「苦難の僕」
(イザヤ書53:3~10)

1.十字架の栄光のキリスト

まず最初にイザヤは、主の僕の紹介と宣言を力強く述べています。つまり、世の人々に向かって、「見なさい。これが私たちの神そのものです。」と紹介しているのです。「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て王たちも口を閉ざす。誰も物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。」(52:13~15)

「わたしの僕」とは主なる神様の忠実な僕ということです。それは人の子として、神から遣わされこのメシヤなる救い主を意味しています。人の子というのはメシヤ(=キリスト)の称号のことです。預言者は、来たるべきメシヤ(=キリスト)を「人の子」と呼びました。イスラエルを救う神からの使いです。そしてその人の子は、13節に「栄える者」「高く上げられるお方」「人々にあがめられる方」でもあるのです。三つの賞賛すべき点が述べられ、まさに神そのものでもあるお方です。高いところにおられ神の栄光に輝き、すべての人々の賞賛と崇拝の対象となっておられる方だというのです。

ところが状況は一転して、驚きと恐れに変わります。それはこのお方は、威光と力をもって天から降って来られるはずなのに、この主の僕の姿が損なわれて、人とは思えないほどの顔立ちになっていたからです。そこには威光に輝く「人の子」として威厳も美しさもなく、見る影もないほどやつれ苦しみにゆがんだ顔だったからです。その顔を見た者は、あまりの変わりように言葉を失いました。預言者は、この人を見よ、これこそイスラエルを救う神の僕であると宣言し紹介しました。

確かに人の子は高く上げられました。でもそれは、天の高い御座にではなく、一人の罪人として十字架の木の上に高く吊るされる恰好で上げられたのです。しかも、両手両足には太い釘を打たれ、裸にされ、茨の冠をかぶせられ、王としての威厳もメシヤとしての威光もなく、ただ、ただ一人の惨めな罪人として、犯罪人同様の仕打ちを受けて十字架の上に高く架けられたのでした。これこそ栄光に輝き、全世界の人々にあがめられほめたたえられるべきメシヤなるキリストであり、我々の神そのものなのだと紹介しました。

2.人間の浅はかな考え(無知と誤解)

「わたしたちが聞いたことを、誰が信じ得ようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」(イザヤ53:1~4)

キリストの十字架の姿を見て、多くの人はつい目を背けたくなってしまうでしょう。これが、神の姿かと。どこにも威厳の輝きも権威もなく、顔も別人のようにやつれて果て、目はうつろになり、口を開けて息も絶え絶えに荒い呼吸をしいている一人の死刑囚です。誰でもつい、目を背けたくなるような情景です。
そして自分は関係ない。この苦しみはこの人自身の報いなのだ。だから神はこの男にこうして罰を下されたのだ。自業自得ではないか。みんなそう思いました。「わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ。」(4節)と。

美術館にあるイエス・キリストの十字架の絵を見て、これを絵画の鑑賞の対象としてみるならば、その絵は何の価値もない駄作にすぎないのではないかと思います。キリストの絵は信仰の絵です。見る者を、そのままにしては置きません。「あなたの罪のために、私は苦しみ、こうして神の罰受けて今苦しんでいるのだと訴えているのではないでしょうか。それだけ、人間の罪の大きさ、罪の姿を人々の目の前に突きつけているのではないかと思います。

でも信仰の目をもって見る者にとっては、そこに罪の悔い改めと、絵の前にひざまずいて十字架の主を見上げる感謝と賛美と崇拝の思いを湧きおこさせてくれるのではないでしょうか。「わたしがあなたの罪を贖った。わたしがあなたの罪の身代わりとして自分の体を献げ、その肉体にあなたが受けるべき罪の罰と呪いを受けているのだ。」と。

3.身代わりの苦しみとしての十字架

5節から読んでみます。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(53:5~6)

ここで預言者は、人の子であるメシヤなるキリストが、なぜ十字架に高く上げられなければならないのかということについて、はっきりと断言しています。
それは、私たちの背き、私たちの咎、私たちの罪のために、その身代わりになって自分の体を十字架につけて、自分の肉体の上に神の罰と呪いと裁きをすべて受けて下さったということです。

キリストが私たちの身代わりになって、その罰を受けて下さったのです。そのキリストの傷とキリストの受けた懲らしめの故に、私たちは神との平和が与えられ、安らぎ癒されたのです。同じイザヤ書の中にも有名な「恐れるな、わたしはあなたをあがなう。あなたはわたしのもの。わたしの目にあなたは高価で貴い。だから私はあなたの罪の身代わりとなる。」(イザヤ43:1,4)という言葉がございます。

人間は、自分ではどうしたらいやしてもらえるのか、どうしたら平安が与えられるのか、知ることができません。真の癒しと平安はこのキリストの苦しみと傷によらなければ、与えられません。私たちの心の中の傷とか痛みとか罪とか咎といったものは、自分でいやすことはできないのです。誰かが、自分の罪を教えて下さり、目の前に突きつけて下さらなければ知ることはできません。誰かが私の罪の身代わりとなって、罪を贖い、神との和解の道を開いてくださらなければならないのです。「彼、キリストの受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、キリストの受けた傷によって、私たちはいやされたのです。」
(5節)そして神は、この私たちの罪をすべて、キリストに負わせられたのです。ここに、私たちの罪の身代わりとしてのキリストの苦しみがあるのです。

4.復活の光(苦しみの彼方に)

最後に、この苦難の僕は、主人である神様に逆らうことなく、忠実に自らの苦難の道を歩まれました。53章7節と10節を読んでみましょう。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」
(53:7、10~11)

主の僕は、この苦難の道をいやいやながらではなく、まるで屠殺場に引かれてゆく子羊のように、黙々とその道に従いました。しかし、彼の目はその苦しみの只中にあって、はるか彼方に一筋の光を見ていました。10節に「子孫が末永く続くのを見る」とあります。また11節に「苦しみの実りを見、それを知って満足する。」とあります。つまり自分の贖いの業によって、救いに入る者の子孫が永遠に続くことです。そして、この苦しみはただ単に苦しみで終わるものではありません。必ず、この苦難の彼方に希望の光があることを確信していました。

それ故に、彼は自分の苦しみを見て満足するのです。自分の苦しみはただ単に苦しみで終わるものではないということです。必ずこの苦しみの彼方には光があり平安が待っているということです。それを見て彼は喜び満足するのです。たとえ今、苦しみに中にあっても、また病の中にあっても、暗闇の中に置かれていたとしても、その先には必ず光があり喜びがあり満たされることがあるのです。そしてすでに「主なる神の望まれることは、彼イエス・キリストの手によって成し遂げられました。」(10節)この苦難の主の僕以外に、神の救いの業を成し遂げることのできる者は他にいません。

この苦難の僕であり十字架につけられた私たちの神を信じる者には、必ず光が待っているのです。これが冒頭にあった「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」という私たちの贖い主なる神の姿なのです。ここにこそ私たちの救いの根拠があります。苦しみは苦しみでは終わりません。苦しみの中に、苦しみを通して、苦しみことによって、そこにこそ、いと高き天の御座におられる主なる神の恵みと栄光が輝き現われていたのです。

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