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苦難と共にある御名の栄光 (Ⅱテサロニケ1:1~12)

メッセージ
2020/07/12
富里教会礼拝説教
「苦難と共にある御名の栄光」
(Ⅱテサロニケ1:1−1:12)

①手紙が書かれた背景
私たちは、ここしばらく第Ⅰテサロニケの信徒への手紙を通して、みことばの恵みをいただいてきました。今日からは二つ目の手紙、第二テサロニケの信徒の手紙に入ります。聖書におけるパウロの手紙は、たまに同じ教会に向けて一通だけでなく2通送っているものがあります。当然のことですが、同じ教会宛であっても、それぞれの手紙には目的が違ってきます。私たちもの手紙もそうですよね。出す人は同じでも、出す内容や、目的は違ってきます。それと同じようにこの第二テサロニケの信徒への手紙も、独自の背景があって書かれているわけです。
このテサロニケの信徒への手紙の第一と第二の間にどれだけの期間が空いてあったかは、はっきりとはわかっておらず、そこに関しては推測するしかないと言われております。しかし、わずか数カ月と思われるというのが大方の推測です。それは、この第二の手紙の内容を見ていくと、迫害が続いていることが第一の手紙と同様に書かれており、教会の外的状況にそれほど大きな変化がみえないからだと言われています。
また、第2の手紙を書いた直接の理由に関してはこれまた2つほどあると言われています。一つは迫害下の中、頑張って耐えているテサロニケ教会の人たちを励ますという理由です。これは、第一の手紙と同じ目的だと言えるでしょう。そして、二つ目はテサロニケ教会の人々に「主の日がすでにきたかのように」言いだす者が現れて、人々を混乱させていたので、彼らを正すため。そして、仕事をせず余計なことばかりしている人に適切な指示を与えるため。これが二つ目の執筆理由と言われています。
それゆえ、この手紙の前半は苦難における終末の希望、神のさばきに関すること、後半は現在の生活のしかたに直接関係した勧告を与えるといった内容になっています。きょうは、その前半部分である、迫害下におけるテサロニケ教会の人たちへの励ましであり、終末に関する内容になります。
ここ数週間、終末や、神のさばきなど重いテーマが続きますが、それがこのテサロニケの信徒への手紙の特性でもありますから、わたしたちは聖書のどのような箇所においても、そのみことばにおけるメッセージを謙虚に、素直に、柔らかい心を持って感謝して受け止めたいと願います。そこにこそ、まことの慰め、慈しみがあるからです。

②信仰成長Ⅰ―愛の実
1:3
「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」

パウロは、テサロニケ教会の人のことを思ったとき、神様に感謝せずにはいられない、いや、もうそれは当然のことだと彼らを大胆に褒めます。このような表現は、どのパウロ書簡においてもあまり見られない珍しいことです。これは、それほどテサロニケ教会の人たちの信仰成長が目を見張るものであったことを示すと共に、先ほど言った執筆の第一目的である迫害下の苦しみにおける彼らに対する励まし、エールであったと思われます。
しかし、大胆に褒めてはいますが、これはただのリップサービスではありません。現にパウロは他の教会への手紙においては状況に応じて厳しい言葉もかけています。ガラテヤの信徒への手紙においては、「ああ、愚かなガラテヤ人」と言ったり、不品行にまみれていたコリント教会の人たちには皮肉たっぷりに語ったりもしています。パウロは各教会の状況に合わせ、牧会的配慮をしつつも、吟味し、時に褒め、励まし、時に戒めています。決してここで、お世辞を言っているわけではないのです。純粋な褒め言葉です。
あまり褒め過ぎても豚もおだてりゃ木に登るなんて言葉もありますから、(私なんか単純なのでまさに登る方なのですが)、褒めるのもほどほどぐらいがいいかもしれませんが、このパウロの言葉のように正当な評価である褒め言葉は素直に伝えるべきですし、受ける方も喜んで素直に受け止めるべきでしょう。どうも、日本人は褒めることも褒められることも苦手な傾向があるようです。おそらく、一般的に日本人の言葉には、本音と建前といった表と裏の言葉の意味があったり、お世辞を言ったりする文化もあることが原因の一つにあるように思います。
しかし、私たちはキリストの恵みに預かる兄弟姉妹なのですから、お世辞も建前も必要ありません。素直に、良いと思うところは褒め合い、受ける方は素直に褒め言葉をそのまま感謝して受け止める方がよいのではないかと思います。ただ、高慢にはならないようには気をつけましょう。受けた褒め言葉が果たして今の自分に本当に適したものかという自己吟味もしていく必要があるでしょう。
話が少しずれました。戻します。パウロはテサロニケ教会の人たちの信仰成長を神に感謝しました。そして、その信仰成長は「お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっている」ことからわかるとパウロは言います。信仰の成長とは、どのようなことを見てわかると皆さんは思いますか。聖書の知識ですか?奉仕の量や内容ですか?信仰歴の長さですか?いずれも違うと思います。信仰の成長とは愛によって表されるのです。
いかに人をイエス様の愛で愛しているか。自分を後回しにして、隣人のために全てをささげていくような愛です。その愛がどれだけ表れているかによって、一個人としてのキリスト者の信仰成長をみることができるでしょう。また、イエス様の愛でどれだけお互いに愛し合っているか。その表れによって教会としての信仰成長をみることができます。教会の成長とは、本質的には数が増えることや立派な会堂が建つことではありません。イエス様の愛が存分に表れることによってこそ教会は成長していると言えます。
なぜなら、私たちが愛し合うことはイエス様からの大切な戒めであり、その愛の姿から私たちはキリストの弟子であることを証しすることとなるからです。

ヨハネ福音書13:34−35
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

③信仰成長Ⅱ―忍耐の実
次に、パウロは信仰成長を表すもう一つの実についても語ります。それは忍耐です。パウロは迫害と苦難にありながらも忍耐を持って信仰を示しているテサロニケ教会の人たちを諸教会の誇りとまで言っています。愛、そして忍耐は、どちらもクリスチャンの成熟度を表すとても大切な徳目なのです。
そして、その苦難における忍耐は、信仰者の人格を練り上げ、成長させ、希望に生きる者と導いてくれます。ローマ書5:3−4に書かれている通りです。

「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

苦難というものは、辛いものです。できれば受けたくないものです。それが人の本音ですし、私も例外ではありません。しかし、苦難によって私たちはさらに神さまとの信頼関係、絆を深く、強めることになることもまた、真実であることを皆さんは信仰者として生きていく中で実感してきたのではないでしょうか。少なくとも私は、その実感が強くあります。苦難が信仰を成長させ、希望に繋がり、その信仰者を神の国にふさわしい者とするのです。苦難にも神様のご意志、意味があるのです。
テサロニケ教会の人たちはその神様のご意志、みこころを両の手で受け取り、感謝し、喜び、忍耐したのでした。「なぜ?」と言いたくなるような苦難は生きている中で何度も起きます。不平不満や、神さまを疑いたくなるかもしれません。しかし、その苦難には必ず意味があるんだ。そういって踏みとどまる先にこそ、決して消えることのない希望が待っているのです。そして、いつか、この苦しみの意味がわかる時がくるのです。途中で投げ出してしまえばその意味はわかりません。バッドエンディングで自己完結してしまいます。しかし、神様が私たちに用意されているものは間違いなくハッピーエンドです。信じて踏みとどまり、そのハッピーエンドを迎えたいものです。
苦難を忍耐するということは、その神さまのご計画への信仰告白なのです。これこそ神の国にふさわしい者です。苦難が私たちを神の国にふさわしい者へと練り上げて、そしてわたしたちはいつか、その神の国、新天新地で永遠に神さまと共に生きることになるのです。みことばが約束をしてくださっています。

Ⅰペテロ1:6−9
「今、しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなた方の信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

④神の正しいさばき
 苦難を忍耐した先に希望がある。それは確かにそうですが、目の前に自分を苦しめる人がいて、その人の攻撃を忍耐し、憎まず、反撃をせずに人はいられるでしょうか。中々そうはいかないでしょう。なぜ、テサロニケ教会の人たちは忍耐できたのでしょうか。それは、神の正しいさばきを信じて、全てをお委ねしていたからです。

6−7節
「神はただしいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみを持って報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。」

正しいさばきは神様がしてくださるのです。神様ご自身が「復讐はわたしのすること、わたしが報復する。」と語っておられます。しかし、これは、単純に「神様が仕返ししてくれるから、あいつらは地獄行きだ、ざまあみろ。」ということではないように思います。どのような理不尽な目にあっても、最終的には神様がもっとも正しい判断をしてくださるのだ。そのように神様に信頼し、お委ねすることによって私たちの心は自分の敵、悪に対する、憎悪、怒りから、解放され、逆に神様と共にある平安、心の休息が与えられるのです。それゆえに私たちは忍耐することができるのです。
私たちは聖であり、義である神さまを主と信じています。それゆえ、神が憎む、悪、罪を私たちも憎みます。しかし、人は憎みません。それもまた、神様がそのようなお方ゆえです。罪のないお方を妬みのゆえに罪ある者として十字架にかけ、唾をかけ、罵り、敵意を余すところなくぶつけるという、悪の極みに対して、主イエスは、「父よ彼らをおゆるしください」と祈りました。主は悪に対して最善を返されました。それがキリストの十字架です。これが神の愛です。私たちも、罪、悪は憎みつつも、さばきは全て神様にゆだねつつ、その人のために祈る者でありたい。そう願います。

⑤さばきではなく主の御名を求めて
この世の全てを把握し、この世にある全ての善と悪を見極める全能の主、さばきぬしなる神様は矛盾に満ち、悪と罪が溢れかえるこの現代の世界を、その悪に染まり、弱き者を平気で踏みにじり、苦しめる者を、公正でもっとも正しいその報いに応じたさばきを最終的に行われます。神様が最も正しい判定をしてくださる。そこに立った時、私たちは悪を憎みつつも、悪をもって自分を苦しめるという者を憎み、呪うという自分自身の罪から解き放たれていきます。私たちが見るべきは、さばかれる者の末路ではありません。

12節
「それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。」

私たちが見るべきものは主イエス・キリストの十字架の恵みです。わたしたちがさばかれないのは、私たちに正しさがあるからではありません。イエス様が私たちの罪を全て背負われ、身代わりにさばかれた。そのお方の贖いゆえに今の自分があるということです。人の罪をみてさばくのではなく、私たちを愛するがゆえに甘んじてさばきを受けられた、イエス様を見るのです。イエス様と共にあるからこそ私たちはさばかれないのです。そこを私たちは重々踏まえなければなりません。

マタイ福音書7:1
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」

そして私たちが求めるべきことは、その主イエスの御名があがめられることです。主の祈りの冒頭はどうだったでしょうか。

「天にまします我らの父よ 願わくは御名をあがめさせたまえ」

私たちが最も、最初に求めるべきことは主の御名があがめられることなのです。聖書において名前とはただの呼び名ではなく、本質そのものを表します。ただ名前があがめられるのではなく、聖なる正しい、愛と慈しみに満ちた神様の存在そのものがあがめられますように、ということです。そして、そのような神様の栄光が表されることを望んだ時、はじめて私たちはその主の栄光に預かる者となれるのです。自分を苦しめる者の罪を見るのではなく、そのすべての罪を贖われた主の御名、その本質である十字架の恵みを私たちは苦しみの中でこそ見上げていきたいと願います。
生きている限り、私たちの人生には色々なことが起こります。世の中は不条理です。憤りを覚えたり、傷つくこともあるでしょう。悪が栄えているように見えることもあります。クリスチャンであるがゆえにこの日本でいきていく中で苦しみを覚えることもあるかもしれません。しかし、その不条理は必ず神様が公正をもってさばいてくださります。
そして、そこにある苦難は、実は私たちクリスチャンの愛と忍耐を育て神の国という希望へと導くものでもあるのです。私たちには理解できない深い神様のご計画を信頼し、全てを委ね、私たちは、私たちのために全てをささげてくださった主イエスの御名があがめられことを求めて生きてまいりましょう。

武井誠司

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