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良い業を成し遂げて下さる主 (フィリピ1:1~11)

メッセージ

2016年1月17日富里キリスト教会

「良い業を成し遂げて下さる主」
(フィリピ1:1~11)
                 
1.パウロの感謝と喜びの祈り

このフィリピの手紙の冒頭で、パウロがこの手紙の宛先人を書いています。「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリストに結ばれているすべての聖なる者たち、並びに監督たちと奉仕者たちへ。」(1:1)とあります。これは今日の教会にあてはめてみますと、フィリピの教会員全員と監督というのは牧師ですね、そして奉仕者というのは役員ということになるのでしょうか。当時から監督である牧師と様々な奉仕を担う奉仕者と教会のメンバーという形ができていたようです。

そしてパウロは彼らのために祈っているのですが、こう記しています。「わたしは、あなたがたを思い起す度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」(1:3)と。パウロはフィリピの信徒のことを思い起す度に、心に感謝が満ち溢れて来ました。そして祈り出すともう喜びいっぱいになるのです。わたし自身富里教会の兄弟姉妹を覚えて祈り時に、いつも感謝と喜びで胸がいっぱいになるような気持ちで祈っているだろうかと反省させられました。

そして何でパウロが、こんなにも感謝と喜びをもって祈っているのかといいますと、その理由が5~6節に記されています。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中でよい業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」(1:5~6)と言っています。つまり、最初から今日に至るまであなたがたが福音にあずかっていることです。パウロが川岸で説教をして、それによって救われたリディアの家族、そして牢屋番の家で家族全員にバプテスマを施した日以来、ズーっと彼らは福音に立ち、信仰の道を歩んできました。今日、他行会員の方が多い中、最後まで続けて教会に来て、信仰を守り続けるということはなかなか容易なことではありません。

信仰が継続していることを喜んでいるのです。そしてそのよう業を始められた方が、キリスト・イエスの日までには、その良い業を成し遂げて下さるという強い確信を持っているから喜んでいるのです。パウロは、信仰を完成する時が必ず来るということを信じていました。それは主の再臨の時までには成就するというのです。確かに教会はいろんな課題や問題を抱えています。信徒も課題や試練や挫折もあります。信仰の途中で道から離れて行く人も少なくはありません。道を迷ってさ迷っている人もいるでしょう。でも、たとえ今離れていても、背を向けていても、主の再臨の時までには、最初の信仰の種が成長し成熟して、立派な実をつけるようになるということを信じていました。

しかも、パウロは、今捕らわれの身です。ローマの監禁状態の中で手紙を書いているのです。しかも彼は、フィリピの兄弟姉妹に「早くこの監禁状態から解放されて自由の身になるように祈って欲しい。」とは一言も書いていません。むしろ、1:12では「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知って欲しい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためである」と言っています。パウロはたとえ自分が投獄されても、それは福音の前進のためであり、キリストのためなのだからといってフィリピの人たちを励ましているのです。ですから、神様の御業には、失敗だったとか、無駄だったということは一切ないのです。どんなマイナスのことであっても、すべては福音の前進のためであり、キリストのためなのですから。

たとえ暗闇の中、牢獄の中であっても、祈りによって神様が働かれるのです。それは感謝と喜びの祈りです。わたしたちの教会も伝道開始から今日まで、一回も礼拝を休まず、そして皆さんが福音にあずかって走って来ました。確かになかには、コースを外れて今休んでいる人もいるかもしれません。でも、パウロは確信しています。そういう人もやがては、悔い改めて主に立ち帰って、福音に立って歩む者とさせてくださると確信していました。これがパウロの祈りです。そしてフィリピの教会の祈りでもあったのです。わたし達も完成させてくださる主を見上げて走り続けようではありませんか。

2.パウロの三つの祈り

更にパウロは、今現在、自分が牢獄からフィリピの信徒のあなたがたのために、こういうことを祈っていますと書いています。「わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(フィリピ1:9~11)

パウロはここでフィリピの方々のために三つの祈りを捧げています。一つは「知る力と見抜く力を身に着けて、愛が大きくなり重要なことを見分けることができるように」ということです。二番目は「主の再臨に備えて、清い者、神様にとがめられるところのない者となるように」ということ、そして三番目は「義も実にあふれて、神の栄光と誉れをほめたたえることができるように」ということです。これは一つの流れをもったような祈りですね。

まず第一に、「知る力と見抜く力」です。英語では「KnowledgeとInsight」です。別な日本語では「知識と洞察」となっています。まず第一に、聖書の知識、神についての知識を身に着けることです。クリスチャンになったから、なんか人の良いことをすればいい、世のためになることをすればいいというのではありません。(私もそういう時期がありました。)でもまず行動を起こす前に知識を身につけましょう。そして物事の本質を見抜く深くて鋭い洞察力を身につけましょう。

そのようにして初めて私たちの愛が、ますます豊かになって行くのです。その結果何が大事か、何が重要かを見分けられるようになって来るのです。そういうクリスチャンになって欲しいとパウロは第一に祈っているのです。知識によって愛がますます豊かになります。知識のない愛は、単なるヒューマニズムに過ぎません。余計なおせっかいかもしれません。大事なことがまだ見えていないのです。少し冷たいようでも、じっくりと物事の本質を見分ける力を持つことができよう私も祈っています。

二番目が主の再臨に備えて清い者、とがめられるところのない者となって欲しいという祈りです。英語ではPure Blamelessとなっています。先ほどの方のように、間違った愛の行動で、自分を汚してしまうのではなく、正しい判断をして、自分を誘惑から守り、罪の汚れから身を守ることです。わたしたちはやがて全員、再臨のキリストの前に立たされます。その時、主の前に何と申し開きをするか準備しなければなりません。もし途中で道をそれても、悔い改めて立ち帰るならば救われます。わたしたちは既に福音にあずかっているのですから。

パウロもわたしのために、そのように祈っていて下さるのです。そしてわたしも皆さんのためにそう祈ります。「主よ、清くして下さい。清くなりたいのです。完全にして下さい。」という祈りをやっとするようになりました。イエス様も「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい。」(マタイ5:48)と言われました。また「実に、神の御心は、あなたがたが聖なるものとなることです。」(Ⅰテサロニケ4:3)とパウロ先生も言っています。そしてそのような願いや祈りを、「キリスト・イエスの日=再臨の日まで」に、神は成し遂げて下さるとパウロは確信しているのです。だから感謝しているのです。喜んでいるのです。

パウロはローマの獄屋からこの手紙を書きました。何もできません。遠くにいます。それでも祈りは届き、神様を通して実現するのです。あのフィリピの暗い牢獄でシラスと一緒に賛美をした時に、神様の力強い御手が働いて、牢屋番の魂を救ったように、この手紙を書いている時も牢屋の中で主に向かって、感謝と喜びをもって祈っているのです。どんな時でも、祈りなしには何も始まらないということです。そして、祈りによってどんなことでも起こるという経験が、感謝と喜びの祈りに変えて言ったのではないでしょうか。富里教会も、最初は一つの小さな一家族の集まりから始まりました。その信仰の遺産を私たちは受け継いでいます。そして必ず良い業を始められた方が、キリストの日までにそれを完成させてくださることを確信しています。そのことを覚えて、常に喜びと感謝をもって祈ってまいりましょう。     

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