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船の右側に網を打ちなさい (ヨハネ21:1~14)

メッセージ

2012年4月8日(イースター礼拝)富里キリスト教会
「船の右側に網を打ちなさい
(ヨハネ21:1~14)

1.はじめに

イースターおめでとうございます。今日、イエス・キリスト様が御復活されました。罪と死と悪魔に勝利され、死人の中から復活されました。主は今も生きて、私たちと共におられます。全世界の教会が、今日、イエス様の御復活をお祝いしております。また、市原姉の力強い証をありがとうございます。

2.主は生きておられる

わたしが好きな讃美歌に次のような曲があります。「御子イエス世人のため、 天よりくだりて、罪とが十字架にあがないたまえり、主は生く。キリスト昨日も今日も、われらにともなり、とこしえ新たなる命を与え、主生きたもう。」
(新生讃美歌493)この曲のくりかえしのところの、「キリスト昨日も今日も、われらと共なり」という節がありますが、もとの英語ですとBecause He lives I can face tomorrow Because He lives all fear is gone となっています。

つまり、「イエス・キリストが甦って生きておられるから、私は明日に向かって生きることもできるし、何も恐れることはない。」という意味になります。イエス様が死んで甦ったからこそ、私たちは死も恐れもなく明日という希望を持って生きて行くことが出るのだという英語の歌詞になっております。

そして、最後の歌詞は、Because I know He holds the future, And life is worth the living just because He livesとなっています。つまり、「イエス・キリストが未来を握っていることを私は知っているので、人生は生きる価値があります。それはキリストが生きているからです。」という歌詞になっています。
イエス様が生きているので、明日に向かうことができる。イエス様が生きているので、人生は生きる価値があるのだというこの言葉を、震災で被災した方々に届けられたらと願っております。

イエス様は今も生きておられます。イエス・キリストが甦ったからこそ、わたしたちはこうして教会に集まり礼拝し、賛美し伝道しているのではないでしょうか。イエス様が甦らなかったとしたら、わたしたちの人生はどんなでしょうか。復活がないとしたら、永遠の命がないわけですから、未来もありません。限られた人生、死に向かって生きて行くしかない人生です。人生が死をもって終わりを告げる人生だとしたら、何と空しいことだと思いませんか。イエス・キリスト様が、今も甦って生きているからこそ、私達にも永遠の命が与えられているのです。たとえ地上での生涯が終わりを告げても、復活の朝があるという希望を持って、明日に向かって生きることができるのではないでしょうか。

3.生活の現場におられる

でも実際にイエス様は生きておられます。ヨハネ第一の手紙1:1に「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち命の言について。この命は現れました。」とヨハネが証言しています。復活されたイエス様は、目には見えませんが、聖書を通してイエス様の御言葉を聞き、その働きを体験することができるお方なのです。

今朝も市原姉妹が、イエス様との交わりについて証して下さいました。「最初はスモールグループの食事が楽しみで参加していました。でも回を追うごとに、参加している兄弟姉妹の交わりと学びと賛美、そして共にとりなしの祈りをしたり、悩み事を共有しながら祈りあうというとても大切なことを知るようになりました。そこで励まされたり、元気づけられたりしました。最近は、礼拝も休みがちになって教会から遠のいていましたが、この集まりによってイエス様から離れずにすみました。聖書の中に『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。』(マタイ18:20)という御言葉の通りです。」と。

復活の主は私達と共におられます。聖書から聞くことも、体験することもできるお方なのです。特に主は、私たちが一緒に集まっているところに現れて、十字架と復活が真実であることを確信させて下さいます。礼拝したり、御言葉を聞いたり、賛美したり、祈ったり、証しをする中でイエス様は確かに生きているということを体験させて下さいます。

私の切なる願いは、皆さんお一人お一人がこの復活の主と出会って欲しいのです。日々の生活の中で祈っていますか、聖書読んでいますか、証しをしていますか。教会に来た時だけクリスチャンで、家に帰ったら普通の人、この世のままの生活をして教会だけでクリスチャン生活をしていることはないですか。

実際はいろんな悩みや問題を抱えているのに、何事もないかのように仮面をかぶった偽物のクリスチャン生活をしていませんか。それでは、真にイエス様と出会うことはできません。夫婦げんかの中で、親子との断絶の中で、職場の血みどろの人間関係の中でイエスに祈り訴え、信者同士で助け合ったり励ましたり、涙を流して訴えたりする中で、イエス様は私達に答え励ましながら、一緒に歩いて下さっております。

わたしは皆さんに信仰の経験をしていただきたいのです。教会でいい顔をするのではなく、家の中で本当の自分のままで、御言葉に聞き、祈り、賛美して欲しいのです。そしてそういう良いものを、皆さんは持っています。その良いものを、いろんな教会の奉仕活動とか規則とか事務的なことで覆い隠してしまわないようにして欲しいのです。じかにイエス様に触れる、心の教会生活を体験していただきたいと切に願うものです。それは、皆さんの生活の場で体験するものです。

ある映画のキャッチフレーズに、「事件は会議室ではなく、現場で起こっているのです!」という主人公の言葉がありました。これを言い換えると「事件は教会の中ではなく、生活の現場である家庭で職場で起こっているのです!」ということになります。イエス様は教会にもおられますが、皆さんの生きている現場、家庭、職場、学校、自治会にもおられます。そこで、わたしたちは生きたキリストの体の手足として福音を証し、信仰の戦いをしているのです。

4.失敗の中で待っておられる

ところが弟子たちでさえ、すぐにはこの復活のイエス様のことが信じられませんでした。三度も出会ってようやく信じるようになったのです。(21:14)彼らはともかく、ガリラヤへ行きました。そして、そこで伝道しようとしました。それが今日の個所です。読んでみましょう。

「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロは、ディドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」(21:1~3)

弟子たちは、故郷のガリラヤの海、ティベリアス湖で漁をしました。これは彼らが、もう伝道はやめて、昔の仕事に戻ってしまったというふうに理解することもできます。また、このことを私たちの実生活に当てはめて考えるならば、「漁に行く」ということは、自分たちで伝道しようと出かけたというふうに解釈することもできます。

自分たちの知り尽くしているガリラヤの海です。どこに行けば魚がいるかはだいたいわかります。夜の漁の方が大物が取れます。ところが、自分たちの今までの経験と勘を駆使しても一匹も捕れませんでした。そして、がっかりして岸に戻ってきました。一人も救われなかったのです。伝道は失敗しました。

わたし達もよくこういう経験はします。よし、伝道しようと言って張り切っては見たものも、誰も来なかった。たくさんのチラシを蒔いても、一人も新しい人は来ないと、がっかりしてやる気が無くなります。どうしてでしょうか。それは、聖書を見ますと、主人公が「わたし」「わたしたち」(21:3)になっているからです。自分たちだけで伝道しようとしているからです。

でも、そういう失敗や挫折は誰でも経験するものです。自分たちではできないという経験を通して、初めて伝道の何たるかを知るようになり、主のみ声に耳を傾けるのではないでしょうか。伝道の失敗や挫折の経験の向こう岸で、主が立って待っておられるのです。それが、今日の個所です。

5.右側に網を打ちなさい

次の4節から読んでみましょう。「すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだと分からなかった。イエスが、『子たちよ、何か食べ物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。イエスは言われた。『船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」とあります。(21:4~6)この中の「右側」と「網を打つ」という言葉に注目してみたいと思います。

A.右側に

皆さんの利き腕はどちらですか。たいていは右手です。つまり、舟の右側と言うのは、私たちの利き手である側に、イエス様をお迎えして、自分の力ではなくイエス様の力、イエス様の権威によって、伝道しなさいということではないでしょうか。つまり、私達は長い間伝道していますと、大体の感や経験が働きます。自分の技術や勘でやってしまうことがあります。そうではなく、常に、イエス様を先頭に立てて、イエス様に伝道していただくようにしなさいということです。

それは、祈りと御言葉による伝道です。イエス様の御言葉を先頭にして、祈りつつ伝道する時、そこに大漁と言う大きな奇跡の業が起こるのではないでしょうか。主は、「そうすればとれるはずだ。」と約束して下さっておられます。これは確かな約束です。教会学校、スモールグループ、祈祷会、役員会、そして教会案内配布など、どんな時でも祈って始めましょう。イエス様が先に立ってくださるように。イエス様が利き腕になって、力を発揮して下さるように。これが、「右側」の意味です。

B.網を打つ

次に、イエス様は「網を打ちなさい」と言いました。人間をとる漁師にしてあげようとおっしゃった方は、その漁の仕方を、一本釣りではなく、投網漁でするようにと教えられました。つまり、網を投げて網で囲い込む漁の仕方です。これは何かと申しますと、一人の魂をグループ、クラス、集会と言う交わりの網の中に囲い入れるということではないかと思います。

この福音書の初めのところで、ペトロは網を打っている所をイエス様に見られて弟子になりました。また、ヤコブとヨハネは、網をつくろっている所を見られて、弟子になりました。彼らとイエス様の出会いの姿からも、伝道の働きと役割を見て取ることができます。ペテロは、湖のあそこがポイントだ、あそこに網を打てば必ず魚が取れるという漁労長のような役目を果たして、真っ先に行って網を投げ込む役目です。

ヤコブとヨハネは、網に入った魚が、網の破れ目から逃げて行かないように、網の破れを補修して岸まで引いて行く役目です。魂のフォローと、人間関係の破れを繕う牧会の働きです。みんなの間に裂け目が生じないように、いつも気を配って網目を見守って行く働きです。

イエス様は、ここでは「舟の右側に網を打ちなさい」と言われました。また、ほかのところでは「沖にこぎ出して網を下ろし、漁をしなさい。」(ルカ5:4)とも言われました。その時も大量の魚が入りました。網は私たちの主にある交わりを指しています。共に祈り、共に語り合い、共に御言葉を学び、共に賛美をする、何にも変えられない交わりです。教会で言うならば、教会学校のクラスであり、地域で言うならばスモールグループではないでしょうか。他にも女性会や男性の集いやいろんなグループや集会があります。

6.天国での宴

やがて、私達は、この網を水の中に下ろしたまま、向こう岸つまり天国まで曳いて行って水揚げをします。そこで、岸辺(天国)で待っておられるイエス様と一緒に魚をいただくのです。イエス様は、すでに炭火をたいて待っておられます。そして、イエス様が準備して下さった魚とパンを囲みながら、私達が捕って魚も交えて、天国での楽しい朝の食事が始まります。「さあ、来て朝の食事をしなさい。」と言ってイエス様と共にいただく復活の朝の宴です。これが天国での宴であります。

今日、市原姉妹が証して下さいましたように、この主にある兄弟姉妹の交わりは何にも変えがたいものがあります。生きながらにして私たちは既に、天国での宴を体験しているような思いです。幸い、神様は、この富里の地に教会を建ててくださり、ここを拠点にして、全北総の地に福音の種を蒔くようにと命じられました。そして、今年、富里、成田、八街、佐倉の地に網を下ろすことができるようになりました。私たちの罪のために死なれ、三日目に復活された主が、先に向こう岸に立って私たちを待っておられます。たとえ一匹も捕れなくても、私達に声をかけて励まし導いていてくださいます。このお方の声に耳を傾けて、その御言葉の通りに伝道してゆきたいと願っております。(岡田 久)

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