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自分の体で神の栄光を現わす (Ⅰコリント6:12~20)

メッセージ

2013年5月26日富里キリスト教会

「自分の体で神の栄光を現す」
(Ⅰコリント6:12~20)

1.淫行の町コリント

コリントの町には、女神アフロディーテを祭る神殿に、千人の神殿娼婦が働いておりました。昼は神殿で働きますが夜はコリントの町に出て行って参拝者に性的なサービスをするのです。そのことがますますこの宗教を発展させ、コリントの町もそれで経済的に潤っていました。そういう乱れた宗教と社会情勢の中で、クリスチャンが信仰生活を守って行くことの厳しさと戦いが、この教会にはありました。コリント教会の信徒の中にも、そういう悪い習慣の中で生活してきた人もおりました。6:9節にこうあります。「みだらな者、偶像を礼拝する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません。あなたがたの中にはそのような者もいました。」(6:9b~11a)

コリント教会の信徒の中には、かつてそのような生活の中に身を置いていた者も少なくなかったようです。しかし、イエス様に救われて、信仰の道を歩み始めたのに、そのような社会環境ですから、今までのみだらな生活にきっぱりと別れを告げて、聖なる生活を邁進するということころまでは行かなかったようです。中には、以前のみだらな生活に引き戻されてしまう者もいたようです。ですからパウロは、この手紙の中で何度も何度も性的な誘惑を避けて、聖い生活を送るようにしなさいと書き送っています。

コリントの信徒は、パウロに対してこう言い訳していました。6:12から読んでみましょう。「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ばされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。」(6:12~13)

コリントの信徒はこう反論していました。「パウロの説く福音は、主にあってはすべてが赦されているという教えではないか。そうであれば、我々クリスチャンもすべてのことが許されている。人間の腹は、食物を食べるためにあるのだから、この人間の体も性行為のために存在するのではないか。女は男のために男は女のために、人間にこの体を与えてくれたのではないのか。」と。人間の食欲と性欲は同じだから、どうして男女の自由な性的関係を否定するのかというのです。

また、当時キリスト教に入ってきた異端的な思想の中に、グノーシスというものがありました。これは、人間は霊と肉の両方からできている二元論的な考えでした。従いまして、信仰とは人間の霊の問題で、肉体はそれをつなぎとめている牢獄のようなものだというのです。その結果、極端に自分の肉体を痛めつけて禁欲主義に走ったり、逆に肉体をその本能のなすがままにさせて、内側の
霊的な部分だけの純粋性を守ればいいという快楽主義の両極端に走ってしまいました。

2.主は私たちの体のために復活された
 
パウロはこう言っています。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によって私たちをも復活させて下さいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。『二人は一体となる』と言われています。」(6:13b~16)

パウロはイエス・キリストを信じた者は、キリストの体の一部になったのだということを訴えました。なぜなら、キリストが十字架に架かったのは、私たちの罪の贖いのために十字架にかかったのです。それは、ただ単に私たちがキリストの血によって罪あがなわれ、霊的な意味でだけ清められただけではなく、キリストの復活によって、私たちの罪の体がキリストの復活の体に等しくなるようにさせてくださったのです。ですからパウロは、14節で「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させて下さいます。」と言っているのです。

言い変えると、この「罪に支配された体」(ローマ6:6)が、この「死に定められたこの体」(ローマ7:24)が、この「卑しい体」が(フィリピ3:21)、この「肉の体」が(コロサイ2:11)、キリストの十字架によって滅ぼされて、キリストと共に霊の体に復活させられたということです。すでに私たちは、キリストにあって罪と死の体に勝利し、キリストにあって新しい霊の体に生きる者とされているのです。

ですからパウロはローマ書6:11でこう言っています。「このように、あなたがたは自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に捧げなさい。」(ローマ6:11~13)と。

わたしたちは、復活されたキリストの体の一部分とされたのです。そのためにバプテスマを受けて、この教会の一員となったのです。それはキリストの体である富里キリスト教会の一員であると同時に、復活されたキリストの霊の体の一部分でもあるということです。バプテスマや、主の晩餐式はそういう霊的な意味を持っています。教会の中心はキリストの流された血潮と裂かれた肉です。
キリストの体です。

ですから、パウロは「あなたがたの自分の体が、キリストの体の一部だということを知らないのか!その聖なるからだを娼婦、売春婦の体と一体とさせ、汚してしまっていいのか。」と厳しく叱っています。この娼婦と交わる、即ち売春婦とお金を払って合法的に性交渉を持ったとしても、あなたのその体は、売春婦と一体となるのですよ、そんなことをして自分の体だけではなく、あのキリストの聖なるからださえも汚してしまってもいいのですかと厳しくとがめています。

3.体は聖霊の宿る神殿です

最後に17節から読んでみます。「しかし、主に結びつく者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかしみだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(6:17~20)

パウロはこう言っています。「人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。」と。これはどういうことでしょうか。人が犯すいろいろな罪は体の外で行われることですが、自分の体に触れない罪はいいということでしょうか。これは、どんな罪も、体そのものに対する罪も同じように罪には変わりありませんが、とりわけ自分の体に関する罪は、重大な結果を及ぼすということではないでしょうか。

この18節の現代訳聖書を読んでみますと、こうありました。「不品行を避けなさい。他の罪は体とは関係ないが、不品行は、体と関係があって、キリストに対して直接害を加えるものである。」と訳しています。つまり、体に対する罪は、わたしたちの体がすでにキリストの所有物であり、キリストの尊い血潮で贖い取られたものであるので、この体に対する罪を犯すことは、直接にキリストの体そのものに不品行を行い、キリストの体を汚してしまうということです。キリストの体も、一緒に罪に引きずり込んでしまっているというのです。

実際に、もし結婚している者が、不倫をして自分の体に対して罪を犯すならば、おそらく自分だけでは済まないでしょう。夫婦関係を壊し、家庭を破壊し、引いては教会をも汚してしまうことになります。その結果、家族とも別れ、教会からも除籍され、最悪の場合には、信仰そのものまで失くしてしまう結果となりかねません。それほど、この体に対する罪は影響が大きいということです。だから体に対する罪は、十分に気をつけなさいと言っているのです。みだらな行いを避けなさい、いや逃げなさいと警告しています。

私も、自分の体に対するみだらな行為や不品行がこんなにまで、キリストの体までおとしめてしまうものであるかということには正直気がつきませんでした。今回、みだらな行為、不品行がこんなにまで主を貶めるものであるかということに初めて気がつきました。それだけ、わたしたちの体はキリストの血という大きな代価を払って買い取られたものなのです。

それは単に、教育的な倫理的な意味だけではなく、実際に現実のものとして、この私たちの体はバプテスマを受けてキリストの体と一体にされているということなのです。しっかりと結ばれているということなのです。もしこのまま、いかがわしい場所に行くならば、イエス様も一緒に行くことなのです。みだらな行為をするならば、イエス様にも同じようにさせているということなのです。だから、自分の体を汚すことはやめて、むしろイエス様が喜ばれるように、また私の内にいる聖霊様が喜ばれるようなことをしなさいと言っています。

聖霊の宿る神殿としての体となるためには、やはり祈りが必要です。賛美も大切です。感謝と喜びも大事です。賛美と感謝と喜びをもって、主に礼拝を捧げることです。これが聖霊の宿る神の神殿としての私たちの本来の体なのです。最後に有名な御言葉を読んで、今日の説教を閉じたいと思います。「兄弟たちよ、そういう訳で、神の憐みによってあなたがたに勧める。あなたがたの体を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それがあなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1口語訳)私たちの霊だけではなく、心だけではなく、私たちの体そのものを聖なる供え物として献げて行きましょう。                         (岡田 久)

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