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肉にあって神を見る (ヨブ19:11~29)

メッセージ
2017年10月8日富里キリスト教会

「肉にあって神を見る」
(ヨブ記19:11~29)

この19章の11節から29節まで分類するとしますと、三つの段落に分けることができます。11~24節までが「十字架のキリスト」、25~27節までが「復活のキリスト」、そして28~29節までが「再臨のキリスト」です。いわばイエス・キリストの十字架と復活の出来事が、ヨブの苦難とその叫び声を通して、預言されていると言ってもいいのではないでしょうか。

そしてこのヨブ記の「義人の苦しみ」というテーマが、詩篇22編の「わが神わが神なぜわたしを、お見捨てになったのですか。」という詩人の叫びへと繋がり、それが第二イザヤの53章の「主の僕の苦難と死」の預言へと繋がって行きます。そしてこの旧約聖書の義人の苦しみという大きなテーマが、あのイエス・キリストの十字架の苦しみによる救いへと繋がって行くのです。そういう意味で、このヨブ記19章の24~27節の御言葉はとても大切な言葉とされています。

1.十字架のキリスト

「神はわたしに向かって怒りを燃やし、わたしを敵とされる。その軍勢は結集し、襲おうとして道を開き、わたしの天幕を囲んで陣を敷いた。神は兄弟からわたしを遠ざけ、知人を引き離した。親族もわたしを見捨て、友達もわたしを忘れた。わたしの家に身を寄せていた男や女すら、わたしをよそ者と見なし、敵視する。僕を呼んでも答えず、わたしが彼に憐れみを乞わなければならない。

息は妻に嫌われ、子供に憎まれる。幼子もわたしを拒み、わたしが立ちあがると背を向ける。親友のすべてに忌み嫌われ、愛していた人々にも背かれてしまった。骨は皮膚と肉にすがりつき、皮膚と歯ばかりになって、わたしは生き延びている。憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか。なぜ、あなたたちまで神と一緒になって、わたしを追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか。」
(ヨブ19:11~22)

わたしは、ヨブが何も神の前に罪を犯していることがなかったにもかかわらず、突然の苦しみを背負わされたと言うことは、決して彼が何か神の前に隠し事があったり、罪を犯していたからではないと思います。まさに彼は真面目で、信仰深く、神の御心に従って、何一つ落ち度なく生活していたに違いありません。でも神様は、そういう義人ヨブをサタンの手を通して突然の不幸に陥れました。ヨブが神に向かって自分の運命を呪い、自分の正しさを主張することには理があったと思います。

わたしはそういう苦難は、誰にでも突然やって来ると思います。何の理由もなく襲って来ます。新約聖書のペテロ第一の手紙4:12にこうあります。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」(Ⅰペテロ4:12~13)

苦難は正しい人に突然にやって来ます。悪い人や罪を犯している人にやって来る苦難は苦難とは言いません。それは懲らしめのための罰です。当然の報いです。悔い改めさせる神の愛の表れです。クリスチャンは、罪を犯してしまって懲らしめの罰を受けるよりは、義人の苦しみ、突然何の理由もなく襲って来る苦難を受けるべきです。なぜなら、それはむしろわたし達が最後にはキリストの栄光が現され、喜びに満たされる時のための苦難だからです。

苦難のない信仰生活はありません。そしてそれを避けることもできません。神様はわたしたちを苦難を通して聞く耳を開いて下さり、苦難を通して真の祈りを教えて下さいます。「だから、苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役に立たないのです。」(36:19)なぜなら神様は愛する者をそのようにして訓練するからです。信仰者の苦難は、神様の愛の鞭と言ってもいいのではないでしょうか。ですから、新生讃美歌559番にありますとおり、わたし達は「来たれ、来たれ、苦しみ、憂き悩みもいとわじ、いさみ歌わん、主を愛する、愛をば、愛をば。」と歌うのではないでしょうか。

ヨブの苦難こそ、神による取り扱いを受けた者の愛の苦難、聖なる苦難ではないかと思います。イエス様でさえ、御自分が十字架の上につけられた時に、「何故、わたしを見捨てたのですか!」と父なる神に向かって叫び声をあげました。ヨブは自分の苦しみの叫び声を通して、図らずもやがて来たるべき神の救いの道を表していたのです。それは罪のない真の義人の苦しみによって、神の救いがなされる、すなわち世の罪の赦しが宣告されると言うことです。

つまりなぜこの世に苦しみがあるのか、悲しみがあるのか、不条理が存在するのか、という全人類の問いに応えるための神の救いの予告だったのではないでしょうか。そして神はこのヨブの叫び、それは人類が持っている叫びです。その答えを、ヨブ自身の生きざまとその発した言葉を持って応えようとされていたのではないでしょうか。「神がいるなら答えてくれ。この矛盾、この不条理、この苦しみの意味は、その答えはどこにあるのか?」というすべての人間の問いかけでもあったのです。

2.復活のキリスト

そしてそのヨブの問いかけの最大の答えが、次の25節からのキリストの復活を願い求める叫びとなっています。それはたとえこの体が滅んでも、また全財産を無くしても、自分の苦しみが報われてやがては全く新しい世界で、神を見、神と共に生きる時がやって来る、その日を希望を持って待ち望むヨブの信仰です。もはや、この世の富や財産、家族や地位や名誉ではなく、そしてこの体の健康でもなく、全く別な世界で、この時の苦しみが全て報われる日が来る、この苦しみには意味があり、その苦しみが報われる時が来ることを待ち望んだのでした。それが、25~27節の御言葉です。

「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」(19:25~27)

先週、画像で見ましたように、ヨブは灰の中からの天に向かって祈りの声をあげています。それは、たとえこんな目に会って、人々から見捨てられ、惨めな姿で一生涯送るようなことがあっても、自分のこの体をその存在を丸ごと抱えて、慰め助けて下さるお方が、必ず生きておられると言うこと。そしてそれはヨブが信じ慕い死ぬほど焦がれている神御自身が存在すると言うことを信じていました。

わたしの罪も汚れも苦しみも、一切をご存じあられ、自分の身分も存在も全てを回復させて下さるお方がおられると言うことを信じておりました。そういう方が必ずこの世に来て下さる。自分はたとえ死んで塵と灰に帰ってしまうようなことがあっても、この体を持って再び神を仰ぎ見る時が来ることを信じてやみませんでした。神様はそういうお方だと言うことをヨブは、信じていたのです。ただいたずらに人間を苦しめ、一切を灰に帰してしまうお方ではなく、この苦しみに意味を与え、この苦しみを通して神のことが解るようにして下さると言うことです。そしてこの苦しみが、苦しみに終わるのではなく、やがて希望の光へと変わって行くと言うことを信じていたのです。

わたしたちの罪を贖うお方は、生きておられ、やがて来て地上に立って下さる。そういう確信がヨブにはありました。ですから、自分がたとえどんな状態の中にありましても、自分のこの苦しみを丸ごと負って下さり、この苦しみをやがて喜びに代えて下さるお方がきっと生きておられる。自分の正しさを証明して下さり、自分の側に立って、共に呻き苦しみ、この苦しみの弁護をして下さる方が来て下さることを待ち望んでいました。預言者イザヤも、その方の到来を預言しました。(イザヤ書53章)その方はやがて必ずこの地上に来られ、この塵の上に立って下さる。塵とは人間のことです。そしてこの人間を御支配し、正しく裁いて下さる方がおられると言うことを知っていました。ですから、彼は今のこの苦しみを耐えることができるのです。

ヨブは、「この皮膚が損なわれようとも、この身をもって神を見る」(19:26)と言っています。ある人はこれを、死んでから天国での新しい体をもって神と相見えることだと言っていると言います。またある人は、「この身」ですから、この病いに侵された肉の体を持ったままで、神を仰ぎ見る、すなわち神の救いを目の当たりにするということです。この体のまま、生きたままで、神の回復を体験すると考える人です。共同訳聖書では、「この身をもって」と訳していますから、この病の体のままで、やがて神の救いを体験することを預言しています。実際、ヨブはこの後、つむじ風の中から神と出会って、心からの悔い改めをして、以前よりも多くの財産と家族に恵まれるという最後になっています。ですからこの身をもって、あるいは今日の宣教題のように「この肉体にあって神を見る」と捉えるのが正しいのではないでしょうか。

ヨブはこの人間の人生を超えた彼方に、復活の新しい世界があることを、灰の中から信じて仰ぎ見ていました。たとえ生きていようが、死んでしまおうが、大事なことは、自分の罪を贖い、救いを成し遂げ、新しい命へと導きだして下さるお方が存在すると言うことです。そのお方をわたしたちは、この肉の世にあって待ち望むのです。ヨブがどんなにかその方の到来を待ち望んでいるのかと言うことが、最後の「腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」という言葉が表しているのではないでしょうか。ここにヨブの真の信仰があります。

3.再臨のキリスト

そして最後に、ヨブの言い分を責め立てた三人の友人に対する、神の裁きの言葉が述べられています。「『我々が彼を追い詰めたりするであろうか』と、あなたたちは言う。この有様の根源がわたし自身にあると、あなたたちは言う。あなたたちこそ、剣を危惧せよ。剣による罰は厳しい。裁きのあることを知るがよい。」(19:28~29)

ヨブの苦しみの原因は、ヨブが罪を犯したからだと言って、どこまでもヨブの中にその原因を見つけ出そうとする三人の友人に対する警告です。彼らは、ヨブの苦難の意味を正しくとらえてはいませんでした。どこまでも、苦しみの原因を、本人の罪の中に探そうとしてヨブを責めていた友人こそ、間違った信仰理解をしていたのです。

「お前が罪を犯したから、神の罰を受けたのだ。だから十字架に架けられたのだ。もし罪を犯していない正しい人間だったら、自分で自分を救ってみろ」と言っている々です。これは、あの十字架を囲んでキリストを非難した人々の言い分です。そう言う自分は正しい人間だ、だから神に守られ祝福されていると考えている人、自分を義とする人は、最後に主の再臨の時に裁かれると言うことをヨブは警告しています。

ヨブは自分の苦難の人生を通して、その苦しみを通して、この問いに答えて下さるお方を指し示しておられます。その方はまだ旧約聖書には見えて来ませんが、ヨブははるか彼方から、自分の罪を贖い自分のこの苦しみの中にまで降りて来て下さる神を見ておりました。神は高みにいます方ではない、わたしたちと同じ肉を取ってこの世に来て下さり、自分と一緒にどこまでも嘆き苦しんでくださるお方だという信念を持っていました。ですから「この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。」(19:27)と言っています。

そしてこの義なる方の苦しみによって、わたしたちの苦しみを贖い取って下さり、わたしたちの神の平安と喜びを回復して下さるお方だと言うことを信じていました。これがヨブの信仰の生涯ではないかと思います。「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようと、この身を持って私は神を仰ぎ見るであろう。」(ヨブ19:25~26)この信仰をもって、わたしたちも歩んで行きたいと願っています。            

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