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聞け、イスラエル (申命記6:4~9)

メッセージ

2011年11月6日富里キリスト教会
「聞け、イスラエル」
(申命記6:4~9)
1.聞け、イスラエルよ

六十歳のことを「耳順(じじゅん)」というのだそうです。人から聞いたことを理解し、何の差しさわりもない境地に至るということです。人生、聞かないことによって生じるトラブルが多いからです。自分の現実を見る時に、六十歳になっても、なかなか聞くことのできない自分だということをいつも思い知らされています。家内が話している時、どうしても何かほかのことをしながらうわの空で聞いてしまうのです。そうすると、「あなた、動き回らないで、ちゃんと話を聞いて!」と言われてしまいます。孔子の耳順にならいたいものです。

私たちの人生の中で、ともするといろんな神々に願い事をする時があります。八百万の神々に囲まれていますから、その都度その都度、人生の節目、節目で必要に応じて神頼みをするのが日本人の習慣になっています。受験の時には受験の御利益のある神社へお参りに行き、出産の時には安産の神様へ、子供の成長を願って七五三、厄払いをしてもらいに神社に行く。いろんな所へご利益のありそうな場所を探してお参りに行きます。ご利益の神様で、人間の必要の数だけ存在しているのです。

人間は、自分の願い事を実現させるために熱心に神頼みをします。願いがかなわなければ、信心がないと言って、どんどんエスカレートさせて、自分の体を傷つけたり、自分の子供さえ犠牲にしたりします。別の神様に鞍替えしてしまうかもしれません。なんとしてでも自分の要求を実現させようと、まるで神様を打ち出の小づちのように、自分の意のままになる神にしようとします。あちこちの神様を尋ねます。ご利益の値踏みをして、どうもあっちの方の神様の方が効くみたいだという会話をしたりします。

これはみな人間の必要から生まれた神々です。人間が主人です。これを偶像礼拝と言います。イスラエルの民が、これからいよいよカナンの地に入って行こうとする時に、モーセはもう一度、あなたがたは自分たちの必要のために、神々を造ったり、自分に必要な神々のところへ行ってはならない。神は唯一の主であるのだからと言いました。申命記6:4で「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。」と言っています。ですから、信仰というのは口で願い事を言うのではなく、まず、耳で神の言葉を聞くことが大事です。神が主人であり、神が語り、私たちは聞くのです。

唯一というのは、父子御霊なる三位一体の唯一の神であります。人間の願望や願いや感情によって左右され、言いなりになる神ではないということです。人間がいなければ、神様もお参りする人が来なくて寂しいのではないかというような神ではないのです。神は、神御自身で存在しておられ、人間の手助けや供え物で支えられているのではないのです。永遠にいます神であり、愛の神であり、霊なる神、万軍の力の神なのです。

2.主を愛しなさい

次に申命記6:5の御言葉を見てみたいと思います。これは、新約聖書でも、イエス様がよく尋ねられた言葉です。マルコ12:28節から、この申命記の御言葉を引用したお話が出ております(マルコ12:28~34)。一人の律法学者がイエスのもとに来て「掟の中で、どれが第一か」と尋ねました。するとイエスがこの申命記の言葉を引用して「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と答えられました。

いわば聖書の中で最も大切な教えは何かと言われたら、この申命記6:4~5の御言葉であると言われたのです。クリスチャンなら誰でも知っている御言葉です。そして誰でも主を愛したいと願っています。しかし、ここで注目していただきたいのは、「主を愛しなさい」という言葉の前に、「聞け、イスラエルよ」という言葉があるということです。

ですから主イエスはこの律法学者に、「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。神の国に近いがまだ入っていないというのです。あと数パーセント足りないのです。それは、一番最初に言った「聞け、イスラエルよ!」を抜かしていたからです。イエス様は聞く耳、聞く信仰を求めておられました。ですから、カナンの女やイタリヤの百卒長が、「お言葉をください。」といった時、イエス様は「これほどの信仰をイスラエルの中に見たことがない」と言って関心されました。

つまり主を愛する前に、あるいは主を愛する前提として、まず最初に「聞く」ということが必要ではないかということです。もう少し言いますと、主を愛するということは、第一に、主の御言葉を聞くということではないかということです。聞くことが前提となって愛することです。主を愛するということは、主の御言葉を聞くということが前提となって成り立つことだということです。主の御言葉を聞くことなしに主を愛することはできないといっても言い過ぎではありません。

人間関係においてもそうです。夫婦においても、親子においても、相手が自分に愛情を持っていると感じる時は、自分のことを十分に聞いてくれる時です。聞くことにはそれだけ大きな力があります。自分の話を聞いて解ってもらえるだけで、どんなにかその人を励まし慰めることになるかということです。聞くことは人をいやし、命を与えるほどの力があります。行動で示さなくても、相手を見てじっくりと話を聞いてあげることが大切です。ですから、神様は私たちに、この聞くということを最初に教えたかったのではないでしょうか。

3.子供たちに語り聞かせなさい

最後に、最も良い聞く環境は何かと言いますと、子供に語り聞かせることです。
「今日わたしが命じるこれらの言葉を心にとめ、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(申命記6:6~7)

御言葉は、ただ聞くだけではなく、自分の心に留めて、それを自分の子供に語り聞かせる必要があります。しかも一回だけではなく、何度も何度も繰り返して教えなければ身について行きません。しかも座っていても歩いていても、外出していても家にいても、眠っていても起きていてもですから、自分の全生活の中で神の御言葉を証してゆくことです。生活場面ですから、教える親の方も大変かもしれません。子供に良いことを言っていながら自分は、自分はその通りに生活していなければ教えることにはなりません。

そして何よりも語ることによって、逆に自分が御言葉に聞いているかどうかが問われます。教会にいる時だけクリスチャンで、教会学校の時だけ教師で、家に帰ったら普通の人という二重生活は、ここでは通用しません。それは御言葉を聞いていないことになり、主を愛していないことになります。「家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも」です。

4.家の門にも書き記しなさい

最後にもう一つ大切なことがあります。8節からですが、「さらに、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(6:8~9)つまり、家の中、家族だけではなく、この「聞け、イスラエルよ」という言葉を、自分の家の玄関の入り口や門柱に張り付けなさいというのです。

クリスチャンでも、なかなか家族にも、町内会や自治会にも自分たちはクリスチャンですということを証しするのに抵抗を感じている方が少なくありません。でも、いったん自分のことを明らかにした方が気持ちの上でもさっぱりします。生き方も、前向きになります。旗頭を鮮明にするということです。町内だけではなく、職場や学校でも同じです。そうしますと、意外にもあちこちに仲間がいるものですし、また神を求めている人がいるものです。

全身全霊を持って主に聞いてゆくならば、きっと主が証のタイミングを示して下さると思います。子供に教えることも、また霊的な幼子を御言葉を持って養うことも、そして人々に大胆に主を証してゆくことも主の御心であります。それは主の御言葉から来ます。聖霊の光によって真理が私たちの心を照らしてくださるとき、確信が与えられます。主が「聞け、イスラエルよ。」とおっしゃっておられますから、御言葉を求めて祈りましょう。「主よ、お語り下さい。」「主よ、あなたの御言葉を聞かせて下さい。」と。      (岡田 久)

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