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聞く力 (マルコ4:1~20)

メッセージ

2015年1月11日富里キリスト教会

「聞く力」
(マルコ4:1~20)

1.たとえ話の意味

ミレーの絵に「種まく人」という有名な絵があります。これはフランスの地方の一人の農夫が、広い畑に向かって力強く種をまいている姿を描いたものです。皆さんも見たことがあると思いますが、この絵をよくよく見てみますと、種まく人の左側には、空から烏でしょうか鳥が一斉に地面めがけて急降下をしながら、蒔いたばかりの種をついばんでいるのが描かれています。そして右側には、もう一人の農夫が牛を使って畑を耕しているのが描かれています。

この絵は、聖書の中のこのマルコ4章の「種まき」のたとえ話から、ミレーがインスピレーションを受けて書かれたと言われています。本当に力強い絵ですが、クリスチャンが見るとなるほどなあと思わせるものがあります。それは、今日の聖書の中に、「種をまく人が種を蒔きに出て行った。」「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」(マルコ4:3、14)とありますように、神様が、命の種を地面に蒔くわけです。しかし、ある種は烏についばまれ、ある種は途中で枯れてしまい、ある種はなっても実をつけなかったりしたとありますように、いろんな種の運命がそこに述べられています。そしてミレーも、このたとえ話のような内容の絵を描いたわけです。絵画ではありますが、メッセージをもった絵なのです。

中央の種を蒔く人は、イエス様、そして蒔かれている種(絵の中ではそばの種ではないかと言われています。)は、聖書の御言葉、聞いている私たちの心がいろんな地面として描かれています。わたしがこの絵を見ていて気付いたことですが、絵の中の農夫が蒔いている地面は斜めになっています。左側が高くなって右側が低くなっています。そして右側の方の空が明るくなって、左側の方の空が暗くなっています。これは人間の心の状態を示したものではないかと思います。つまり高い心、高慢な心をもった者は、この神の御言葉の種を受け入れません。種が地面に入っていきませんから、鳥が来て次々についばんで行ってしまうわけです。一方、下の地面は低い心、へりくだった柔らかい地面ですので、農夫が来てさらに耕し柔らかくして、種が成長するようにして下さるのではないでしょうか。

ですから、わたしたちクリスチャンは、聖書のたとえ話を真剣に見つめて考え、思い巡らすことによってそこに隠されている秘密を悟ることが大事なのではないでしょうか。ミレーの絵を美術館で見て、「あ、上手だなあ、でもどっか暗いなあ。」と簡単に考えて通り過ぎてしまうか、絵の前で足を止めて真剣に考え込んでしまうか、それはその人その人の受け止め方次第です。聖書もそうです。じっくりと考えて読むかどうかです。御言葉を真剣に聞くかどうか、そしてそれに従うかどうか、それが今日の宣教題の「聞く力」(4:33)ではないでしょうか。そして、聖書のたとえ話も、簡単に読み過ごしてしまうか、悩んで考え込んでしまうか人それぞれだと思います。

イエス様のたとえ話も、奇跡物語もそれをどのように理解し実践するかに天国の秘密が隠されているのです。つまり、イエス様の御もとに行くには、このたとえ話や奇跡といった物語の言葉の橋を渡らなければ、そちらに行くことができません。ですからイエス様は何度も「良く聞きなさい。聞く耳のある者は聞きなさい。」(4:3、9、23、24)と注意勧告しています。そして、「ただ聞くだけで認めないような鈍い人にならないように、また聞くだけで理解をすることができない人にならないように注意しなさい。」(4:12)と警告しています。

パウロも「信仰とは聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)と言っています。バプテスマを受けたとか、教会員になったというのはあまり関係ないような気がします。信仰はそういう手続き上のことではなく、「聞き続けること」だからです。「信仰とは聞くことです」とパウロが言っているとおりです。少し言い過ぎかもしれませんが、聞かなければ、信仰がないと言っても過言ではありません。それをこの種まきのたとえが言っているような気がします。

もし「あなたが『余命三カ月です』と宣言されたとしたら、読みたい本は何ですか。」というアンケート調査があったそうです。当時いろんなベストセラーがあったそうですが、何と第一位になったのが、「聖書」だったそうです。ですから、どうか「あなたは余命三ヶ月です」と言われなくても、皆さんせいぜいあと十年前後ですから、人生で一番読みたい本である聖書を取り組んでいただきたいと思います。天国への確信をしっかり持って、喜んで死を迎えるためにもです。クリスチャンには聖書が一番に会いますし、牧師には説教が一番似合います。クリスチャンが聖書を手放したら、バプテスマを受けたとしてもただの人です。また、牧師が説教をおろそかにしたら、一信徒に過ぎません。読み続けるのです。語り続けるのです。聞き続けるのです。それが天国です。

2、種まく人のたとえの意味

まず第一に「道端に落ちた種」というのは、地面が固くて土の中に種が入りませんから、むき出しになっています。すると鳥がやってきてその蒔かれた種をついばんで行ってしまいます。これはどういう意味かと言いますと、せっかくみ言葉の種がまかれても、ただ聞くだけで、その御言葉を受け入れようとも信じようともせずにそのままになっているので、サタンが来てその御言葉を奪い去って行ってしまいます。先ほども言いましたが、高慢な心、たがぶった心、聖書の御言葉なんか関係ないと思っている人です。

二番目の種は、「石だらけの地面」に落ちました。ちょうど教会の駐車場のような場所です。地面のすぐ下には約30センチのバラスが敷いてあります。この地面は、どういう人のことかと言いますと、いっときは喜んで御言葉を受け入れますが、自分の心の中に御言葉の根がないので、夏の日照りになるとすぐ枯れてしまう人のことです。つまり、教会の中や信仰生活の中で、患難や試練や迫害が起こるとすぐに人につまずいてしまう人のことです。根のない信仰と言った方がピンとくるかもしれません。こういう人も多いです。あの人につまづいた、牧師につまずいた、役員につまづいた、あれでもクリスチャンか、そんなの教会じゃないとつまずきっ放しです。

み言葉が根を十分に伸ばして栄養をとることができるように、自分の心の中にある石のように固い心、自我というものを砕いていただく必要があります。また、自分の心の中に隠されている罪を、主の前に告白してイエス様の十字架で砕いていただくほかありません。心底、心からの自分の罪の悔い改めが求められます。相手の罪や弱さではなく、自分の中にある罪をまず認めることです。

そして三番目の種は、「茨の地面」に蒔かれた種です。そこの林の下のような土地です。地面は腐葉土ですから、種は土の中に入って行きます。そして芽も出て来ますが、周りを高い木に囲まれたり、雑草がいっぱい生えていますので、太陽の日が差し込みません。ですから、芽を出して伸びてはきますが、肝心の実をつけるまで行かないのです。

そしてこのいばらの地面と言いますのは、御言葉を聞くけれども、人生の思い患いや富、快楽の誘惑に負けて実が熟するまでに至らない人のことを指しています。茨や雑草が覆いかぶさって、太陽の光を防いでしまい、収穫がないのです。芽がまっすぐ上に向かって伸びて行くことができないのです。この世の事にかかわりすぎているからです。富や財産管理、家族の悩みや子供心配、数え上げればきりがないほどあります。心配事と自分の欲望です。

皆さんの心は、今どんな土地ですか。御言葉の種を頑としてはねつけていますか。あるいは、心の中に大きな石を抱えて、悩み苦しんでいるでしょうか。いろんなことに気が散ってしまって、聖書の御言葉に専念できずにいるでしょうか。どうしたら、第四番目の御言葉を聞いて受け入れて、豊かに実を結ぶ良い地になって行くことができるでしょうか。それが今日のテーマです。

3.良い地に蒔かれた種

イエス様は、良い地に蒔かれた種についてこう説明しています。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(4:20)とおっしゃっております。良い土地の心を持った人とは、御言葉の種を聞いて受け入れる人たちであると言っています。そしてそういう人は、三十倍、六十倍、あるいは百倍もの実を結ぶと言っております。

他の福音書では、この良い土地のことをこう言っています。ルカによる福音書では「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人である。」(マタイ13:23)またルカは「良い土地に落ちたのは、立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」とあります。ですから、良い地とは、たとえ話を聞いてその意味を悟り、その教えをしっかりと心に留めて、それを忍耐して生涯守り続ける人のことではないでしょうか。

実を豊かに結ぶために、何か自分で一生懸命、あれをするこれをするというのではなく、まず第一に御言葉をしっかりと心に納めることです。自分が実をつけて行くことではありません。命の言葉であるイエス様御自身が、わたしに心の中で段々と成長して下さるのです。このお方が大きくなるのです。このお方が実をつけてくれるのです。私たちはただしっかりとこの御言葉の種を聞いて受け入れるだけなのです。生涯、御言葉を離さないということです。

昨日の教会の聖書日課は、詩篇に入りました。皆さん読まれたでしょうか。詩篇第1編に「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡りくれば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて繁栄をもたらす。」(詩編1:2~3)とありました。昼も夜もその教えを口ずさむとあります。これが御言葉を聞いて受け入れる人です。御言葉を離さない生き方です。御言葉を聞く心です。御言葉を蓄える心、御言葉を喜ぶ心です。そういう人はいつまでも、生き生きと命にあふれ、豊かに実をつけて行くとあります。

どんなことがあっても、この御言葉の種を聞いて心に受け入れることです。しかも真剣に聞くことです。夜も昼もその御言葉の意味を思い続け、考え続けることです。そしてその御言葉に従うことです。生涯離さないことです。そうしたら、自分の心をふさいでいるこの世のいろんな思い煩い欲望も払いのけてくださるのではないでしょうか。御言葉にはそういう力があります。時間がかかるかもしれませんが、やがて豊かに実をつけて、その命の種を蒔く人に造り変えて下さるのではないでしょうか。そういう地面、そういう心を持つ者になりたいと願っています。

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